3月11日、あなたは何をしていましたか?。
もう思い出したくない人・未だに思い出したくない人もいるでしょうけど。
その時私は・・・。
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その時救急医である私は、救急患者がいなかったので、デスクの前でパソコンを見ていた。
突然の経験した事がない非常に時間の長い大地震。
以前から地震の時は、すぐにテレビをつける習慣があり、つけてみた。
2012年7月、陸前高田市にて
読売テレビ(大阪)発信の「ミヤネ屋」が放送中で、日テレ(東京)から中継の最中であった。
日テレ女子アナウンサーは、興奮しながらもアナウンサーとして視聴者へのマニュアルと思われる地震の際のアナウンスをされていた。
司会者の宮根さんも驚いている。ただちに放送は日テレからのみの発信となった。
近くの診察室のパソコン周辺機器は床へ落下していた。
医局部長室はまさに足の踏み場もない程、床は落ちた本だらけであった。
素早く自宅に電話した、その時はまだ電話は通じた。
1人で留守番をしていた当時小学1年生の息子は無事で、怪我もなく落ち着いていた。
「花瓶が壊れたけど、僕のせいじゃないからね(>_<)」、息子には余裕がありそうだった。
その後、電話は通じなくなり実家の盛岡とは連絡がとれない。
妻に送ったメールは何日か経ってから、ようやく開く事ができたようである。
間もなく、救急患者さんが搬送。この時も余震と言うには強すぎる中での診察。
地震により庭先で転倒し後頭部を打撲し、心肺停止状態の男性。残念ながら命を救う事はできなかった。
死亡確認後、全身のCT検査で死因検索(Ai)を行なった。
検査前は頭部外傷が原因かと思われたが、頭蓋内出血はごくわずか、胸部・腹部CTには外傷による損傷は認めなかった。
脳外科医にも画像を診てもらったが、やはり死亡する程の頭部外傷ではないと判断された。
死因は『外傷性ショック』とした。
長年、救急医療を行なってきたが、外傷性ショック死は初めての経験であった。
ちなみに戦場などではよくあることらしい。
一般の電話は通じないが、警察には電話が通じて、死亡者の連絡を届け出た。
当時私が所属していた病院は、千葉県野田市内唯一の救急病院。
電話が通じない事は、市内の救急業務に支障をきたすため、野田市消防本部は救急救命士を1名院内に待機、救急搬送には昔ながらの無線で連絡をとることとなった。
外傷患者は、これ以上は来なかった。
PM5時、勤務終了後、ただちに帰宅、裏道を駆使しながら自宅へ。花瓶が壊れていた以外に、本棚が横になっていたが、大きな被害はなかった。
テレビをずっとつけていた。
何だあの黒い津波は!、海の水の色に驚いてしまった。
深夜までテレビを見続けた、次々にわかってくる被害状況、・・・言葉がなかった。
(ネットより引用)
医師として被災地に助けに行きたいと思った。
病院側からは、今後被災地からやってくるであろう人たちを助けてほしいと言われた。
後日、岩手県知事で元同級生の達増拓也(たっそたくや)君の名前で病院側へ、被災者が来院した際の支援のFaxが届いていた。
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尚、「津波が来たら神社に逃げろ」という昔からの言い伝えがある。
大昔に神社を作った人たちが、1000年に1度の大震災を予想できるわけがないが、震災では神社の前で津波が止まったそうである。
→『大地震後の津波の被害を受けない神社仏閣の秘密』
2015年5月の同窓会にて
さてその当時私は、被災地で医師として助けたいと思っている反面、5年前の当時の私は男性更年期の治療中で、今と違って健康にも自信がなかった。
当時、私が被災地にいたとしたら、果たして私はどうなっていたのだろうか。もちろん必死に生きていくしかないのだが・・・。
しかし、これだけでは終わらなかった。
「その2」では、その時あの現場に最も近い人たちの、実際にあった出来事を投稿した。
→『原発事故:その時、まさに現場の真っただ中にいた人たちは・・・』
そしてもう1人、5年前のあの日を綴ったブログを紹介したい。
福島県郡山市の病院で勤務され、震災当時は仙台にいらしていた私が尊敬する医師。
震災の影響をまともに受けた東北での出来事を綴っております。
私のブログよりも長文ですが、ぜひともお読みください。
→『死ぬかと思った:西野徳之』
2014年4月、初めてお逢いした日