インコの会に投稿するための体験談を仕上げた。いずれはインコのHPでも掲載されるだろうが、私のブログにも載せておこうと思う。
 
ついこの前も言われたとこだが、感情的になっているだけではないのか、などと言われるときがある。確かにそうかもしれない。団体を通じて、私が見てきたものはあまりにも物悲しい人生のストーリの集積であった。オウムに入信して事件が起こり、人生が一変して、家にも帰られなかった人達。そんな人達が集まって、自分達の何が間違っていたのかを問い直し、新たに人生をやり直そうとした人達の集いであった。
 
そんな人達が一人、二人と潰れていった。ある会員さんを辞めるのを引きとめようとした時、「あの代表ではどうしようもないわ。こんなところ、どうしようもない。中山さんも早く辞めや。」などと逆に言われてしまった。何も言い返せなかった。
 
そんな人達の姿を見てきた。時には夜逃げした人もしたし、時には喧嘩して出て行った人達もいた。どれだけ団体に貢献していたとしても、辞めた瞬間から、元から存在していないかのように扱われる。もしくは精神病理として扱われる。
 
そんな不条理をこの団体には散々見せつけられた。幾多の人達の涙を見続けてきて、感情的になるなといわれても、私はそんなに人間はできていない。人が人に共感すること無しには、慈悲も慈愛も生まれない。それらは他者との繋がりの中で生じるものである。他者の苦しみや痛みを共感することなしには、本当の慈悲も慈愛も存在しないのだ。
 
その時、感情も乱れるであろう。のたうち回るような苦しみも感じたりもする。オウムではそんな感情を全て排他してきた。それが美徳であるかのように洗脳されていた。「それはあなたのカルマだよ。」なんて言葉で、その人の苦しみを理解しようともせずに「カルマ」の一言で裁いてきた。それは慈愛というものではなく、無関心という言葉の方が相応しいのかもしれない。
 
私は、人を導くなんてことはしないし、できる能力もないが、その人との痛みや苦しみは共感することぐらいはできるかもしれない。ただ、そんな思いでやっているだけ。
 
 

体験談 中山 尚

入信から分裂騒動まで。

1995年の10月、オウム真理教大阪支部道場の前には多くの報道陣や警察官がいた。入りたくても勇気を出せずに何度も行き来をして、最後はやけくそ気味になって飛び
込んでいったことが思い出されます。それが私とオウムとの初めての出会いでした。事件後の総ジャーナリズムに疑問を持ち、オウムをもっと知りたいと考えたのがきっかけ
で、入信するつもりも信仰するつもりも一切ありませんでした。オウムの機関紙が書店では自主規制により取り扱わなくなり、直接行かなければ購入もできなくなったから、
オウムをもっと知るためには行かざるを得なくなったというのが本音です。
 

何度かサティアンショップに通っていると、「外から眺めていてもわかりませんよ。そろそろ入会しませんか。」などと勧められ、96年の3月に入信することとなりました
。麻原はすでに捕まっており、もし証拠不十分で出てくることがあれば、すぐさま辞めようなどと考えてもいました。

入信した年に、長女が障害を持って生まれてきて、手術をするのに、もしもの時に献血してくれる人を探して欲しいと病院側から要請されたのですが、そのことを教団に近況
報告をしたところ、「同じ血液型の人はいるのですが、ステージが下がってしまうので、娘さんを入信させるという条件でなら献血してもいいらしいです。」などと言われま
した。もちろんそんなことを教団に頼む気もなく、すぐさまお断りしましたが「宗教なんてやっぱりこんなものなんだろうな。」と怒るでもなく妙に納得してしてしまいまし
た。今から思うと下手に頼んでいたりしたなら、「娘の命を教団が救ったのだ。」なんて宣伝に使われていて娘ともども嵌っていたかもしれません。

その後、オウム真理教は破産しアレフになるのですが、アレフ時代も私はどちらかというと幽霊会員に近い存在でした。つかず離れずで月に一、二度参加する程度であったよ
うに思います。もちろん毎日来道していた時期もありましたが、一時期のことでしたし、全体的にも趣味の範囲は超えていなかったように思います。元々、事件に関心があっ
て入信したものの、入信したとて事件のことが分かる訳でもなく。かえって入信してからの方が事件のことを聞くのはタブーみたいな雰囲気もありました。「事件とかそんな
こと気にするよりも、修行しましょう。」という感じででした。彼らにとっては事件のことは考えたところで実際に経験した訳でもないし、それゆえに答えが出るものでもあ
りません。そんなことよりも日々修行に励んで、健康になり心を安定させ、来世に備えていくということの方がよっぽど意味あることだったのです。

教団の動きにもとりわけ関心があったわけではありませんでした。上祐さんが出所してくる時に団体規制法が出来ましたが、あれほどの事件を起こしたのですから仕方ないと
も考えていましたし、アレフが無くなったとしても仕方ないことだとも考えていました。上祐さんが代表になり、被害者賠償の話が出てきた時に、おそらく初めて師の方と口
論になった記憶に残っています。被害者賠償についての説明を受けた時に「麻原は最終解脱者で事件のことも全て分かった上で止めなかった。全ては必然的で必要なことだっ
たのだ。」なんていう理由付けだったと記憶しております。私には「事件被害者は亡くなるべくして亡くなったのだ」とも聞こえたので、当時の大阪支部長に、被害者感情を
逆なでる見解であるとして猛抗議したのでした。その時にその方が「中山さんは本当に被害者賠償した方がいいと思っているの?」なとど呆れた口調で言われたことが、いまだ
に耳に残っています。「当然でしょ!」などと切り返していったのですが、教団としては本気で賠償する気など無く、体裁だけを繕おうとしているのがハッキリと分かりました


そんな疑問はあるつつも、上祐さんの改革路線には概ね賛成していてたし、元々、麻原に何の思い入れも無かったので「麻原隠し」にも何の疑問も感じていませんでした。ま
さか後々に分裂騒ぎに発展していくほどの火種を教団内部で抱えていたとは露知らず、教団が一致しての意見であったのだろうと考えていたのでした。だから上祐さんが軟禁
状態になったことも全く知らずに「修行入り」と言う言葉を素直に受け入れてもいました。

教団の上層部が何を考えているかなど、末端の信者に伝わってくるはずも無く、出家と在家は全くの分断状態であったろうと思います。今のひかりの輪でもそうですが、在家
や会員は単なる「お客さん」なのだろうと思いますし、私自身も「お客さん」の立場で良かったですし、出家の人達が何を考えていようと全く関心すらありませんでした。

そんな信仰心のない私が20年も、オウム・アレフ・ひかりの輪と渡って続いてきたのは自分でも本当に不思議でなりません。きっと居心地が良かったからだと思います。教
団にとっては、在家は「お客さん」ですから、悩みごともそれなりに真剣に聞いてもらえますし、適当に綺麗事を言っていたら褒めてももらえましたし、自分の存在価値がそ
こに見出せていたのかもしれません。振り返るとすでにマインドコントロールはかかっていたのでしょうが、それなりに距離は保ってましたので、世間の目させ気にしなけれ
ば何の苦痛も感じていませんでした。かえって注目を浴びることでちょっとしたヒロイズムに浸っていたのかもしれません。今から思えば、あまりにも知識不足でしたし幼稚
でもありました。今から省みて考えると、「彼らもそんなに悪い人間ではないだろう」という思い込みが私の判断を狂わせていたのかなとも思います。確かに今でも個々の人
間はそんなに酷い人は見たことはありません。そんな人は道場活動できなかっただけかもしれませんが。でも、個々の人間を見つめるがばかりに集団となった時の狂気を観る
ことはできなかったように思います。そこにこそオウムの失敗は隠されていたと思うのですが、それをまざまざと見つめざるを得なくなったのは分裂が表面化しだしてからの
事でした。


今のひかりの輪の参加者さんを見ていたら、当時の私のような心境なのだろうと思います。上層部のことは何もしらずに表面上だけで判断する。無邪気に団体を褒めまくって
いる姿を見たら、何気に虚しさを覚えて仕方がありません。私もアレフで終わっていたなら、きっと私のオウム生活はそんなに悪い経験ではなかったのかもしれません。



分裂騒動からアレフ脱会へ

私のやる気に火がついたのは、主流派と上祐派の分裂騒ぎがあった時からでした。私が上祐派の存在を知り、教団に分裂騒動が起きていると知ったのは、当時の主流派の幹部
から、マイトレーヤ正大師が魔境状態になって、それに感化された人達が勧誘を始めているので、電話などで連絡が入った場合は絶対に出てはいけないからね、などと言われ
たのが始まりでした。

当時は状況が全くつかめずに、何故そのようなことを末端の信徒まで下ろしてくるのかすら不思議でした。そんな大した問題であろうとは考えてもいなかったのです。

確か2005年の秋、大阪支部道場の上祐派における乗っ取り工作が行われました。その時から主流派と上祐派の争いに私は巻き込まれるようになりました。上祐派から大阪
支部道場でマイトレーヤ正大師の勉強会があると聞いたときには、分裂騒動も収まったのだななんて考えてもいたのです。ところが行ってみると、主流派のスタッフがインタ
ホーンに出てきて追い返され、再び家に帰った頃に上祐派から「何時ごろに勉強会に来られますか?」などと言われて、かなり憤慨して結局参加はしませんでした。

その後、その顛末を知らせるとして主流派の方から連絡が入り、大阪駅の近辺で車を止め、そこで師の方から事の顛末の説明を受けました。上祐が暴言を吐いて師の人を罵っ
ていたことなどを教えられたのです。嘘だとは思わなかったが、意図的に上祐を貶めるような物言いに腹が立ち、とことん反発していきました。(1)

「我々はずっと世間からは殺人集団扱いされてきた。その我々がよりによって法友を捉まえて魔境扱いするとは一体どういうことか。」などと食ってかかりました。「マスコ
ミだけの情報が信用できないからこそ、私はオウムに入信した。あなた方の言うことだけを信じて客観的な判断などできない。」などと訴えたように思います。「誘われたら
行きますよ。」とも断言もしました。その時は上祐派が魅力的というよりは、主流派のやり方に疑問をもっていったという方が正確であったと思います。

その後再び上祐派からの誘いを受け、外で面談を数回繰り返した後に、上祐氏の勉強会に参加しました。どんな内容であったのかは覚えていませんが、やはりそれまでの正悟
師の歌を歌うだけの説法よりかは格段にレベルが高くて感動もしました。私の入信のきっかけは事件でしたので、何よりも事件を正面から見据えて、社会融和していこうとす
る姿勢に魅力を感じ、当然のごとくに上祐派の流れに入っていったのです。

アレフ上祐派の時は本当に私も優等生であったように思います。大阪支部長からも良くして頂けましたし、それに応えるがごとく私もできるだけのことはしてきたように思い
ます。当時は私も家庭問題や経済問題など抱えており本当に辛い時期でもありましたが、心の劇的な変化も体験して、その体験を上祐派の流れに入ったことと結びつけて一層
嵌りこんだという感じです。

組織としての矛盾は沢山当時から抱えてましたが、そこにはあまり目を向けませんでした。上祐氏が怒鳴っていても、大阪支部長が部下を人間扱いしていなくても、大変な時
期だというのは理解もできていましたし、まだオウムの教義そのものでしたので「マハームドラー」の一言で納得もしていました。とある会員さんが家を売って かなりの高
額のお布施をした時に立会人に頼まれましたが、その時もその老人さんの気持ちを考えるよりもそんな大役を頼まれたことに喜びを感じてもいました。今から思い起こしても
慙愧の念に堪えません。

この頃は教学的にはオウム真理教の初期本などをやっていました。主流派との信者の獲得合戦も続いており、どちらが「グルの意思」に叶っているのかとか、麻原がどれほど
上祐氏を信任していたのかなどと理論付けしては上祐派の正当性を訴えていました。「もし私が日本でのヴァジラヤーナ(金剛乗)に失敗した時には、お前は日本に戻ってマ
ハーヤーナ(大乗)を広げろ。」といって麻原は上祐を守るために送ったのだと説明していました。結局は、麻原の権威を引き継ぐのはどっちなのかという問いで信者を獲得
していったのです。そして主流派と決別することが決定的になると、二つのファウンデーションなどと言って「真理の灯明を守るために、主流派か上祐派とちらから潰れても
どちらかが残れば真理は守れる」と言ってアレフとの決別すると信者を導いてきたのです。

そして、2007年の3月に上祐派はアレフを脱会しました。脱会してからか、脱会する前くらいか記憶は定かではありませんが、その頃から観察処分がかかるような団体が
二つできても仕方ない」などと言い出し。麻原の教材を強引に破棄するよう言ってきました。

ほんの数ヶ月前までは秘儀瞑想や教本は一生の宝物のように大切にするようにと言っていた元大阪支部長から、今度は教材を破棄してと言って来られるのですからとてもじゃ
ないけど受け入れがたいものがありましたが、上祐氏の脱麻原路線には賛成していましたのでそれほどの摩擦になることはありませんでしたが、上祐氏は観察処分を外すため
に脱麻原路線をとるという選択をしただけであり、本当に反省してそのことから教訓を得て、そこから導き出される新たなる宗教を創造していくために、脱麻原路線を取った
のではなかったのだと私自身が認めるにはそこから長い年月が必要でした。

振り返るとまんまと上祐派の戦略に騙されたというのが正直な感想です。私の場合、事件後の入信なのでオウム・アレフに騙されたという実感はありません。どちらかといえ
ば、上祐派、ひかりの輪に騙されたという実感の方が大きいのです。おそらくは団体側にも騙したという認識はないでしょう。事件を反省してオウムの教訓を活かして「21
世紀の宗教」を創造するという謳い文句に私はすっかりと魅せられてしまいました。「宗教の失敗は宗教で乗り越える」などと、当時の上祐氏は謳っていました。ちょっとし
たら、歴史的にも宗教は醜い争いを繰り広げてきましたが、オウムの教訓を活かすことによって、そのような争いに終止符を打つことができるかもしれない。そんな理想を思
い描いてしまいました。「21世紀の宗教」という単なるスローガンですが、そのスローガンを信じることによって宗教になりえるのだと今となれば分かりますが、当時の私
はすっぽりと嵌りこんでしまいました。


ひかりの輪設立から哲学教室になるまで。

2007年の6月にひかりの輪は設立されました。「去るものは追わず、来るものは拒まず、そんな『お寺』のような団体にしたい。」などと上祐氏も夢を語っていたし、ス
タッフもかなりの情熱を注ぎ込んでいたと思います。教義は一元思想と言って、今の三悟心経の元になるような教義を説いていたのですが、体質はオウムのまま温存していた
のであらゆるところに綻びが生じていきました。オウム時代では教義的にも「マハームドラー」は通用しても、ひかりの輪では万物感謝なのですから、上祐氏などのパワハラ
が通用する訳ではありません。次から次へとスタッフは消えていきました(2)。

アレフの時に比べてスタッフの人数は少なくなりましたから、必然的に業務は増えます。当時はまだまだ熱心な会員でもありましたので、大阪支部長からの愚痴などを聞いて
もいました。これだけの激務をしているのであれば、スタッフは新規獲得に集中して、会員は会員で結びつきを強くして互いに支えあうような関係性をもって行かねばならな
いなどと、積極的に横に声をかけていきました。これが私が団体に対して大いに疑問を持ち始める転機となっていきました。

今まで法友として、奉仕活動など頑張っている人達ばかりだと考えていた能天気な私でしたが、団体との関係において非常に深刻な悩みを抱えている人達ばっかりだったので
す。一番、ショッキングだったのは団体から公安の立ち入り検査で見られては困るという理由で書類を持たされていた人がいたことです(3)。これには本当に驚きました。社会融和を全面に掲げて設立した団体がアレフと同じことをしているのですから
。透明性を確保し裏表のない運営をしていくことによってでしか、社会からの不信感を和らげることはできないと考えていたからです。

他にも色々な面が見えてきました。上述した、家を売って団体に高額のお布施をした人も裏では愚痴を言っていることも多く、決して喜んで差し出した訳でもないということ
も見えてきました。かつては本当にセミナーは高額でしたので、収入の少ない人達は必死で団体を支えていたのですが、収入は団体に把握されていて「これには参加できるよ
ね?これは受けられるよね?」などと勧誘され断れない人達も多数存在していたということです。

私は、YES、NOはハッキリと言える方だったので、そんなに無理強いされるという記憶はありませんでしたが、私のような人達ばかりであるはずもなく、気の弱い人達などは断
りきれない人もいましたし、また会員は参加して当然だという雰囲気の中でかなり無理している人達がいました。また横との繋がりの中でも、少しでも団体に対する愚痴など
言おうものなら、すぐに支部長に上げられるという密告社会でもありました。それだけに団体に対する批判や不満が外に出てくることは少なかったのです。

そんな現状を見聞きしていくうちに、会員の声無き声をすくい上げて行かねばならないなどと考えるようになり、積極的に団体批判に取り組んでいくようになっていきました
。内部からの改革、自浄能力を身につけること無しに、「21世紀の宗教」どころか、オウムのままのカルトでしかないと思うようにもなってきました。私のスタンスとして
は「団体に貢献もするが、物申すこともしっかりとしていく。」という姿勢は取ってきたように思います。団体にとって目障りな存在にあえて身を置いていきました。居心地
はかつてのように良いものではありませんでしたが、ある程度の緊張関係で私と団体は距離を持ちつつやってきましたが、辞める数年前には団体の活動にはかなりの惰性にな
ってきてもいました。「17年目の告白」を出してからマスコミなどにも出だし、文化人などもひかりの輪を認めるような発言をしたりもしていましたが、どこかで冷めてみ
ていました。表面上だけを繕って団体の体質は全く変わっているようには思えなかったからです。


脱会から出入り禁止へ。

有田氏に「脱皮しない蛇は死ぬ。」と言われたら、団体は「脱皮、脱皮」と連呼し、田原さんにひかりの輪は宗教じゃなく哲学だといわれたら、宗教ではなく哲学教室だと名
乗りだし、祭壇もインテリアと言い換えたりして、その節操の無さに呆れるとともに「21世紀の宗教」に希望を抱いてきた私を絶望させるには十分でした。かなり激しく抗
議しましたが、結局は上層部が決めたらそれを下に降ろしてくるだけの上意下達の体制、それは麻原が決めたなら絶対に従うというグルイズム方式でしかないということでも
ありました。麻原が上祐に取って代わっただけの団体でしかなかったのです。私が抗議した時に大阪支部長は言いました。「団体は指導する立場ですから。。」と。結局は、
オウムの時と同じく上の命令は絶対であると言っているようなものでした。

「ひかりの輪は中山さんを中心に回っているんじゃない。」とも名古屋支部長からも言われるなど、すごい圧力がかかってきました。「少し距離をもってみよう。」そんな気
持ちで私は脱会致しました。私は設立時からずっと考えていたことがあります。新しい団体はオウムのようなヒエラルキー構造を持った組織ではなく、もっと水平的で平等性
を持った組織こそがアクエリアスの時代に相応しい形態であろうと考えてきました。上祐氏が中心にした広がりのある仲間の集まりこそが、オウムの反省から導き出された「
ひかりの輪」としての在り方であろうとは考えていました。求めていた方向性が違っていたのかもしれませんが、頭を一度冷やす必要もあるのかなと考えてしまいました。今
から思うと圧力に屈しただけでしたが(笑)。

団体は「会員でなくとも学べます。」などと言っていましたので、その後もしばらくは通い続けていましたが、情報漏えいの疑いと女性問題をやり玉にあげられ、出入り禁止
となりました。「批判をするなら、外からオウマーのようにすればいいじゃないか。」などと遠まわしに言われた時もありました。常に辞めさせたがっているであろうという
ことは感じていましたので、別に驚きもしませんでした。ただ、ひかりの輪が提唱する一元の思想から、どのようにしたら人を排除できる行動を取れるのかを本当に知りたか
った。おそらくは、21世紀の思想であれ宗教であれ、ひかりの輪の思想でも、時と場合によっては人を排除できるとするのであれば、それではいつまで経っても争いが止む
ような思想ですらありえないでしょう。

やっぱり、観察処分を外したいだけの団体であったのだろうと思います。そう考えた時、今まで団体に対して様々な思いを抱き、そして去っていた人達の顔が浮かんできます
。「オウムは誰一人として、人を幸せにはできなかった。」そういう言葉を残してやめた人もいました。ひかりの輪でも同様です。誰一人として幸せになれた人はいないでし
ょう。不幸にした人達は数知れず存在していましたが。。。

団体の存続は、誰のためになっているのか。それを考え始めた時に全てが崩れ去りました(4)。

どれだけ存続に向けて頑張ったところで、上祐氏に何か事が起これば、今のままでは団体は崩壊することでしょう。私が解散を求めなくともいずれは消滅するのは分かっては
います。でも、それまでにどれほどの人をこれからも不幸にしていくのかを考えた時に、居たたまれない気持ちになることと、まだ力のあるうちに未来への一歩を踏み出すこ
とが彼らのためにもなるであろうと考えています。

彼らにとっては押し付けがましい意見でもあろうとは思いますが、一歩踏み出すために、彼らの背中を押してあげることが、彼らに対する恩返しでもあろうと考えます。

一刻も早く解散して、それぞれの道を歩いていけるようお祈りしております。

 
参考
(2) 辞めていった人、逃げていった人、追い出された人     http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12195214730.html
(3) 立ち入り検査と検査忌避 http://ameblo.jp/hisashi19661213/entry-12191009010.html