美食と精進の間にあるもの その3 | 近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡で寿し割烹と日本料理を楽しむお店「ひさご寿し」

料理長のかわにしたけしが料理のことや、近江八幡のこと、営業日誌などを徒然なるままに書いとります。

(湯葉雲辺 at永源寺 2022)

 

美食には経済成長は必要不可欠である。逆に言うと、経済成長は美食と文化を醸成する。古代ローマやオスマン帝国、南宋、ブルボン朝のように。

 

精進料理は経済成長のはざまで発生してから700年、日本の食文化に深く突き刺さって、いまなお賢者の料理として生きながらえている。

 

現代の精進料理はさまざまな形式と立ち位置を持っている。

 

寺院での公式料理。

寺院と衆人の行事料理。

外食サービス、宿泊サービスの商品としての精進料理。

アートとしての精進料理。

 

これらの精進料理が全て見え始めるのはこの室町の時代である。

 

室町は日本の文化変革期、もっと言えば日本文化を決定づけた時代である。

 

経済システムの変化、日本独自の思想変化の流れを、「精進料理が生まれるまで」という視点から観察する。

 

  室町という高度経済成長期

 

華々しい戦国時代や幕末は数々の歴史小説やドラマ、映画がつくられるから、学校のお勉強をおぼえていなくても知る機会が多い日本の歴史の1ページ。一方、室町時代はいろいろな事情がからまった政治的な混乱や事件もいろいろ多く、日本のあちこちで複雑にストーリーが絡み合う、わかりにく時代。ゆえに多くの日本人が知ることをやめていると言っていい。面白くないから。

 

で、室町ってなんなのさ。

 

 

「室町」とは足利将軍家が屋敷を構えた京都の一角であり、権力者の代名詞である。当時は室町に住まう足利将軍を「室町殿」と呼び、その絶頂期は3代将軍足利義満、国際名・源道義である。

 

足利義満は絶大な権力を手中にし、室町の絶頂期を生きた人物で、国際政治家としてもはなしが多いし今回は取り上げない。

 

 

あくまで美食と経済、そして「精進料理」が発生するまでの背景を整理して、記しておきたい。

 

(激動の鎌倉から室町への変革期・南北朝期に足利を助け大活躍し、滋賀を中世400年にわたって支配した佐々木氏の本拠・観音寺城跡から見渡す安土城方向)

 

鎌倉時代から続いた日宋貿易・日元貿易は、日本の鉱物資源である金・銀・水銀・日本刀をチャイナに輸出し、チャイナからの輸入は鋳造された銅銭の他、書籍や薬、文化芸術品など、そして学僧が留学して大陸の禅教養と最新の知識を身につけて帰ってきた。

 

当時の日本のマネーサプライはチャイナからの銅銭に依存していたが、貨幣量を増大させ続けている。加えて国内にはない輸入品の数々が日本市場に続々と入ってくるとなると、継続したインフレと輸入増加・貿易赤字による日本歴史上の最初の高度経済成長期を迎える。

 

 

チャイナの元朝滅亡後の明朝においても、引き続き日明貿易として経済交流が行われる。日本側のハブ港になっていた博多では禅院の末寺がおかれ、物流に関わる博多商人は莫大な富を得る。その商品代の1割を朝廷・幕府に納めるシステムになっており、室町殿の政権運営と政治基盤強化にうまく機能した。

 

 

 

足利将軍家が財と利権が増大することで、家臣である管領家もそれぞれに物流の利権をつかんでゆく。鎌倉式の「御恩と奉公」という武士の経済は、室町殿によって貨幣経済に変換される。

 

武家の日明貿易利権を得てゆく過程には、禅院がインテリジェンスとして活躍していたことは想像に難くない。なぜならば、武家が実務としてチャイナと交渉するわけではない。日宋貿易以来、チャイナに対するカウンターインテリジェンスは禅院の「東班衆」という禅僧が担ってきたわけで、いわば現代の「官僚機構」として、東班衆の禅僧は外交・財務・経済産業、そして西班衆の禅僧は哲学・教義・教育・布教・修行を司る。

 

鎌倉初期から数えて200年、「禅」は本来ブッダの言葉を伝えるための教えだったものが、政治・権力・経済・文化に深くかかわるようになった。

 

良い悪いのはなしではなく、当時の日本にとって「禅」はまさに政経エリートであったという事だ。

 

 

こうして禅院の活躍によって日本は世界と交易ができる経済力とインテリジェンスを持ったわけである。

 

  禅院から生まれた「食」という修行

 

禅院、とくに曹洞宗における「日常の中にある修行」という概念によって、料理も仏道修行のひとつとして伝播し始めたことは日本の食文化の歴史において大きい意味がある。道元による「典座教訓」「赴粥飯法」が記されたのは、精進料理が和食となる第一歩と言える。

 

 

だが道元はあくまで仏道修行の在り方として、日常生活の食にも仏性を見出すことで菩薩行・六波羅蜜のひとつ「精進」を実践しようとしたものである。

 

道元より約200年後の室町で、いかにして「精進料理」フォーマットへむかったのか。

 

いきなり民衆も含めた食文化の中に精進料理が生まれたわけではない。そこにたどり着くまでには、さまざまな室町の社会情勢と流れがあってこそなのである。

 

  自主独立!たくましい室町の人々

 

 

さて経済の流れ。

平安時代の現物経済・物流システムでは皇室・公家・南都北嶺ら荘園領主に全国の物産が集まったが、鎌倉~室町では貨幣経済の発達によって一般に全国の物産が流通するようになる。特権階級だけの奢侈を尽くした珍品料理集から、さまざまなバリエーションの料理が生まれ始める。マーケットのニーズによって自由に物品が行き交うというのは、現代のわたしたちが持っている経済感覚とも随分と近いもの。

 

特に武家と公家のアクセスが多かった臨済禅は、チャイナにおいて儒教の朱子学・陽明学や道教も融合している部分もあり、ブッダの言葉に孔子と老子の言葉も加えて、日本のリーダーシップにおける道徳的な教えを決定づけたと言って良い。戦国武将たちも禅宗に帰依していた。武田信玄、上杉謙信、織田信長の3名を挙げるだけでも十分か。

 

また、貿易商人は東班衆らとともにビジネスを展開していたわけで、必然的に商人たちも禅宗に強く影響されることになる。

 

一方、「死後の極楽浄土」を伝える浄土宗・真宗は広く一般民衆にもブッダの言葉を広げることに寄与してきた。ブッダは「念仏をとなえよ」などとは言っていないのだが、ただひたすらに祈ることで、人々が不安無く人生をすごすことが出来るのであれば、それは確かにブッダの教えが目指したものと言える。わかりやすさが一般人の味方であることは、今も昔も同じ。

 

 

 

室町中期になると、貨幣経済の浸透による経済知識と仏教教化による思想哲学の醸成が相まって、支配階級である武家と公家以外にも、教団というか宗徒・宗門によって民衆が組織化されてゆく。また一般民衆による自治自衛組織化もはじまる。

 

惣村である。

 

滋賀は代表的な惣村として「菅浦」という場所がある。琵琶湖の最北の漁村で、白洲正子が「かくれ里」や「近江山河抄」に記した場所。室町時代に書かれた「菅浦文書」は国宝となっている。これは惣村の民衆組織がどのようなものであったのか、当時の実態を知る貴重な文書として近年国宝となったのだが、惣村を自治運営している一般民衆が文字を書き、帳簿を付け、記録を残すという事をできていること自体が歴史的価値がある。

 

(現在ものこる菅浦の「惣門」は自治の証し。と白洲正子オキニの場所「須賀神社」)

 

 

このような各地に点在した自治のめざめ、惣村はやがて近江商人の元となる四本商人の発生へとつながる。

 

禅院の外交貿易と並走した商人たちが博多や堺を自治した例や、真宗門徒による惣村自治など、背景には常に寺院が影響している。

 

一方、旧来勢力である比叡山はもともと「出挙(すいこ)」と呼ばれる種籾の貸借システムと、専売品(塩・酒など)ビジネス、関所による関税、馬借の物流、に加えて新たなビジネスとして土倉・酒屋と呼ばれる今でいう金融業を行っていることから、宗教というより実質経済として多くの民衆とつながっていた。また、密教色の強い山門・寺門と別に、一般民衆にもわかりやすい念仏メインの天台真盛宗の発生によって、旧態依然としたところからの変化も室町におこっている。

 

 

(秋の西教寺と伝統野菜坂本菊の菊御膳。天台真盛宗総本山西教寺は明智光秀が焼き討ち後に寄進再建し、後陽成天皇によって白河院の事績を伝える寺院としても格付けられて現代に続く。)

 

禅、浄土、密教。

中産階級、一般民衆、特権階級。

全ての社会的階級と生活、習俗に浸透する寺院。

 

これにより日本人全般に神仏習合が行き渡る。

 

思想、哲学、科学、儀礼、建築、美術、芸術、経済、政治、金融、物流、農政、自治、しまいには軍事まで。

 

それが室町の日本人である。

 

日本文化の全てにおいて日本仏教と寺院とは何なのかを抜きにして、理解することは不可能なのである。

 

食文化においても何をかいわんや。

 

 

だが、まだ「精進料理」ではない。

 

 

 

 

  日本最初の経済崩壊 in 室町

自由経済は格差を作る。

金持ちはより金持ちに、貧乏はより貧乏に。

 

格差を無くすために統制経済をすると、権力集中の腐敗と悲劇的な結末を迎える。

 

これらは歴史が証明している。

 

 

 

大きな経済成長には的確でフレキシブルな経済施策が必要。マクロ経済学が進んだ現代では、貨幣と金本位制、変動相場制、需給の関係性、デフレ・インフレによって実質経済はどのように変化してゆくかを過去の事例とデータから読み解いて知ることが出来る。だから室町の経済はどのように崩壊してゆくのかを、現代では見ることが出来る。

 

なのに自民党と財務省が日本経済をうまく運営できないのは謎であるw

 

 

貨幣量(マネタリーベース)が増大した室町で、土倉・酒蔵という金融業が発達した話を先に書いたが、個人が経済的自由を手にするという事は、高利貸し業が成長するわけで、多くの経済破綻者も作ってしまうのである。

 

これは「自由」と引き換えのリスク・負の側面ではある。今でこそ日本人には普遍的な価値として、自由とリスクが共存していると理解があるが、法整備が整わない中で経済発展と民衆の自由が広がった場合どうなるか。

 

経済弱者の資本は、金融業である土倉・酒蔵によって年率24%あたりで延暦寺に資本が吸い上げられる。延暦寺には皇室、公家、武家の次男坊以下が多く集まっており、GDPの成長分は結局支配層に集まってしまったのである。

 

また、延暦寺に帰属する土倉・酒蔵のような国家権力に近い金融業とは別に、日銭屋という民間高利貸しも多数生まれる。現代でも当然のことながら、公的な規制をかいくぐる悪辣な金融屋は自由経済である以上生まれるのである。

 

こうして経済的困窮におちいった一般民衆の最終手段といえば、

 

 

暴動である。

 


「土一揆」とよばれる民衆暴動が多発する。

 

イッキ、は各地で土倉や酒蔵や日銭屋から自身の資本を奪い返す行動であったが、暴動を抑え込むために幕府は「徳政令」と呼ばれる借金棒消しで対応した。

 

ただし、公的年率24%の土倉や酒蔵の借金は徳政令の対象外だったため、やはり経済格差が進んでゆく事を押さえる事が出来なくなってゆく。

 

室町幕府が選んだ経済施策は、貨幣量の制限、いわゆるデフレ政策である。日明貿易を停止してチャイナ銭の流入をストップさせた。

 

貨幣量を減らすと物価は下がるが、逆にものが売れないデフレになる。全体の経済は不況に向かい、貧困層を増やしてしまう事になるのは、現代のマクロ経済学があるからわかるわけだが、当時はやってみたわけである。

 

案の定、上手くゆかない経済施策を反転させ、日明貿易を再開させる。

 

この流れはまるで現代日本政治を見ているようである。

 

 

 

  剛腕・6代足利義教からの・・

経済施策を修正したのは6代足利義教である。

 

 

南北朝の動乱をおさめ、日明貿易によって日本経済を爆上げさせ、南都北嶺をも抱え込み、明国皇帝より日本国王に冊封され、皇室をのっとる手前まできた3代足利義満。だが一歩手前で寿命が尽きた。その息子にして4代目がデフレ政策で失敗したのをを、弟の6代足利義教が修正した。「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ、若干20歳にして大僧正天台座主にのぼるスーパーマンである。

 

出身の比叡山延暦寺を史上初めて焼き討ちした、強権剛腕政治家でもある。

 

(延暦寺根本中堂、現在は大改修中)

(延暦寺西塔釈迦堂。もともとは三井寺の本堂を信長焼討のあとに秀吉が移転させたもの。現・延暦寺最古の建築物)

(東塔地域にある浄土院。奥に伝教大師最澄さんの御廟がある)

(伝教大師御廟)

 

 

だが強権すぎて配下に裏切られ暗殺されてしまう。自由経済の浸透によって各地の守護・管領、加えて一向衆や法華衆は独自に経済力を拡大させており、彼らをまとめるべき武家の棟梁・征夷大将軍のリーダーシップは、足利義教亡き後回復することはなく、徐々に衰えてゆく。

 

やがて足利義教の息子8代足利義政の時に起こった「応仁の乱」によってカオスとなる。

 

中央がカオスとなると市場の貨幣は必然、安定した地域に流れてゆく。これによりハイパー実力主義の戦国時代へと向かってゆくのである。

 

精進料理フォーマットが近づいてきた。

 

  戦国時代は料理人も戦国

武家の政務における本質は裁判官である。

武力という最終手段の背景によって判決を両者に強制する。

 

武家の棟梁・征夷大将軍は最高軍司令であり、最高裁判事である。

かろうじて8代足利義政までは京都に構えることが出来ていたが、応仁の乱・明応の政変以降はもはや「室町殿」ではなくなっていた。

 

時代の主役は、地方の守護たちとなる。

 

 

室町後期戦国。

実力者は領地の沙汰に中央を介入させない。または介入しようとすると武力実力をもって抵抗する。

 

「自分たちの事は自分たちで決める!!」

 

リバタリアンが理想とする世界をすでに室町日本人はやっていたわけである(笑)

 

まるで北斗の拳。

 

 

実力守護には当然さまざまなものが集まる。領地と経済力の安定は、必然料理人も集まりだす。また実力守護には経済力をアピールする本膳料理という饗応料理が時代のニーズとして発達する。つまり、料理人による料理の競合が各地で起こることになる。

 

現在にも伝わる「四條流庖丁書」が記されたのもこの時期で、続いて有力守護それぞれの料理人によって料理人集団○○流が生まれたことがわかっている。

 

大草流、進士流は確かな記録が残る。

 

料理人集団は家元ならぬ「板元」によって組織化してゆき、当然のように実力を示さんがため料理人同士の競争意識が醸成される。ミシュランだのゴエミヨだのが無い時代とは言え、料理人の激しい競争と工夫は多くあった事だろう。そうした流れの中で、各流派が行っていた式庖丁は、儀式というよりもエンタメであったことがわかる。

 

つまり、室町の貨幣量の増加と発達、自由な資本移動と経済成長によって、各地で饗応の食・美食が求められ、それによって料理もまた美食術・エンタメとして成長したという事だ。

 

ん?

なんだか現代の話をしているみたいだ。

全然精進料理の気配がないw

 

 

だが室町後期から織豊時代に入る時、食を哲学とアートにする奇跡を日本人は起こした。

 

「侘数寄茶」のはじまり。

 

贅と格式を積み上げた饗応料理は、茶の湯と禅を通してどのように「精進料理」へと結実するのか。

 

 

次回にゆっくりまとめてゆこう。

 

 

 

参考:

室町時代の食文化考 ―飲食の嗜好と旬の成立
 伊藤 信博

 

鎌倉・室町期日本の貨幣経済
横山和輝

 

室町時代の貨幣経済

三上隆三

 

中世寺社勢力の実力 ─室町幕府と禅寺の関係を中心に

 細野 哲弘

 

日本食の確立におよぼした要因
米田泰子

 

天台真盛の民衆教化について
中山信之

 

近世料理書から見た仏教と食
「青物」の料理から「精進料理」へ
徳野崇行

 

禅林の食事について一加賀大乗寺の行事食を中心として一
谷口歌子

 

食物史上に於ける精進料理の意義
山口光子

 

「浄慈院日別雑記」にみる食とくらし

杉浦博子、仲村香織

 

『収勝寺鼠物語』等にみる室町期僧房の食生活- その1
小林美和 冨安郁子

 

高松短期大学紀要(一九八四)
室町のこころ  藤井公明   

 

日蓮の禅宗観―『金綱集』における禅宗批判の根拠とその史料
石川力山

 

「日本国王源道義」こと足利義満と五台山の仏教説話

湯谷祐三

 

凍豆腐と調理 

田村正紀

 

足利の時代

倉山満

 

経済で読み解く日本史

上念司

 

日本食文化史

石毛直道

 

日本料理の歴史

熊倉功