料理がおいしくなるわけではないけど庖丁式を奉納する意味 その2 | 近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡の料理人は  ~川西たけしのブログ~

近江八幡で寿し割烹と日本料理を楽しむお店「ひさご寿し」

料理長のかわにしたけしが料理のことや、近江八幡のこと、営業日誌などを徒然なるままに書いとります。

(国宝:山王総本宮日吉大社西本宮社殿)

前回とおなじく庖丁式と日本料理が、日本文化にどうからんでいるのか知られざる歴史をひもといてゆく話。これは今まで語られてなかったり、調べられていなかった事、破片のようにちらばった日本のさまざまなものから、日本料理文化に新しい魅力をみつけだすための記録です。

 

日吉大社西本宮に祀られるご祭神の一柱「磐鹿六雁命」、前回も少し触れたが彼は12代景行天皇に随行した料理人で、日本書紀という書物に初めて料理人として記録された。どれくらいの古い時代の人かというと、西暦200年代の終わりのころの事だ。大陸の王朝はそのころ三国志から晋にうつろうかという激動の時代。磐鹿六雁命という名前は古事記には出てこないが、磐鹿六雁命の父親・背立大稲腰命の子孫がのちに膳臣・高橋氏となって天皇の料理番である内膳司を代々継いでいくことになった事は書記と同じく記録されている。ようするに初めての職業料理人一家が誕生したわけだ。

 

ちなみに磐鹿六雁命のおじさんとおじいちゃんは、四道将軍として崇神天皇の全国平定で活躍した人で、おじいちゃんにあたる大彦命は国宝・稲荷山鉄剣に名前が刻まれている。

 

大彦命の子孫はのちに全国にひろまり、有名豪族となったもの、文化人として名前を残したものなど、多くの人の現在につながっている。古事記を記した人物も太安万侶という大彦命の子孫にあたる実在の人物で、その子孫の一人は近年まで宮内庁雅楽部で勤務されていたとの事。

 

その大彦命の兄、開化天皇は奈良の中心部の陵に眠っていて、まさにその陵に向かって建てられているのが奈良漢国神社である。

 

漢国神社は例祭として行われる三枝祭に清和四條流が長く毎年庖丁式を奉納しているが、その境内は丁寧に守り継がれ、神饌も手作りされて奉納される。後年饅頭の神様として和菓子業界からの崇敬をあつめてきた神社であるものの、おそらくは開化天皇を祀ったのが最初であると考えられる神社である。開化天皇は欠史八代のひとりといわれていたときもあったが、大彦命が実在してその兄弟がいないという事はない。

 

さて時代は3代下って、

景行天皇、以降の天皇料理番・内膳司となった膳臣・高橋一族。このころにはまだ庖丁式は存在していない。大臣大饗が生まれるまであと500年。庖丁式の誕生まではまだ600年ある。

 

今日はここまで。

次は中華と日本の古代料理の歩みをくらべてみよう。