第百四十一夜「AOXOMOXOA」 | 百夜百冊

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読んだ本についての。徒然。

AOXOMOXOA
THE GRATEFUL DEAD

それは随分昔のことに、なるのだけれど。
ピアノを使って、フリー・インプロヴィゼーションをやっていたころがある。
もちろん、僕に複雑な演奏などできないので、とても単純なものであったのだけれども。
そのやり方は、いたって単純なものだ。
基本となる音を、決める。
その音を中心にすると自然にコードが生まれ、アルペジオを奏でてゆき。
そこに、メロディを被せてゆくのだ。
そうすると、アルペジオのリフレインからある種の秩序が生まれてくるので。
そこから、ずらしていく。
基本となる音に対して、すこしずれた音を混ぜ込んでゆき、逸脱を試みる。
そのやり方が出来上がってきたころに、僕はふと思った。
これって結局、絵を描いている時にやってることと、同じではないだろうかと。
つまり、ある基本となる色を決めて。
その色と親和性のある色で、画面を構成していくのだけど。
ところどころに、そこからずれた色を混ぜ込んでゆき。
逸脱していくかを、試してゆく。
結局のところ、演奏も描くことも、どこかへと逸脱しようという、目の前にある秩序を少しづつずらし込んで、別の新たなものが生まれてこないかと。
そんなことを、僕は夢見ていたのではないかと思う。

さて、例えばジャズにおけるフリー・インプロヴィゼーション、たとえばビバップの時代の、ジャムセッションとはどんなものであったのだろうかというと。
いくつかの、反復練習などで身体に刻み込まれているような、ブロック化したメロディーを、あるシーケンスの中で自在に使いこなしてゆくことなのだと、思う。
それが譜面どおりに行われる演奏とは、どう違うかというと。
当然、演奏行為において、自由意思が、演奏者の意思が入り込んでくるということなのだろうけれど。
それは、言い方を変えると、音楽を生きる行為なのだとも、とれるんじゃあないのかと、思う。
例えば、あるシーケンスの中で、あるフレーズを組み込んだとしよう。
でも、それは、言語的な意識による判断の結果とは、違うように思えるのだ。
つまり、言い方は悪いかもしれないが、ある無意識によるもの、身体の領域にまで溶け込んできた意識によるものと、言えるのかもしれないが。
それは、音楽と対話する行為なのではないかとも、思える。
音楽が生き物のように意思を持ち、その意思においてフレーズを演奏者に指し示すのを待つ。
フリー・インプロヴィゼーションにはそのように、生きた音楽の声を聞くような部分があるのではと思え、それは音楽を演奏という行為の中で生きると言うことなのではと、思うのだ。

では、グレイトフル・デッドはどうだろう。
彼らは、フリー・インプロヴィゼーションのバンドとして名高いし、ライブバンドとして知られている。
彼らは、音楽を生き、音楽の声を聞いていたのかというと。
まあ、そうなのかもしれないが、そうしたものと少し違うものを感じたりもする。
彼らは、ひとつの曲を完成させるには、数年かかるという。
けれど、フリー・インプロヴィゼーションのバンドであるから、楽曲はひとつの形を持って登場する。
おそらく彼らはそれを、何年もかけてずらして行くのだと思う。
それは、音楽を使って、ここではない何処かへと、離陸していこうとする行為なのではないかと思うのだ。
彼らは、音楽を演奏し、音楽を生きているのかもしれないが。
あたかもシャーマンたちが、ここではない彼方の世界につながり、何か「もの」を降ろしてくるように。
その浮遊感をもった音楽を使い、意識を離陸させ超越を目指したのではと。
そんなふうにも、思う。

Aoxomoxoa/Grateful Dead

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