【11】自己憎悪社会 ~《近代都市空間》と《現代化された貧困》と「災害」と~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


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・【7-⑭】〈1〉ユートピア主義者が描いた「完全な都市」の《誤算》 ――《ブラジリア症》――
・【7-⑮】〈2〉ユートピア主義者が描いた「完全な都市」の《誤算》 ――《ブラジリア症》――
・【7-⑯】〈3〉理性の《限界、ブラジリア症》~ユートピア主義者たちの「完全な都市」の《誤算》~
・【9】自己憎悪社会 ~《現代化された貧困(根源的独占)》による“無力”~

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

近代の人間とは、己が政治の内部で
彼の生きて存在する生そのものが問題とされているような、
そういう動物
なのである。”
(ミシェル・フーコー【著】/渡辺守章【訳】
『性の歴史Ⅰ 知への意志』
1986年、新潮社、181頁)
――――――――――――

“政治のテクノロジーの増殖についても、
強調する必要はないだろう、
いかにもそれは、そこから
身体を、健康を、食事や住居のあり方を、
生活条件を、人間が生きる上での空間の全体を、
己が目的に取り込んでいく
からである。”
(ミシェル・フーコー【著】/渡辺守章【訳】
『性の歴史Ⅰ 知への意志』
1986年、新潮社、181頁)

―――――――――――――――――

〈福井の雪害、車社会進展で深刻に
饒村曜氏「生活影響は過去以上」〉

2018年2月15日
http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/294370

今回の雪害の特徴をどう見るのか。
福井豪雨時(2004年)の福井地方気象台長で、
自然災害に詳しい饒村曜(にょうむら・よう)青山学院大非常勤講師(66)=東京都=に聞いた。
(中略)

 ―三八、五六豪雪と比較して違いはあるか。

 「今は車社会が進展しているのが特徴だ。
福井県内の自動車保有台数は
三八豪雪時は約3万5千台、
五六豪雪時は約32万台、
現在は約66万台(国交省まとめ)に増えている。
物流は、定時に定量の物が届く便利な環境になっている
冬の間も夏のように快適に行動している

雪で道路が寸断しひとたび物流が止まると
生活への影響は現在の方深刻

三八のときは、
雪が積もったらあまり外に出ない生活で、
秋に蓄えた食料を食べるなどしていた
今回の積雪記録は3番目だが、
物流や経済面を考えると
福井にとって社会的影響は過去以上になる
かもしれない

〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇

〈医師指摘「豪雪関連死」に注意を〉
大雪で持病悪化や疲労、ストレス

http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/293052

関連死は、
被害で直接死亡する直接死とは違い、災害後に発生する

食料の不足や薬が無くなるなどして持病が悪化する、
疲労やストレスがたまるなどして
自殺するなど多様な要因があり、
2016年の熊本地震では
死亡者の8割近くが関連死だったとのデータもある。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

今回のページでも、いま少し
《現代化された貧困&根源的独占》について扱う。

これまでは、
《資本主義経済》の文脈で
《《貧困の現代化/根源的独占》を扱ってきた。
しかし、今回ページにおいては
《近代性/近代化》の文脈のもとで
貧困の現代化/根源的独占》を扱う。
というのは、
《近代性/近代化》や《現代都市化》
(あるいは又《生権力システム》)においては、
私たち現代人は、
自然災害や非常時に対して脆弱なのではないか
という問題提起を行いたいからだ。

今回、その点について語るに当たり、
これまでの《根源的独占/貧困の現代化》内容
前回に見た《反復できる定型行動》とを
いま一度、思い出したい。


ティモシー・メイ&ジグムント・バウマン【著】
『社会学の考え方』の該当箇所で確認したが、
私たちがパソコンを、
〈いま、このようにして
反復定型的に使用している〉が、
私たちの多くが知っているのは、
パソコンの使い方の「ノウハウ」であって

そのパソコンのメカニズム(全体)について、
ではない



テクノロジーのメカニズムだけでなく、
私たちは
社会のメカニズムに対しても、
その全容や実態をも把握せずして、
さしあたり目の前の、
日常を営むのに必要な、
〈慣行・ノウハウ・反復パターン・定型行動〉を
獲得しさえすれば、
今日、いま、とりあえず何をすればいいのか、
手順が分かり、
予定を立てることができて、
時間や作業を組み立てる事ができること

塩沢由典『複雑系経済学入門』から学んだ。

慣行・ノウハウ・反復パターン・定型行動
というものは、
〈従来の経験則どおりの今日・明日である事〉
を前提としている。

たとえば、
2022年から2023年にかけての冬では、
北陸地方を記録的な寒波が襲った。
そんな中、石川県の能登地方では、
《断水》というアクシデントが起きた


断水の原因は、「空き家」問題であった。

「断水、なぜ能登で? 多い空き家が要因 止水呼び掛け必要 宮島金大名誉教授(『北國新聞』2023/1/28)。



これからは、
少子高齢化や人口減少、
「地方切り捨て」政策以降の地方の疲弊化や過疎化、
インフラの老朽化、
アベノミクスの金利支払いや
武器の爆買いによる財政逼迫化…
また、地震学者のロバートゲラー氏は、
日本では、地震は、いつでもどこでも起こりうる
というように、
〈従来の反復パターン・定型行動〉は、
大きく狂わされるかもしれない。

また、
〈これまでの矛盾や歪みの蓄積〉と自然災害とが、
複合して組み合わさっての《災害事故》が
発生している場合もあり、
従来通り、という訳には行かなくなっている。
たとえば、
水ジャーナリストの橋本淳司氏は、
土石流被害などの水害は、
1つの要因で発生するわけではなく、
人為的な要因など、様々な要因が合わさって

土石流災害事故が起きているという。
☞〈「令和2年7月豪雨」災害を大きくした「雨×土地×土地開発」の掛け算

ーーーーーーーーーーーーーー

以下に見ていくように、
もし私たちが獲得している知識が
〈反復パターン〉なのだとすれば、
近代的空間》とセットの
《貧困の現代化/根源的独占》の”死角

やがておのずと気づかされる事になる。

日常を営むのに、
〈定型行動/ルーティン/慣行〉を
私たちは学習し、獲得しているが、

その様子を、たとえば、
室内の飼い猫や飼い犬が
自動エサやり器(自動給餌器)」に
慣れ、学習する様子〉に当てはめて、
なぞらえてみると、

〈定型行動/ルーティン/慣行/ノウハウ〉の獲得は、
生命力の向上や獲得」とは“別問題である事が
分かるのではないか。

見田宗介氏は、新書のなかで、
電話が無くても、
人の生存には直接には関係がないが、
しかし、都会では、電話が無ければ
ふつうに生きていくことができない
〉、
といったことを書いたように、
社会内で生きる手段としての〈定型行動〉
「生命力や生存力」とは、
別の次元の問題
であることを、
私たちは日常において気づく機会がない

そのことに気づく機会があるとすれば、それは
想定外の自然災害」に直面した時かもしれない。
日常における〈定型行動〉
非常時」においては通用しない
からだ。
つまり、
我われ現代人は、
この「非常時」に直面して初めて
《貧困の現代化》を自覚させられる
としたら、
我々はとても脆い状態にあることを意味するのかもしれない。

さらに、
その死角や弱点、アキレス腱を、
相手の裏をかき、相手の死角や盲点、相手の嫌がることを狙うことで、相手国に、より大きなダメージを与えることを狙う〈戦争〉に発展して、
隣接国との《ミサイルの応酬合戦》に発展する、
サイバー攻撃を受ける、
未知のドローン戦、
また、電気や水道などライフラインが止まる、
物流も止まる

直接の被弾や攻撃はおろか、
副次災害や複合的な停滞
都市機能マヒに見舞われ、
〈平常時での日常の慣行/定型行動〉
まったく通用しない想定外の事態に直面した際に、
もっとも痛感させられるかもしれない。

日本の原発への攻撃リスクを含めると…


プーチン戦争であらわになったドローンの脅威、そして無防備な日本
(日経ビジネス


――――――――――――

以下では、
《近代性》における《貧困の現代化》について見ていく。

我われの《定型行動》が
《複雑なシステム》を土台にしている
こと
今回のテーマや文脈のもとで、
あらてめて見ていく。

――――――――――――
確証不可能性


平成24年1月25日朝、
NTTドコモによる携帯電話回線が
いっせいに不通になった

復旧には時間がかかったが、
それは、データ通信の過負荷によって、
基地局の「どこかが故障した」ことはわかっても、
どこが故障したか」はわからなかったからだった。
このような事情は自然科学では常態である。

 物理学や天文学など、自然科学の法則や理論が
客観的かつ普遍的なのは、
実験や観察によって確証されているからだと考えられている。

 たとえば、
物体自然落下の法則を発見したガリレオ・ガリレイは当初、
物体が落下するときの通過距離がに比例して増大する
という仮説をたてたが、実験結果は予想に反した。
ついで、
落下時間の二乗に比例する という仮説をたてたところ、
今度は、結果と一致し、
それによって自然落下の法則は確立された。

 このように、実験結果と合致不一致は
仮説の真偽と対応するように見える。
だが自然科学者は、
かならずしもそこから想定されるとおりには
振る舞わない。

 たとえば、フランスの天文学者ルヴェリエは
ニュートン力学にもとづいて水星の軌道計算をおこなったが、
観察結果は予想に反していた。
そこでルヴィリエは、水星のそばに未発見の惑星があり、
その重力によって水星軌道が乱れているものと考え、
そのような惑星「バルカン」がやがて発見されると予言した。
ところが「バルカン」は存在せず、
水星軌道変動は、ニュートン力学の否定である、
アインシュタインの相対性理論によって
説明されるべき事柄であることが後になってわかる。
水星軌道の観測結果は、
計算のもとになった仮説であるニュートン力学を
否定すべきものだったが、
ルヴィリエはそこまで踏み込まなかったのである。

 20世紀アメリカの哲学者クワイン(1908-2000)によれば、
これはきわめてありがちなことだ。
実験や観測の結果を予測するためには、
ニュートン力学など基礎となる理論以外に、
たとえば各惑星の質量、速度、位置関係など
多くの補助仮説を必要とする

すべての補助仮説が正しければ
予測通りの結果がえられるが、
どれかひとつでも不適切なら予測は外れる
問題は、結果が予測を裏切ったとき、
基礎理論と膨大な補助仮説のうち
「どれか」が違っていたことはわかっても、
「どれが」ちがっていたかはわからない

ということである。
ここにドコモの事故と同じ構造がある。

 逆に言うと、
実験や観測の結果によって
問われるのは
実は、
単独の
仮説ではなく
基礎理論や補助仮説、
膨大なデータなど、
すべてをふくんだ全体
である。
こうした考えを
ホーリズム(全体論)」
もしくは「全面的改訂可能論」とよぶ。
いったん予測に反する帰結が生まれると、
基礎理論やさまざまな補助仮説だけではない。
しかも、
全面的改訂可能性がおよぶのは
自然科学の仮説だけではない。
量子力学において、
通常の論理学における分配律を含まない非古典的論理学が採用されるなど、論理法則も改訂可能候補には含まれ、観測者の知覚などが否定される場合もある


 とはいえ、ルヴェリエに見られるとおり、
ニュートン力学などの基礎理論、また論理学や知覚は
むやみに改訂されない。
こうしたものを否定すると、
問題の観察や実験という範囲を超えて、
自然科学や知の体系に大きな影響を及ぼし、
自然科学や社会における相互理解の回路、
また、自然現象の説明手段が失われてしまうから
だ。
改訂されるのは、
それが否定されても

大きな影響及ぼすことのない補助仮説
であり、
それがたとえばルヴェリエにおいては惑星の数
だった。
こうして、自然科学とは、
そのつどの社会における
相互理解と事象の説明のための
道具にすぎない、
という「プラグマティズム」
が帰結する。
(貫 成人【著】 『哲学で何をするのか』
筑摩選書、2012年、220-222頁)

ーーーーーーーーーーーー

クワインの「全体論」の概念を使った、
哲学者の貫 成人氏による
《ドコモ回線のシステム障害》の事例を通して、
《複雑系リスク》の「全体論」的様相
いま確かめた訳だが、
現在においても読まれる、
戦前の物理学者で随筆家の寺田寅彦は、
《社会の複雑化》や《文明の進展化》に伴う
災害リスクへの脆弱性について、
指摘している随筆がある。



“…ここで一つ考えなければならないことで、
しかもいつも忘れがちな重大な要綱がある。
それは、文明が進めば進むほど
天然の暴威による災害がその激烈の度合いを増すという事実である。

 人類がまだ草昧【そうまい】の時代を脱しなかったころ、
巌丈【がんじょう】な岩山の洞窟【どうくつ】の中に住まっていたとすれば、
大抵の地震や暴風でも平気であったろうし、
これらの天変によって破壊されるべき何らの造営物を持ち合わせていなかったのである。
もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、
テントか掘っ立て小屋のようなものであってみれば、
地震にはかえって絶対安全であり、
またたとえ風に飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。
とにかくこういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、
自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。

 文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。
そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するような色々の造営物を作った。
そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、
どうかした拍子に檻【おり】を破った猛獣の大群のように、
自然が暴れ出して高楼を倒壊【とうかい】せしめ堤防を崩壊させて
人命を危うくし財産を亡ぼす。
その災禍を起こさせたもとの起こりは
天然に反抗する人間の細工である
と言っても不当ではないはずである。
災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、
いやが上にも災害を大きくするように努力しているものは
誰であろう文明人そのもの
なのである。
 もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。
それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家
あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、
その内部機構の分化が著しく進展してきた
ために、
その有機系のある一部の損害が全体に対して
甚だしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり

時には一小部分の傷害が全系統に致命的なりうる恐れがあるようになった
ということである。

 単細胞動物のようなものでは個体を截絶【せつだん】しても、
各片が平気で生命を持続することができるし、
もう少し高等なものでも、肢節を切断すれば、
その痕跡から代わりが芽を吹くという事もある。
しかし高等動物になると、そういう融通がきかなくなって、
針一本でも打ちどころ次第では生命を失うようになる

(中略)

 文化が進むに従って個人が社会を作り、
職業の分化が起こってくると
事情は未開時代と全然変わって来る。
天災による個人の損害は
もはやその個人だけの迷惑では済まなくなってくる。
村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば
多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。

 二十世紀の現代では
日本全体が一つの高等な有機体
である。
各種の動力を運ぶ電線やパイプが縦横に交叉【こうさ】し、
色々な交通網が隙間もなく張り渡されているありさまは
高等動物の神経や血管と同様
である。
その神経や血管の一箇所に故障が起これば
その影響はたちまち全体に波及する
であろう。
今度の暴風で畿内【きない】地方の電信が不通になったために、
どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば
このことは諒解【りょうかい】されるであろう。

 これほど大事な神経や血管であるから
天然の設計に成る動物体内では
これらの器官が実に巧妙な仕掛けで
注意深く保護されているのであるが、
一国の神経であり血管である送電線は
野天に吹きさらしで風や雪がちょっとばかりつらく触れれば
すぐに切断するのである。
市民の栄養を供給する水道はちょっとした地震で断絶するのである。
もっとも、
送電線にしても工学者の計算によって
相当な風圧を考慮し若干の安全係数をかけて設計してあるはずであるが、
変化のはげしい風圧を勢力学的に考え、
しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安にして勘定したりするような
アカデミックな方法によって作ったものでは、
弛張【しちょう】のはげしい風の息の偽周期的衝撃に堪えないのは
むしろ当然のことであろう。

それで、
文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向がある
という事実を十分に自覚して、
そうして平生から
それに対する防御策を講じなければならないはず
であるのに、
それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。
その主なる原因は、
畢竟【ひっきょう】そういう天災がきわめて稀にしか起こらないで、
ちょうど人間が前車の顛覆【てんぷく】を忘れたころに
そろそろ後車を引き出すようなことになるから
であろう。

 しかし昔の人間は
過去の経験を大切に保存し蓄積して
その教えに頼ることが はなはだ忠実であった。
過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、
時の試練に堪えたような建設様式のみ墨守してきた。
それだから
そうした経験に従って造られたものは
関東震災でも多くは助かっているのである。
大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、
かの地方の丘陵のふもとに縫う古い村家が存外平気で残っている
のに、
田んぼの中に発展した新開地の新式家屋が
ひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時に
つくづくそういう事を考えさせられたのであったが、
今度の関西の風害でも、
古い神社仏閣などは存外あまりいたまない
のに、
時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまった
という話を聞いて
いっそうの感を深くしている次第である。
やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果から
そういうことになったのではないか
と想像される。
(中略)

 小学校の倒潰のおびただしいのは実に不可思議である。
ある友人は国辱中の大国辱だと言って憤慨している。
ちょっと勘定してみると
普通家屋の全潰百三十五に対し学校全潰一の割合である。
実に驚くべき比例である。
これにはいろいろの理由があるであろうが、
要するに時の試練を経ない造営物が
今度の試験でみごとに落第したと見ることはできるであろう。
(中略)

……安政【あんせい】元年の大震のような
大規模のものが襲来すれば、
東京から福岡に到るまでの
あらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、
西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって
有機体としての一国の生活機能に
著しい麻痺
【まひ】症状を惹起【じゃっき】する恐れがある。
万が一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば
市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、
氾濫【はんらん】する大量の流水の勢力は
少なくとも数村を微塵【みじん】になぎ倒し、
多数の犠牲者を出すであろう。
水田の堰堤【えんてい】が破れたても同様な犠牲を生じるばかりか、
都市は暗闇になり
肝心な動力網の源が一度に涸【か】れてしまうことになる。

 こういうこの世の地獄の出現は
歴史の教うるところから判断して
決して単なる杞憂【きゆう】ではない。
しかも安政年間には
電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、
次に起こる「安政地震」には
事情が全然ちがうということを忘れてはならない

(寺田寅彦【著】『天災と日本人』
2011年、角川ソフィア文庫、10-19頁)

ーーーーーーーーーー

先の貫 成人氏の文章の引用を通して、
ドコモ回線のシステム障害のうちに、
システム復旧戦術として、
“ドコからならば”、
修正の手をつけることができるか、
その優先順位の事情を、
クワイン「全体論」になぞらえての説明を
見たわけだが、
そこでは、
除去や否定、修正のメスを
入れることができる
のは、
理論全般に影響をおよぼす根幹的理論
ではなく、
大きな影響を及ぼすことのない補助理論
であった。

とすれば、
そのシステムの中に
生きる多くの人々にとって
深く共有されている”ような
「互換性」や「汎用性
」の高いテクノロジーと、
そのテクノロジーの存在や利用を
前提とする〈定型行動〉
とが、
(前回ページで見たように)
《現代化された貧困/根源的独占》に
当たっている
とした場合、
その”現代化された貧困”的なテクノロジーを、
修正・除去すべき“障害”として、
そう簡単に取り除くことができない
その”テクノロジー”は、
根源的独占的に
私たちの日常における〈定型行動〉
深く大きく根幹で、浸透している”からだ。
(それは、テクノロジーだけでなく、
制度仕組みについても同様ではないか)

その〈定型パターン〉が
“現代化された貧困”的なものである場合、
その”現代化された貧困”の〈定型パターン〉を
捨て去れば、私たちは、
日常の対処行動や手段・日常の選択肢の大部分を、
一気に失ってしまう



社会学者ジグムント・バウマンは、
著書『グローバリゼーション』の中で、
都市社会学者リチャード・セネットによる
『無秩序の活用』などの引用を通して、
現代都市化近代化》の帰結
明示化している。

都市のユートピア主義者や近代の官僚制は、
都市空間を合理的に統治する都合から、
都市空間が、
規則的、画一的、同質的、再生可能的であることを、
好んでいた為に、
彼らが夢見た都市空間は、
「けっして歴史によって“汚染される”ことのない」空間であり、
成り行き任せや偶然、相反するもの
一掃した完全に秩序のある空間」であり、
偶然や歴史的堆積
一切排除された「合理的な幸福」であったという。
バウマンは、その象徴として、
ル・コルビュジエ『輝く都市』(1933年)を紹介し、ロシア旧ソ連体制であろうが、
また、ナチスの傀儡だった
フランスのヴィシー政権であっても、
政治的党派に関係なく、
その《空間の近代化》が好まれた
という。



” ル・コルビュジエによれば、建築とは、
論理と美とがそうであるように、
生まれながらにして
あらゆる混乱、衝動、混沌、乱雑性の敵である。
つまり、建築学は、幾何学と同種の科学であり、
純論理的な崇高さ、数学的な規則性、調和の芸術なのである。
その理想は、一直線、平行、直角であり、
その戦略の原則は、標準化まえもっての規格化である。
したがって、
未来の輝く都市にとって、
その使命を意識した建築の規則
は、
私たちの知るように、街路のを意味するのであった。
街路は、
無計画で同調性に欠ける建造物の歴史がもたらした、
一貫性のない不慮の副産物であり、
相克する利用法の戦場、偶然と曖昧さの場所
だからである。
輝く都市の道は、
そこの建造物と同じように、
特定の任務を割り当てられている。
道の場合、その唯一の任務とは
交通、つまり、人びとや物資を、
機能的に区別されているあの場所からほかの場所へと
輸送する任務
である。
そして、この唯一の機能は、
目的もなく歩く人、怠け者、ぶらつく人、偶然に通りかかった人が
もたらしている一切の障害を除去したところ
に成り立つ。

 ル・コルビュジエは、
独裁者計画(le Plan dictateur)」が
(彼は「計画」という言葉をつねに大文字の「P」を使って記した)
居住者を完全に支配し、
それが疑問に思われることのない都市
を夢見ていた。
この計画の権威は、
論理と審美の客観的な真実から導かれ、
それにもとづいているので、
なんらの異議も論争も生じさせない

その権威は、
論理的あるいは審美的な厳密さ以外のものに関する、
あるいは依拠する議論を一切受けつけない
したがって、
都市計画者の活動はその性質からして、
騒々しい選挙の結果に左右されないし、
計画による現実あるいは想像上の犠牲者の不満に耳を傾けることもない

この(個人の優れた深遠な想像の産物ではなく、
非人間的な理性の所産である)「計画」は、
人間の幸福にとって唯一の、必要かつ十分な条件とされ

そこでの人間の幸福とは、
科学的に定義される人間のニーズと、
明瞭で透明で理解しやすい生活空間の配置が
完全に適合するという条件のみによって支えられるもの
であった。”
(ジグムント・バウマン【著】/澤田眞治・中井愛子【訳】
『グローバリゼーション ~人間への影響~』
2010年、法政大学出版局、59-60頁)


そうした《近代の都市空間》の特徴を
踏まえた上で、
ジグムント・バウマンは、
セネット達の文章の引用をもって
《現代都市空間》の帰結を述べる。



“リチャード・セネットは、
差し迫る「公共性喪失に警鐘を鳴らした、
現代都市生活の最初の分析者である。
(中略)

「無秩序の活用」という近年の優れた研究において、
…「開発あるいは改造の抽象的な計画を実現するために、
現実の人びとの生活のしかかってくる大混乱について
驚くべき図式を描き出している。
計画がどこで実施されようとも、
都市空間を「同質化」しようとする試み、
それを
「論理的」「機能的」
あるいは「把握できる」ものにしようとする試みは、
内面空虚になる経験
人生がもたらす難題への恐怖
自立や責任をともなう選択について

無知にされていることなどとともに、
人間のきずなで編まれていた保護ネット解体
自暴自棄や孤独という精神を荒廃させる経験
として
跳ね返ってきた
のである。

 透明性の追求にはとてつもない代償が必要とされた。
空間の匿名性と機能的な専門化を確保するために
人為的に考え出された環境にあって、
都市の住民は
解決できないほどのアイデンティティの問題に直面した
のである。
人為的に説明される空間
無個性な単調さ

病院のような清潔さは、
彼らから意味を折衝する機会剝奪し
その結果、
この問題に取り組んで解決するのに

必要なノウハウ奪い去った


 近代建築の歴史を形成した、
尊大な夢と酷い災難の長い物語から
都市計画者たちが学んだ教訓は、
「良い都市」の最大の秘訣が、
都市が人びとに提供する機会にある
ということであった。
その機会とは、
調和とあらかじめ確立された秩序という夢の世界」ではなく、

むしろ
歴史的に予測のつかない社会」において、
人びとが自分自身の行為に責任を負う機会
である。
審美的な調和と理性という指針のみで進められる
都市空間の創案に中途半端さを感じる者なら誰でも、
まず慎重に思案して、
他人が決めた良い秩序や良い計画に従うだけでは良い人間には絶対になりえないと考えることだろう。

 さらにつけ加えるなら、
人間の責任
人間関係における道徳性の究極で不可欠な条件
である。
だが、
完全に計画された空間は、
それ「責任]を育むのに有害でないとしても
不毛な土壌である。
驚きや矛盾や対立から免れた
衛生学的に正常な空間
では、
人間の責任が
栄えることも育まれること
ない
であろう。
自分たちが負っている責任の現実に
顔を向けることができる
のは、
差異と多様性から生じる
矛盾や不確実な状況のなかで
活動する
という、
困難な技術を体得した人びとにかぎられる

道徳的に成熟した人びととは、
未知のものを必要とする」ようになった人びと
自分の生活に

なんらかのアナーキーがなければ
不十分だと感じる人びと

すなわち
自分たちのあいだの『他者性』を愛する」ことを
学ぶ人びと
なのである。

 セネットは
米国の都市の経験を分析して、
ほとんど普遍的なある規則性を指摘している。
それは「法と秩序」へのヒステリー的で偏執狂的な関心だけでなく、
他者への不信感、差異への不寛容、よそ者への敵意、
そして彼らを分離し追放したいという欲求
であり、
これらすべては、
画一的で、人種、民族、階級ごとに隔てられた、
同質的な地域共同体でその頂点に達する
のである。

 それも無理もないことである。
そうした地域では、
「われわれ感」を支えるものは、
視界に入る万人の単調な類似性がもたらす
平等の幻想に求められる。
安定性【セキュリティ】は、
異なる考えをもち、異なる行動をし、異なる外見をしている隣人不在として表われる
のである。
画一性は適合性を生み出すが、
適合性のもうひとつの顔は不寛容
である。
均質的な地域では、
人間の差異や不確実な状況対処するうえで
必要な性格上の特性や技術を獲得すること
非常に困難である

そして、
こうした特性や技術がなければ、
あまりにもたやすく他人を恐れてしまう

奇妙で異なっているということもあろうが、
なによりもまず、
得体の知れない、理解が困難な、思考も行動も読めない他者という理由だけで、他人を恐れることになる。”
(ジグムント・バウマン【著】/澤田眞治・中井愛子【訳】
『グローバリゼーション ~人間への影響~』
法政大学出版局、2010年、63-66頁)

ーーーーーーーーーー

フロムは、
『愛するということ』のなかで、
次のような興味ぶかい記述をしている。



現代資本主義は
どんな人間を必要としている
だろうか。
それは、大人数で円滑に協力しあう人間、
飽くなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、
ほかからの影響を受けやすく、
その行動を予測しやすい人間
である。
また、自分は自由で独立していると信じ、
いかなる権威・主義・良心にも服従せず、
それでいて命令にはすすんで従い、期待に沿うように行動し、
摩擦を起こすことなく社会という機械に
自分をすすんではめこむような人間
である。
無理じいせずとも容易に操縦うすることができ、
指導者がいなくとも道から逸れることなく、
自分自身の目的がなくとも、
……命令に黙々と従って働く人間
である。

 その結果、どういうことになるか。

 現代人
自分自身からも、仲間からも、
自然からも疎外されている

現代人は商品と化し、
自分の生命力をまるで投資のように感じている。
投資である以上、
現在の市場条件のもとで得られる最大限の利益を
もたらさなければならないということになる

人間関係は、本質的に、
疎外されたロボットどうしの関係になっており
個々人は
集団に密着していることによって身の安全を確保しようとし、
考えも感情も行動も周囲とちがわないようにしようと努める。
誰もができるだけほかの人びとと密着していようと努めるが、
それにもかかわらず誰もが孤独で、
孤独を克服できないときにかならずやってくる
不安定感・不安感・罪悪感におびえている
。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木晶【訳】
『愛するということ』紀伊国屋書店、1991年、131-132頁)


また、エーリッヒ・フロムは、
『悪について』のなかで、
死への愛(ネクロフィリア)》について
論じるにあたり、
人間を自動人形》に変えてしまうことで、
人間が、
生を蔑ろにする死への愛(ネクロフィリア)》に
傾いてしまうシステムとして
官僚主義的な産業文明》を指摘し、
そのモデルとして、フロムは
”ソヴィエトの国家資本主義”という言い方をして、
旧ソ連の経済システムをも、
ひとを《死への愛》に傾ける、
官僚主義的な産業文明》の一形態
として
挙げている。
また、フーコーは、
生権力》を、
資本主義社会諸国の中にも、
旧ソ連圏などの
非資本主義経済体制の中にも見ていた。


フーコーの《生権力(の一角の「規律権力」)》、
アーレントの《近代「社会」という空間》、
エーリッヒ・フロムの《官僚主義的な産業文明

それぞれ各人が、それぞれの著作で
それぞれの観点で
近代的なもの”を取り上げているのだが、
興味深いことに、
”画一化””合理化・数量化”、
人々の動向を“予測できる統計テクノロジー”

共通して指摘されている。
各人の指摘の共通点として、ある種の、
人の「互換性」化「標準化」
挙げることができるかもしれない。

人が“取り換え可能な「標準製造品」”でしか無くなれば
「あなたの父親と
『ハリー・ポッター』の作家J・K・ローリングさんが火事場にいる。
どちらかしか助け出せないとしたら、
あなたはどちらを助けるか?」
 この場合は当然、
「ローリングさん」と答えなければならない。
彼女のほうが社会全体の利益に寄与する

判断できるため
だ。”
斎藤貴男『子宮頸がんワクチン事件』214頁
という《功利主義的な価値判断で、
優劣が決まってしまう》ようになってしまう
のではないか?

リチャード・セネットの研究から見たように、
同質化・論理的・機能的・規則性・画一性、
行動の予測把握化などの《近代都市空間》
は、
〈住民に対する行政の合理的統御〉の点では、
優れているかもしれないが、
しかしその一方で、
住民を管理する
《生権力テクノロジー》のおかげで、
「歴史的に予測のつかない」事態において、
人びとが自分自身の行為に責任を負う機会、
意味を折衝する機会に、
出会うことが無くなり

その結果、
難題に取り組んで解決するのに
必要な自立的な技法
喪失し
その結果、
内面を満たす経験、
自立や責任をともなう選択をとる機会も能力
も、
人々から奪うことになった
ではないか。
生権力テクノロジー
官僚主義的な産業文明》が、
それら能力必要とさせないからだ。

その結果、
近代都市空間》は
内向きの住民に対しては強いが、
想定外の非常時の災害などには弱く
そして、
その近代都市空間に生きる、
〈定型行動〉を身につけた我々も、
想定外の偶然に対して脆弱であることを、
たとえば《貧困の現代化/根源的独占》は
物語っているのではないだろうか。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

中村 哲 〈知者は水を楽しむ〉


子曰く、
知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。
知者は動き、仁者は静なり。
知者は楽しみ、仁者は寿【いのちなが】し。
(雍也第六)

これも有名なくだりである。
川はしばしば生生流転する世界の象徴として登場するが、
ここでは流転の中を生きる知恵者の描写である。
静と動の対比で、
水は動を代表し、一つとして同じ形をとらず、常に動く。
人の知恵もそうあるべきで、
大元を見て臨機応変に対処すべきことを説く。
マニュアルで固定したり、白黒の定義で決めたりしない

「君子は器ならず」という言葉も、似たような意味が込められている。

 川の仕事もそうで、究極には定式化できないものを取り扱っている
しかし、
動がその時の様態とすれば、静は動を律する不動の倫理を象徴する。
それが仁で、知と対立するのではなく、
ここでは両者がバランスを以てあるべきことを
詩的表現で述べているのである。

 現代は西洋的な合理主義の時代だ。
儒教だの論語だのと述べれば、
すぐに封建社会、男性優位、家族制度などを連想し、
負のイメージを抱く者が増えている。
しかし、
東洋思想に親しんだ老世代の一人として言い遺しておきたいのは、
我々の先人たちが
大陸から文化を吸収し、
長い長い時間をかけて自らの精神的な血肉としてきた、
その歴史的な奥行きである。
それが伝統や文化というもので、
我々がこの世界で考え、行動する精神的な土壌をも提供してきた

外国人や現代人が不合理とする表現も、
その奥の意味を尋ねるべきで、
字面の判断だけで一概に切り捨てるべきではない。
それは政治思想とも無縁のものだ。

〈人間中心主義の錯覚と矛盾〉

我々の一般的な考え方の根底にある近代的な人間中心主義は、
しばしば技術文明への絶対的な信頼に裏づけられている

しかし、ややもすれば、
技術だけが先行し、「温故知新」とは逆に、
旧き完全に否定して新しきを作りだせるような錯覚がなかったとは言えない。

 一口に自然科学と言っても、
自然のどの相を対象にするかで ずいぶん異なってくる。
例えば原子の世界を問題にするなら、
画一的に数学のような法則で割り切ることができるが、
時間・場所によって千変万化する河川科学は そうはいかない


 科学技術の危険性
その限界を忘れたところから生まれ、
人間の欲望・願望と科学信仰とがお互いに高め合いながら、
恩恵の大きさと比例して、危険をも出していく

例えば、我われが優れた堰を作り、協力な護岸法を確立すると、
安定した灌漑で村の生活面積と食糧生産が増える。
分配の問題はさておき、
人口が増えて全体の富が増し、
豊かさをもたらした技術が抵抗なく受け容れられていく。
だが一旦得たものは手放せない。
維持に、より大きなエネルギーを投入せねばならない

当たり前のことだが、
自然との関係から見ると、
ここに人間の運命的な矛盾がある。
技術は 基本的に
人間の都合を優先するもので、
必ずしも自然の動きに適うものではない


 河川に関わった者なら、このことは良く分かっている。
自然史を大きく見れば、
プレートが動き、海底が隆起し、地震や洪水で山が均【なら】され、
私たちの住まう場所ができた。
日本列島の平野ができたのは、たかだか1万年ほどのことで、
川は地表を削る彫刻刀だ。
洪水がなければ
我々は住まう場所もなかったのである。
洪水制御とは、天体の運行を制御することに等しい。
気の遠くなるような長い自然史の中の、瞬時を私たちは生きている。
だが大きな動きは人間に見えにくいので、近視眼的になりやすい
自然の生成――発展――消滅のサイクルの中で、
人間だけが無限に発展するかのように思ってしまうのだ。

〈倫理なき科学技術と人間の悲劇〉

 自ら省みない技術は危険である。
神に代わって人間が万能であるかのような増長、
自然からの暴力的な搾取、
大量消費と大量生産

――これらが自然環境の破壊や核戦争の恐怖を生み、
人間の生存まで脅かしている現実
は動かしがたい。

 かつて我々の世代は、学校で次のように教えられた。

「東洋の文化は自然と融和し、西洋は自然を征服する」

 河川に関する限り、現在は逆転してしまった。
過去の文明の反省から、
自然と同居する努力が最も行われているのはヨーロッパであり、
日本は やっと伝統工芸の見直しが、
それも西洋の動きを流行的に模倣し始めたばかりなのだ。
今、気候変化による河川災害の現場で暴れ川と対峙し、
温暖化(=砂漠化)による干ばつ対策に奔走していると、
否が応でも「技術の倫理性・精神性」について考えざるを得ない。
伝統に帰るとは過去の形の再現ではない
その精神の依るところから現在を見、
自然と和し、最善のものを生み出す努力
である。
我々に遺し得る最大のもの
この精神
のように思われてならない。”
(「ペシャワール会報」No.140(2019年7月3日)

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中村 哲「凄まじい温暖化の影響」
――とまれ、この仕事が新たな世界に通ずることを祈り、
来たる年も力を尽くしたい
(「ペシャワールの会」No.142、2019年12月4日)より

〈❖干ばつは確実に進行〉

 水の仕事を始めてから19年、
干ばつは動揺しながら確実に進行しているように思われます。
かつて豊かな農村地帯で聞こえたソルフロッド郡は
砂漠化で見る影もなく
スピンガル山麓の一帯は
僅【わず】かにドゥルンタダムからの用水路が
細々と潤すにとどまっています。
川沿いも気候変化で渇水と洪水が併存し、年々荒れていきます。
温暖化の影響は
ここアフガニスタンでも凄まじく、急速に国土を破壊しています


 それでも依然として、
「テロとの戦い」と拳を振り上げ、
「経済力さえつけば」と札束が舞う世界は、
砂漠以上に危険で面妖なものに映ります。
こうして温暖化も進み、世界がゴミの山になり、
人の心も荒れていく
のでしょう。
一つの時代が終わりました

 とまれ、
この仕事が新たな世界に通ずることを祈り、
真っ白に砕け散るクナール河の、はつらつたる清流を胸に、
来たる年も力を尽くしたいと思います。

 良いクリスマスとお正月をお迎えください。

 2019年12月 ジャララバードにて”
(「ペシャワールの会」No.142、2019年12月4日)


【12】につづく

ニューノーマル時代の人類へのメッセージ
(ヴァンダナ・シヴァ氏)


中村哲医師追悼の会
ーー中村先生と共に歩むーー