【拙訳再生産】《How US helped Iraq build deadly arsenal》 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

イラク戦争と我が国の外交に関する質問主意書
(平成十五年五月二十九日提出 質問第八九号 【提出者】金田誠一)
イラク戦争の正当性に関する質問主意書
(平成十六年十一月一日 質問第二号【提出者】櫻井 充)
日本政府のイラク戦争への協力の検証に関する質問主意書
(平成二十八年八月一日提出 質問第一八号 【提出者】逢坂誠二)
日本政府のイラク戦争への協力の検証に関する質問主意書
(平成二十八年十月三日提出 質問第三五号 【提出者】逢坂誠二)
大義なきイラク戦争の総括に関する質問主意書
(令和三年三月五日提出 質問第六七号 【提出者】江田憲司)

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【拙ブログでの関連記事】
《ラムズフェルドの二つの顔》 ~北朝鮮の核/水爆騒動&“ミサイル”報道を嗤う~
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※このページの記事は、
最新記事からのリンク先参照記事として過去記事を、
再生産的に再編集したものです。
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以下に訳出する新聞記事は、
英国のタイムズ紙の記事なのですが、
しかし、いま現在、タイムズ紙のウェブ・サイトで、
この記事を検索しても、ヒットしません。

GoogleでもYahooでも、どのブラウザでも、
この記事のタイトル
How US helped Iraq build deadly arsenal」と、ワード検索してもらえば、その原文内容は、
どこかサイトで紹介されているはずです。

いま私の手元にあるものは、紙媒体のコピーなので、
この記事が、
本当に実在したのかどうか疑わしいとお思いの方は、
最寄りの図書館や大学図書館の、
相談窓口/レファレンス(・サービス)係の窓口に、
この新聞記事の複写依頼をしてみて
確かめてみて下さい。

《イラク戦争》を敢行する際の“錦の旗/大義名分”として掲げられた”イラク政府の大量破壊兵器(生物兵器など)の保有”は、立ち入り検査の結果、見つからなかったし、
イラクへの査察も果たせていない内に確信的に
アメリカイラクなぜ戦争をすることができたのか
というと、
そもそも当のアメリカ政府みずからが
1980年代に、サダム・フセインのイラク国家に、
化学兵器と生物兵器の大量破壊兵器の構成要素
与えていたからじゃないか!と考えさせるのが、
この記事の出色点です。

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イラク政府の殺人兵器工場(工廠)の建設を
アメリカ政府が、どのように支援していたか

How US helped Iraq build deadly arsenal)》

(「The Times」紙、2002年12月31日、ティム・リード記者)

ドナルド・ラムズフェルド

現アメリカ国防長官〔当時〕にしてサダム・フセインを最も声高に批評する一人であるは、
新しく機密扱いを解かれたアメリカ政府文書によれば、1983年の時
炭疽菌と腺ペスト培養菌をふくむ生物および化学兵器要素を、
自国のアメリカ企業が、バグダッド販売しやすくしてもらうべく、
サダム・フセイン イラク大統領面会している。

会談の前に温かい握手を交わす模様が、映画フィルムに収められているが、
サダム〔・フセイン大統領と〕ラムズフェルト氏の90分間の会談は、
1980年代を通して盟友の一つとしてのイラク指導者機嫌を伺っていた
ロナルド・レーガン大統領およびジョージ・ブッシュSr.政権下
アメリカ合衆国のイチ政策を、〔フセイン大統領に〕告げるものであった。

公開されたその機密文書記録によれば、
イラクはイランのイスラム原理主義に対抗する砦位置づけた[当時の米国の]戦略が、異常なほど執拗に推し進められたので、
北イラクで1988年3月に
[そのフセイン大統領の]イラク政府クルド人を毒ガスで殺している後でさえ
ワシントン政府は
〔生物兵器・化学兵器の〕兵器供給と外交活動とを増進させたのである。

1983年11月の国家安全保障指令の一つには、次のように書かれている、
曰く、
イランとの戦争でイラクが損失を受けてしまうのを防ぐのに、
必要と合法とであるならばアメリカ政府は、何でもするつもりでいる、と。

その当時は、いち民間人であったラムズフェルド氏が、
対-中東 特派大使の一人として、レーガン大統領から選ばれたのであった。

ラムズフェルドは、12月20日にサダム[・フセイン]と面会し、
そして、ワシントン政府のほうは完全な外交関係を再開させる用意があること
フセイン大統領に告げたことが、
この面談の模様を報告した国務省レポートにはある。

サダムがクウェートに侵攻する僅か1週間前の、1990年7月25日までの、
その後7年間もの間、この[対イラク政府支援外交]政策が続けられたが、
ブッシュ[Sr.]大統領が“よりよく深い関係を望んでいる”ことを、
このバクダッド特使[≒ラムズフェルド特使]は、
フセイン大統領に保障したのであった。

フセイン大統領による、イラン部隊やイラク自国民への化学兵器の使用
無視しながら
[レーガン政権とブッシュSr.政権との]二つの政権を跨ぐこの異常な長さが、
サダム政権の助力として役立っていた、というのが、
昨日の「ワシントンポスト」紙のハイライトであった。

そこで
サダム・フセイン政権から兵器を取り上げる理由として、
サダム政権の化学兵器および生物兵器の保持を繰り返し引き合いに出す
現ブッシュJr.大統領
が、
アメリカ合衆国によるイラク侵攻を可能にする準備をしているが、
この[1980年代における対イラク政権支援外交戦略という現在とは真逆の政策
についてのスクープ記事]は
サダム・フセイン[大量殺人]兵器開発の生成アメリカ関係していたことを、
いま、この時宜に適ったものとして思い起こさせる。

イラク側によって始められ、1980年から1988年まで続いたイラン-イラク戦争での
イラク側の敗北を防ぐべく、
レーガン政権は、イラン軍部隊の動きを分析する戦場の情報分析を、
サダム
[・フセイン政権]への供給を開始している。

[1980年代の]その十年間の末までには、ワシントン政府は、
軍事および民生の両応用の、あまたの品目/アイテムを
イラクに販売する許認可を、すでに通してしまっている

[このワシントン政府による対イラク販売の許認可品目の]これらの中には
炭疽菌と腺ペストといった有毒な化学品や生物ウィルスが、含まれていた
アメリカ商務省からの認可の下1980年代半ばに、
炭疽菌の菌株をふくむ多数の生物由来物質が、
イラクに輸出されていたことを、
アメリカ上院銀行委員会による1994年調査明らかにしている

この炭疽菌を、
サダム・フセインの生物兵器計画の鍵となる構成要素として
ペンタゴン[=国防総省]は、これまで見なしてきた

化学戦に使われているかもしれない、という疑惑があるにもかかわらず
アメリカ商務省は、
[化学兵器に応用可能な]殺虫剤輸出をも、承認してしまっている

ラムズフェルド氏が最初にバグダッドに訪問する1カ月前の、1983年11月に、
国務長官であったジョージ・シュルツは、
イラク軍部隊が“イラン人に対して、CW(化学兵器)を毎日のように使っている
ことを示した諜報レポートを受けていた。

にもかかわらず
すでにバグダッド[政府≒フセイン政権]からの支持求める方向
傾倒していたレーガン政権は、
このレポート目をつむる動きに出てしまうのであった。

議会からの異議が出たにもかかわらず、
アメリカ国務省は、1982年2月において、
テロリズム・リスト(一覧)から、イラク国家を、すでに外していた

サダム[・フセイン大統領]に対して、
[ラムズフェルドの最初のイラク訪問の]1983年12月の面談のときに、
化学兵器群の使用について“注意/警告をした” のだと、
[実際に]最近ラムズフェルド氏は述べている


[しかし]この今現在ラムズフェルド主張は、
1983年当時ラムズフェルドフセインとの面談についての国務省文書[内容]と

完全に一致しない

ラムズフェルド氏が
イラクの外務大臣のターリク・ミハイル・アズィーズに警告を発した、
ペンタゴン/国防総省のスポークスマンが、その後に言った[が]。


レーガン政権中、国家安全保障会議役員であったハワード・タイシャーによって
誓われた宣誓供述書によれば、
アメリカ政府は、
数十億ドルの残高をイラクに供給し、
そして、軍事諜報分析情報や助言をイラク側に提供し、
そして、軍事情報とアドバイスをイラク人に提供し、
そしてまた、
イラクが求めていた軍事兵器類を得ることが出来るように計らうべく
イラクへの第三国兵器の販売を密接にモニタリング監視することで、
イラク側の奮戦を、積極的に支援していた”という。

バグダッド[政府]に、クラスター爆弾供給するために、
CIA長官のウィリアム・ケーシーが、
チリのダミー会社/フロント企業使っていた
とタイシャ―氏は語っている。

イラク空軍が、北イラクで1987年後半に、
クルド人抵抗勢力に対して、化学兵器を使用し始めたが、
ハラブジャというクルド人の村への、
今や有名となった1988年3月襲撃の後では特に
米国議会で憤慨を引き起こした。

ところが
〔クルド村へのイラク政府の襲撃に、米国議会が憤慨した半年後の〕
1988年9月、国務長官補であったリチャード・W・マーフィー
化学兵器類サダム・フセイン使用について扱ったメモのなかに、
こう書いている:
アメリカ合衆国イラクとの関係は、
我ら米国長期規模の政治的かつ経済的目標にとって、重要である
経済的制裁が、
イラク役に立たない逆効果の影響を与えることになるだろう、
我々は思っている”と。

[ところで他方]現在のブッシュJr.大統領は、
レジームチェンジ[体制変換]”を正当化する根拠として、
ブッシュ自身にとっての人民に対するサダム〔・フセイン政権〕による
化学兵器使用を、これまで繰り返し引き合いに出して来ている

元バグダッド駐在アメリカ大使であったデイヴィッド・[ジョージ・]ニュートンが
ポスト紙に対して、こう語っている。
基本的にこの政策[フセインによる大量殺人兵器使用]は、
[当時においては]正しいとされていたのだ。
イランとの戦争でのイラクの敗北が、
サウジアラビアおよびペルシャ湾を脅かしてしまうことになる、との理由から、
イランとの戦争にイラクは敗北してはならない、と
[その1980年代当時においては]我ら懸念していた[からだ]。”と

“われら[合衆国政府側]の長期的な規模での期待は、
あの(サダムの)政府が、非-鎮圧抑圧的になってもらうと共に、
道義心の責任のあるものになってくれること、であった”と[いうのが、
デイヴィッド・ニュートン元バグダッド駐在アメリカ大使の述懐である]。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇【以下、原文内容】◇◇◇◇◇◇◇◇◇

How US helped Iraq build deadly arsenal
(The Times紙 2002年12月31日 記者:Tim Reid)

DONALD RUMSFELD, the US Defence Secretary and one of the most strident  critics of Saddam Hussein,met the Iraqi President in 1983 to ease the  way for US companies to sell Baghdad biological and chemical weapons  components, including anthrax and bubonic plague cultures, according  to newly declassified US Government documents.

Mr Rumsfeld's 90-minute meeting with Saddam, preceded by a warm  handshake which was captured on film, heralded a US policy under  Presidents Ronald Reagan and George Bush Sr of courting
the Iraqi  leader as an ally throughout the 1980s.

The strategy, seen as a bulwark against the Islamic fundamentalism of  Iran,
was so obsessively pursued that Washington stepped up arms  supplies
and diplomatic activity
even after the Iraqis had gassed  Kurds in northern Iraq in March 1988
, according to the records.

  A National Security Directive of November 1983 stated
that the US  would do “whatever was necessary and legal”
to prevent Iraq from  losing its war with Iran.  Mr Rumsfeld
, who was a private citizen at the time, was chosen
by Mr  Reagan as a special envoy to the Middle East.
He met Saddam on  December 20 and told him
that Washington was ready for a resumption of  full diplomatic relations,
according to a State Department report of  the meeting.

The policy was followed with such vigour over the next seven years
that on July 25,1990, only one week before Saddam invaded Kuwait,
the  US Ambassador to Baghdad met Saddam to assure him
that President Bush ,wanted better and deeper relations”. 

The extraordinary lengths to which successive US Administrations went  to befriend Saddam
,while ignoring his use of chemical weapons against  Iranian troops
and his own people,
was highlighted in The Washington  Post yesterday.
It is a timely reminder of American involvement in the  creation of Saddam's arsenal as the current President Bush, who has  repeatedly cited Saddam's possession of chemical and biological  weapons as a reason for disarming him, prepares for a possible US-led  invasion of Iraq.

To prevent Iraqi defeat in the Iran-Iraq war
, which was started by  Iraq and lasted from 1980 to 1988,
the Reagan Administration began  supplying Saddam with battlefield intelligence on Iranian troop  movements.

 By the end of the decade,
Washington had authorised the sale to Iraq  of numerous items
that had both military and civilian applications.
These included poisonous chemicals and biological viruses,
among them  anthrax and bubonic plague.

 A 1994 investigation by the Senate Banking Committee disclosed
that  dozens of biological agents were shipped to Iraq in the mid-1980s
under licence from the US Commerce Department, including strains of  anthrax.
Anthrax has been identified by the Pentagon as a key  component of
Saddam's biological weapons programme. 

 The Commerce Department also approved the export of insecticides to  Iraq,
despite suspicions that they were being used for chemical  warfare.
In November 1983, a month before Mr Rumsfeld's first visit to Baghdad,
George Shultz, the Secretary of State, was given intelligence reports
showing that Iraqi troops were resorting to “almost daily use of CW
(chemical weapons) against the Iranians”. 

 But the Reagan Administration, already committed to wooing Baghdad,
turned a blind eye to the reports.
In February 1982, despite  objections from Congress,
the State Department had already removed  Iraq from its terrorism list.

Mr Rumsfeld recently said that he had, at the December 1983 meeting,
“cautioned” Saddam about the use of chemical weapons.
That claim does  not tally with a declassified State Department note of his meeting.
A  Pentagon spokesman later said
that Mr Rumsfeld issued the caution to  Tariq Aziz, the Iraqi Foreign Minister.

 According to an affidavit sworn by Howard Teicher, a former National  Security Council official during the Reagan Administration,
the US “actively supported the Iraqi war effort by supplying the Iraqis with  billions of dollars of credits, by providing military intelligence and  advice to the Iraqis, and by closely monitoring third-country arms  sales to Iraq to make sure Iraq had the military weaponry required.”

 Mr Teicher said that William Casey, the former CIA Director, used a  Chilean front company to supply Baghdad with cluster bombs.  The Iraqi Air Force began using chemical agents against Kurdish  resistance forces in northern Iraq in late 1987, provoking outrage on  Capitol Hill, particularly after the now infamous March 1988 attack on  the Kurdish village of Halabja.

But, in September 1988,
Richard W. Murphy, the Assistant Secretary of  State,
wrote in a memo addressing Saddam's use of chemical weapons:
“The US-Iraqi relationship is . . . important to our long-term  political and economic objectives.
We believe
that economic sanctions  will be useless or counterproductive to influence the Iraqis.”

 The present President Bush has repeatedly cited
Saddam's use of  chemical weapons “against his own people” as justifying “regime  change”. 

David Newton, a former US Ambassador to Baghdad, told the Post:
“Fundamentally, the policy was justified.
We were concerned that Iraq  should not lose the war with Iran
,because that would have threatened  Saudi Arabia and the Gulf.

“Our long-term hope was that (Saddam's) Government would become less  repressive and more responsible.”