①「イラクに大量破壊兵器がある」論は根も葉もない話ではなかったけど兵器は結局なかったが、米政府は |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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突きつめれば「命どぅ宝」!
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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

《御神籤 第五番》
神の教:
“ご飯食べたり、着物をきたり、勝手いうのが能じゃない
御互いはご飯食べる為に生まれてきたのでも、
着物を着るために生きて居るのではない
神様から世界作り固めの御役目をうけて
此の地上に高天原の、住みよい、明るい、平和な世界を作り上げる為に
生まれて来たのである。この信仰をもって一生を働きつづけましょう。”


―――――――――――――――――

“日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることないやうにすること
決意し、
ここ主権が国民に存すること宣言し、この憲法確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、
その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、
この憲法は、かかる原理に基くものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅排除する
日本国民は、
恒久の平和念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想
深く自覚する
のであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して
われらの安全と生存を保持しよう
決意した。
われらは
平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を
地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会
において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有すること
確認する
われらは、いづれの国家も、
自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、
この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である
と信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ
全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること誓ふ。”
(日本国憲法――前文)

――――――――――――――――――――

収容所の営舎は、月の光に包まれる
この月の光は、銀と永遠とで出来ていて
まるで何かに気を取られていた神様の御手から (こぼ)れ落ちた
玩具のようだ

(エティ・ヒレスム 1942年9月23日)
―――――――――――――――――――――――――

日本国憲法 第97条――基本的人権の由来特質》
この憲法日本国民に保障する基本的人権は、
人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、
これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ
現在及び将来の国民に対し
侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。”

――――――――――――――――――――――――

権利保障と権力分立
その具体的なあり方の変遷
一九世紀型立憲主義と二〇世紀型

個人の尊厳を前提とした権利保障権力分立
近代憲法の不可欠の要素であるとして、
その内容は、時代とともに違ったありようを見せてくれる。
その点で、日本国憲法前文が
恐怖欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有する
とのべているのは、 示唆的である。
この表現は、一九九四一年の大西憲章の文言に対応しているが、
いま、
日本国憲法の内部に即したかたちでその意味を再解釈するならば、
恐怖から免れる自由は、
一七八九年宣言によって掲げられた 古典的な自由権であり、
一九世紀先進諸国の実定法制のなかで、
国家からの自由」として追求される
欠乏からの免れる権利は、
国家の介入を求めることによって確保しようとする社会的権利であり、
二〇世紀憲法の課題とされる。
この方向性を打ち出した憲法史上の原型ともいうべきものは、
第一次世界大戦後のワイマール憲法(一九一九年)であった。
そして、平和のうちに生存する権利は、
二度にわたる大戦の惨禍を経験した人類が、
いままさに模索している新しい権利
―――それなくては
自由権社会権 そもそも無意味になってしまうほど基本的なもの
―――ということができる。
自由権社会権、それぞれ、まず宣言され
つぎに段階を追って裁判的手続きで確保されるものとして
―――この点で自由権と社会権の間では
いまなお大きな差があるとしても―――展開してきた
平和的生存権は、 その権利としての成熟度はまだ低いとしても、
自由権一八・一九世紀以来の権利
社会権二〇世紀の権利に対し、
二一世紀の権利の先どりとしての可能性をはらむものとして、
とらえることができる。”
(樋口陽一『四訂 憲法入門』 P.8-9)


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あらゆる種類の歴史にとって、
次に掲げる命題より以上の重要さをもつ命題断じてない
この命題は手に入れるのに随分と骨は折れるが、
しかし是非とも実際に手に入れなくてはならない命題である。
その命題とはこうである、
――る事物の発生の原因と、
それ[事物]の終極的功用、その実際的使用、
およびそれ[事物]目的体系への編入とは、
《天と地ほど(トートー・コエロー)》隔絶している。
現に存在するもの、何かしらの仕方で発生したものは、
れよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目的を与えられ
新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる
有機界におけるすべての発生は、一つの圧服であり、支配である。
そしてあらゆる圧服や支配は
更に一つの新解釈であり、一つの修正であって、
そこ[新解釈や新修正の場]ではこれまでの「意義」や「目的」は
必然に曖昧になり
、もしくは全く解消してしまわなければならない

(中略)
・・・・ある事物ある器官ある習慣の全歴史
・・・・絶えず改新された解釈や修正の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、
それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、
むしろ時々単に偶発的に継起し交替するだけである。”
(フリードリッヒ・ニーチェ(著)/木場深定(訳)
『道徳の系譜』 岩波文庫、P.88-89)
※下線・太字強調は引用者。

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 “パウル・レーは、生成を線条的に記述した
――たとえば道徳の全史をただ功利性だけを考慮して整理した点で、
イギリス人たちと同様に誤っている
まるで、言葉はその意味を保ち続け、欲望はその方向を保ち続け、
観念はその論理を保ち続けたかのように。
まるで、ひとが口にし
望んだものの世界が、侵略闘争略奪変装策略
知らなかったとでもいうかのように

(中略)
単一な究極指向性のまったく外に
さまざまな出来事独自性見定めること
それらの出来事を、
最も予期しないところ歴史などもたないということになっているもの
――さまざまな感情意識さまざまな本能の中に探ること
それらの出来事の回帰を、
進化のゆっくりした曲線をあとづけるためにではなく、
それら多様な役割を演じた多様な場面
再発見するために把握すること
それらの出来事の欠落している点
それらが起こらなかった時点までもはっきりさせること
(プラトンはシラクサへ行ってもマホメットにはならなかった・・・。)

 それゆえ系譜学は、
微細にわたる知識、多数の素材の集積、忍耐を要求する。
系譜学は、その「巨石建造物」を築くのに、
「有益な大きな誤謬」ではなく「厳密な方法によりうち立てられた、
まがいものでない小さな真実の深遠な見解が
科学者のもぐらのような視力と対立するようなぐあいに
歴史と対立するのではない
逆に、理念的なもろもろの意味の超歴史的な展開や無限定な目的論と
対立するのである。
系譜学は「起源」の探求と対立するものなのである。
(中略)

たとえばプラトン以来探し求められている道徳の根源的基礎
どういうもので成り立っているのだろうか?
(中略)
その宗教の起源どこに求めるべきであろうか?
ごく単純なことで、
ある発明のうちに、ある手品のうちに、ある手管のうちに、
ある作製秘訣のうちに、ある黒魔術のやり方のうちに、
魔法使いのわざのうち求めるべき
なのだ。”
(ミシェル・フーコー(著)/伊藤晃(訳)「ニーチェ、系譜学、歴史」
『ミシェル・フーコー思考集成 4』 P.11-13、筑摩書房)

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品川正治さん講演会(2/4)

日本国憲法が創り出した価値(2) 日本国憲法が創り出した価値(3) 日本国憲法が創り出した価値(4)

2015.11.19「…戦争法廃止!…国会正門前集会」
ノーマ・フィールドさん (シカゴ大学名誉教授)
【12/16】


2015.11.19「…戦争法廃止!…国会正門前集会」
クマール・スンダラムさん
 (インドの核軍縮と平和のための連合《CNDP》
上級研究員)【11/16】

日本国憲法(前文)リーディング@沖縄県東村高江

2015.11.19「…戦争法廃止!…国会正門前集会」
伊藤真さん (安保法制違憲訴訟の会、弁護士)【8/16】

2015.11.19「…戦争法廃止!…国会正門前集会」
12/6日比谷集会実行委員会から
西谷修さん(立教大学特任教授)【14/16】


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イラク政府の殺人兵器工場(工廠)の建設を
アメリカ政府が、どのように支援していたか

How US helped Iraq build deadly arsenal)》
(「The Times」紙、2002年12月31日、ティム・リード記者)

現アメリカ国防長官にして、サダム・フセインを最も声高に批評する一人である、
ドナルド・ラムズフェルド
新しく機密扱いを解かれたアメリカ政府文書によれば、は、
1983年の時
炭疽菌と腺ペスト培養菌をふくむ生物および化学兵器要素を、
自国のアメリカ企業が、バグダッド販売しやすくしてもらうべく、
サダム・フセイン イラク大統領面会している。

会談の前に温かい握手を交わす模様が、映画フィルムに収められているが、
サダム[・フセイン大統領と]ラムズフェルト氏の90分間の会談は、
1980年代を通して盟友の一つとしてのイラク指導者機嫌を伺っていた
ロナルド・レーガン大統領およびジョージ・ブッシュSr.政権下
アメリカ合衆国のイチ政策を、[フセイン大統領に]告げるものであった。

公開されたその機密文書記録によれば、
イラクはイランのイスラム原理主義に対抗する砦位置づけた[当時の米国の]戦略が、
異常なほど執拗に推し進められたので、
北イラクで1988年3月に
[そのフセイン大統領の]イラク政府クルド人を毒ガスで殺している後でさえ
ワシントン政府は、
[生物兵器・化学兵器の]兵器供給と外交活動とを増進させたのである。

1983年11月の国家安全保障指令の一つには、次のように書かれている、
曰く、
イランとの戦争でイラクが損失を受けてしまうのを防ぐのに、
必要と合法とであるならばアメリカ政府は、何でもするつもりでいる、と。

その当時は、いち民間人であったラムズフェルド氏が、
対-中東 特派大使の一人として、レーガン大統領から選ばれたのであった。

ラムズフェルドは、12月20日にサダム[・フセイン]と面会し、
そして、ワシントン政府のほうは完全な外交関係を再開させる用意があること
フセイン大統領に告げたことが、
この面談の模様を報告した国務省レポートにはある。

サダムがクウェートに侵攻する僅か1週間前の、1990年7月25日までの、
その後7年間もの間、この[対イラク政府支援外交]政策が続けられたが、
ブッシュ[Sr.]大統領が“よりよく深い関係を望んでいる”ことを、
このバクダッド特使[≒ラムズフェルド特使]は、
フセイン大統領に保障したのであった。

フセイン大統領による、イラン部隊やイラク自国民への化学兵器の使用
無視しながら
[レーガン政権とブッシュSr.政権との]二つの政権を跨ぐこの異常な長さが、
サダム政権の助力として役立っていた、というのが、
昨日の「ワシントンポスト」紙のハイライトであった。

そこで
サダム・フセイン政権から兵器を取り上げる理由として、
サダム政権の化学兵器および生物兵器の保持を繰り返し引き合いに出す
現ブッシュJr.大統領
が、
アメリカ合衆国によるイラク侵攻を可能にする準備をしているが、
この[1980年代における対イラク政権支援外交戦略という現在とは真逆の政策
についてのスクープ記事]は
サダム・フセイン[大量殺人]兵器開発の生成アメリカ関係していたことを、
いま、この時宜に適ったものとして思い起こさせる。

イラク側によって始められ、1980年から1988年まで続いたイラン-イラク戦争での
イラク側の敗北を防ぐべく、
レーガン政権は、イラン軍部隊の動きを分析する戦場の情報分析を、
サダム
[・フセイン政権]への供給を開始している。

[1980年代の]その十年間の末までには、ワシントン政府は、
軍事および民生の両応用の、あまたの品目/アイテムを
イラクに販売する許認可を、すでに通してしまっている

[このワシントン政府による対イラク販売の許認可品目の]これらの中には
炭疽菌と腺ペストといった有毒な化学品や生物ウィルスが、含まれていた
アメリカ商務省からの認可の下1980年代半ばに、
炭疽菌の菌株をふくむ多数の生物由来物質が、
イラクに輸出されていたことを、
アメリカ上院銀行委員会による1994年調査明らかにしている

この炭疽菌を、
サダム・フセインの生物兵器計画の鍵となる構成要素として
ペンタゴン[=国防総省]は、これまで見なしてきた

化学戦に使われているかもしれない、という疑惑があるにもかかわらず
アメリカ商務省は、
[化学兵器に応用可能な]殺虫剤輸出をも、承認してしまっている

ラムズフェルド氏が最初にバグダッドに訪問する1カ月前の、1983年11月に、
国務長官であったジョージ・シュルツは、
イラク軍部隊が“イラン人に対して、CW(化学兵器)を毎日のように使っている
ことを示した諜報レポートを受けていた。

にもかかわらず
すでにバグダッド[政府≒フセイン政権]からの支持求める方向
傾倒していたレーガン政権は、
このレポート目をつむる動きに出てしまうのであった。

議会からの異議が出たにもかかわらず、
アメリカ国務省は、1982年2月において、
テロリズム・リスト(一覧)から、イラク国家を、すでに外していた

サダム[・フセイン大統領]に対して、
[ラムズフェルドの最初のイラク訪問の]1983年12月の面談のときに、
化学兵器群の使用について“注意/警告をした” のだと、
[実際に]最近ラムズフェルド氏は述べている


[しかし]この今現在ラムズフェルド主張は、
1983年当時ラムズフェルドフセインとの面談についての国務省文書[内容]と完全に一致しない

ラムズフェルド氏が
イラクの外務大臣のターリク・ミハイル・アズィーズに警告を発した、
ペンタゴン/国防総省のスポークスマンが、その後に言った[が]。


レーガン政権中、国家安全保障会議役員であったハワード・タイシャーによって
誓われた宣誓供述書によれば、
アメリカ政府は、
数十億ドルの残高をイラクに供給し、
そして、軍事諜報分析情報や助言をイラク側に提供し、
そして、軍事情報とアドバイスをイラク人に提供し、
そしてまた、
イラクが求めていた軍事兵器類を得ることが出来るように計らうべく
イラクへの第三国兵器の販売を密接にモニタリング監視することで、
イラク側の奮戦を、積極的に支援していた”という。

バグダッド[政府]に、クラスター爆弾供給するために、
CIA長官のウィリアム・ケーシーが、
チリのダミー会社/フロント企業使っていた
とタイシャ―氏は語っている。

イラク空軍が、北イラクで1987年後半に、
クルド人抵抗勢力に対して、化学兵器を使用し始めたが、
ハラブジャというクルド人の村への、
今や有名となった1988年3月襲撃の後では特に
米国議会で憤慨を引き起こした。

ところが
[クルド村へのイラク政府の襲撃に、米国議会が憤慨した半年後の]
1988年9月、国務長官補であったリチャード・W・マーフィー
化学兵器類サダム・フセイン使用について扱ったメモのなかに、
こう書いている:
アメリカ合衆国イラクとの関係は、
我ら米国長期規模の政治的かつ経済的目標にとって、重要である
経済的制裁が、
イラク役に立たない逆効果の影響を与えることになるだろう、
我々は思っている”と。

[ところで他方]現在のブッシュJr.大統領は、
レジームチェンジ[枠組変更]”を正当化する根拠として、
ブッシュ自身にとっての人民に対するサダム[・フセイン政権]による
化学兵器使用を、これまで繰り返し引き合いに出して来ている

元バグダッド駐在アメリカ大使であったデイヴィッド・[ジョージ・]ニュートンが、
ポスト紙に対して、こう語っている。
基本的にこの政策[フセインによる大量殺人兵器使用]は、
[当時においては]正しいとされていたのだ。
イランとの戦争でのイラクの敗北が、
サウジアラビアおよびペルシャ湾を脅かしてしまうことになる、との理由から、
イランとの戦争にイラクは敗北してはならない、と
[その1980年代当時においては]我ら懸念していた[からだ]。”と

“われら[合衆国政府側]の長期的な規模での期待は、
あの(サダムの)政府が、非-鎮圧抑圧的になってもらうと共に、
道義心の責任のあるものになってくれること、であった”と[いうのが、
デイヴィッド・ニュートン元バグダッド駐在アメリカ大使の述懐である]。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

うえに引用した新聞記事は、
英国のタイムズ紙の記事なのですが、
しかし、いま現在、タイムズ紙のウェブ・サイトで、
この記事を検索しても、ヒットしません。

GoogleでもYahooでも、
どのブラウザでも、
この記事のタイトル
「How US helped Iraq build deadly arsenal」を
検索してもらえば、
その全文は、どこかサイトで紹介されているはずです。

高樹が手元に持っているのは、
紙媒体のほうなので、
この記事が、本当に実在したのかどうか、
疑わしいとお思いの方は、
最寄りの図書館や大学図書館の相談窓口で、
この新聞記事の複写を依頼して、
確かめてみて下さい。

この
三連休では、
うちのネコのトイレを新たに買いに行ったり、
TPP記事の続きや調べごとをするつもりでしがが、
フランスで同時テロ事件が発生してしまい、
そのフランスでのテロ事件を受けて、
アメリカやフランス、ロシアが、《対IS戦争》を、
否!西谷修氏の御指摘のとおり、
世界戦争》を“前がかりに起こそうとしているので、
急遽、今回のブログ記事を書こうと思いました。

これは《ISとの戦争》なのでしょうか?


ISとの戦争〉に(かこつ)けた
《『非戦/平和に生きる権利・自由』への権力からの
侵略
》とさえ、高樹は言いたくなります。

すくなくとも《戦争欺瞞》については
言えるはずです。

この記事を御覧になって、
つぎのことを、まず思われたのではないでしょうか?

つまり、
結果的に、イラクには大量破壊兵器が
見つからなかったし、
イラクへの査察も果たせていない内に確信的に
アメリカイラクに、戦争をすることができたのか
というと、
そもそも当のアメリカ政府みずからが
1980年代に、サダム・フセインのイラク国家に、
化学兵器と生物兵器の大量破壊兵器の構成要素
与えていたからじゃないか!という呆れを。

今回は軍事大国の「その欺瞞ぶり露わにするために、
ニーチェ&フーコーの系譜学の道具
今回は使いました。

権力の戦略的意図性が、
その都度都合思惑如何んによって、
かかる事柄あつかう態度内容が、
これほどまでに変容(≒系譜)するものか、について、
うかがい知ることのできる興味ぶかい記事です。
どういった《変容系譜》なのか?
あるいは
どのような《アメリカ政府戦略内容変容》なのか、
覩てみましょう。

アメリカ合衆国政府の、
1980年代対イラク≒フセイン政権への姿勢〉と
2000年代対イラク≒フセイン政権への姿勢
の“真逆ぶり”、

ドナルド・ラムズフェルドという同一人物の、
1980年代の対-中東特使としての
対イラク/対サダム・フセイン姿勢〉と
2000年代のブッシュJr政権時の国務長官としての
対イラク姿勢〉との“真逆ぶり

イラク国家のサダム・フセイン大統領に対する
アメリカ政府の、その時々戦略的内容からくる
1980年代外交姿勢〉と
2000年代外交姿勢〉との“真逆ぶり
――〈1980年代のときは、
フセイン大統領のイラクは、
地政学的に、「対イランの砦」として、
アメリカにとって貴重な存在だったので、
サダム・フセイン大統領のイラク国家が、
クルド人やイラク自国民に化学兵器を使用する
という国際法に反する行為をしようが、
アメリカ政府は、無視してイラクを支援していたし、
父ブッシュは、副大統領大統領として、
湾岸戦争勃発の直前まで、
イラクを支援していたのに対して他方
2000年代〉では、
戦略変更起こっていて
結局的にイラクには、
大量破壊兵器見つからなかったにもかかわらず
大量破壊兵器をイラクは保有している
という確信のもと
――そりゃそうだアメリカ政府自身が、
サダム・フセインのイラクに流していたんだから――
父ブッシュの長男のブッシュJr.大統領アメリカが、
サダム・フセインのイラク国家侵攻し、
多くのイラクの人々虐殺し、
家族友達恋人人生未来社会も、
何もかも殺し焼き尽くすだけでなく、
その傷跡が、中東地域を、
悪循環的に苦しめ続けている、という始末。


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