今日の音楽「邦楽編」(その1565) | 洋のblog

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Music Journey


今夜も「懐かしソング」をメンテナンスしました。
ビッキーズで「赤い花白い花」。


過去記事はこちら。(リンク貼ってます)


以下はWikipediaにあります本作に関する記事です。
時系列に並べました。(少し長くはなりましたが……。(^_^;))
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「赤い花白い花」は、銅版画家の中林三恵が作詞・作曲した楽曲である。
フォークグループ赤い鳥をはじめ、
多くのアーティストにより歌われて世に広まり、
フォークソングの名曲として愛唱されている。

「赤い花白い花」は、中林が高校時代に作った楽曲である。
(当時は旧姓の遠藤三恵)
高校生の中林は、地元群馬のあぜ道を歩きながら
この歌を口ずさんでいたという。
中林が群馬大学教育学部在学中の1964年(昭和39年)、
同大学の学園祭で開催されたクラブ対抗合唱祭で、
所属していた美術クラブとして楽曲を発表したところ、
全国教育系学生ゼミナールなどで歌われて広まった。
中林は
「自分だけのための歌を持っているのがうれしかった。
 でも友だちに教えたことから歌は一人歩きをしはじめました」
と語っている。

 当時盛んであったうたごえ運動の中でこの曲が歌われ、
全国の学生らに広まった。
そして関西のフォークグループであった赤い鳥のもとにまで、
この歌は届くこととなる。

赤い鳥のリーダー・後藤悦治郎らの友人が、
北海道旅行の際にユースホステルで旅人が口ずさんでいたのを聴いた。
友人はそれを聴いて歌を覚え、後藤に伝えた。
当時のユースホステルでは旅する若者らが集まり、
夕食後の「ミーティング」ではフォークソングなどを歌って
親睦を深める習慣があった。
そうした文化を背景に、この曲が赤い鳥のもとまで届いたのである。 
歌を聴いた後藤は感銘を受け、
1970年(昭和45年)6月25日に日本コロムビアから
シングル『人生/赤い花白い花』としてリリースした。

1974年(昭和49年)9月に赤い鳥が解散後、
メンバーの後藤と平山泰代(同年2月に後藤と結婚)は
夫婦デュオの紙ふうせんを結成。
紙ふうせんでも「赤い花白い花」をレパートリーとしている。
また、解散後にハイ・ファイ・セットを結成した元メンバーの山本潤子も、
この曲をレパートリーとしている。
後藤は「赤い花白い花」について、
「コンサートではどこの会場でも知っている人が多く、一緒に歌ってくれた」「ヒットさせようというのでなく、ありのままの気持ちで作られた歌」
と語っている。

1976年にCBSソニーから発売のシングル『赤い花白い花』で、
女性フォークデュオ「ビッキーズ」がデビューした。
メンバーは川島敬子(ケイちゃん)と山田企司子(キイちゃん)。
編曲は浦野直。 

2人は横浜市内の音楽コンテストに度々出場し、
テレビ神奈川のフォークソングコンテストで連続4週勝ち抜いた末、
その年の決勝大会で準優勝を勝ち取る。
その後、紙ふうせんのコンサートでバックコーラスとして参加し、
1976年にレコードデビューした。 

「ビッキーズ」のユニット名は後藤悦治郎が命名した。
ビッキーとは山形県の方言で蛙のことで、
「井の中の蛙大海を知らず」の諺から、まだ世間に染まっていない若い2人が、
音楽活動を通して世界の広さと深さを知ってほしいという
願いから名付けたという。キャッチコピーは「Jump Up ビッキーズ!」。 
ビッキーズによる「赤い花白い花」は、
1976年(昭和51年)12月から1977年(昭和52年)1月にかけて、
NHKの音楽番組『みんなのうた』で放送された。
番組でのアニメーションは林静一が担当。
これにより楽曲の知名度が大きく向上した。
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