私は昭和31年(1956年)生まれです。私がこどもだった頃は、漫画とテレビがこどもたちの娯楽の中心でした。漫画については、「少年」や「少年画報」などの月刊漫画雑誌から「少年サンデー」や「少年マガジン」などの週刊漫画雑誌へと移行していく頃でした。
この頃、子どもたちの間で絶大な人気を誇っていたのは何と言っても「手塚治虫」さんで、手塚治虫さんに憧れて漫画家になり、徐々に人気漫画家となっていった人たちに「石森章太郎(後に石ノ森章太郎)」さん、「藤子不二雄」さん(後の「藤子・F・不二雄」さんと「藤子不二雄Ⓐ」さんのお二人)、「赤塚不二夫」さんなどがいます。
石森章太郎さんは「サイボーグ009」、藤子不二雄さんは「ドラえもん」・「まんが道」、赤塚不二夫さんは「天才バカボン」を描いたことで、これからも日本の代表的漫画家として語り継がれていくことでしょう。
私は、このブログのVol.88【幸せだった「トキワ荘」の時代を思う】で「トキワ荘」のことをお話しさせていただきました(「トキワ荘」のことをご存じない方はVol.88を参照してください)。
漫画家になることを夢見てトキワ荘に集まって来た人たちの中心には、いつも「寺田ヒロオ」さんがいました。今回は、この「寺田ヒロオ」さんについてお話ししたいと思います。
私が寺田ヒロオさんのことを考える時、いつも最初に心に浮かぶのは「スポーツマン金太郎」という漫画です。この漫画の内容を簡単にお話しすると、「オトギ村には野球チームがあり、金太郎は強打者、桃太郎は速球投手で、いつも試合で優勝を争っていた。二人はプロ野球に入って力比べをすることになり、金太郎は読売ジャイアンツ、桃太郎は西鉄ライオンズに入って活躍していく」というものです。本当に明るく楽しい子供漫画のお手本のような漫画で、私は大好きでした。この漫画は、第1回講談社児童漫画賞を受賞しています。
寺田ヒロオさんは、トキワ荘では若手の漫画家の「兄貴分」として、また漫画家としてヒット作品を数多く描いて、地味ではありますが漫画界の中心的人物でしたが、後に大変不幸な形で人生を終えられます。そこまでの寺田ヒロオさんの軌跡をお話ししようと思います。
寺田ヒロオさんは、1931年(昭和6年)に新潟県で生まれました。高校時代には、野球部に所属するとともに、少年漫画雑誌「漫画少年」と出会い漫画の投稿を始めます。高校卒業後は地元の警察の事務職として就職しますが、電電公社(現:NTT)に転職し、社会人野球の投手として活躍します。しかし、どうしても漫画への情熱を捨てがたく、22才の時に上京しトキワ荘に入居します。寺田ヒロオさんは、「漫画少年」の読者投稿欄の添削指導を担当していたので、彼を慕って地方から漫画家志望の若者がトキワ荘を訪ねてくるようになります。そして、いつしかトキワ荘は漫画家志望の若者の牙城のような存在となり、面倒見が良い寺田ヒロオさんは、そんな彼らを物心両面で愛情深く面倒を見て、トキワ荘のリーダーのような存在になりました。寺田ヒロオさんがいなかったら、漫画家としての藤子不二雄さん、石森章太郎さん、赤塚不二夫さんはいなかったかもしれません。
「背番号0(ゼロ)」、「スポーツマン金太郎」、「暗闇五段」などのヒット作を連発し人気絶頂の漫画家として活躍していた寺田ヒロオさんですが、手を抜くことなく良心的な漫画を描いていた彼は、漫画雑誌の週刊化に伴い仕事のペースがどんどん上がっていくことについていけなくなります。また、漫画界では「劇画ブーム」が訪れ、リアルで映像的な画調と刺激的なストーリーがもてはやされるようになり、正統派児童漫画だけを描き続ける彼の作風は時流から取り残されるようになっていきました。寺田ヒロオさんは劇画ブームに強い反感を持ち、仲間との会合でもたびたび批判を繰り返すようになりました。
そして、遂に寺田ヒロオさんは、自分の漫画が連載されている雑誌の編集長に、劇画作品の連載を全て打ち切るように要請する、という驚くべき行動に出ます。しかし、その考えは受け入れられず、周囲からも反感を買い、遂には自分の連載が打ち切られることとなりました。
寺田ヒロオさんは、徐々に漫画制作のペースを落としていき、1964年に「暗闇五段」の連載終了とともに週刊誌の連載から撤退し、そして、1973年には漫画業そのものから完全に引退してしまいました(まだ42才なのに・・・)。
その後は、トキワ荘の仲間とも会おうとしなかった寺田ヒロオさんでしたが、1990年に突然、トキワ荘の仲間(藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、つのだじろう:敬称略)を自宅に呼んで宴会を催し、散会後帰っていく仲間たちにいつまでも手を振り、「もう思い残すことはない」と家族に話したそうです。
翌日、藤子不二雄Ⓐさんがお礼を言うために寺田さん宅に電話をしましたが、本人は電話口に出ず、奥様から「今後一切俗世間と関わらない」という伝言を伝えられたそうです。
寺田ヒロオさんは、その後、自宅の離れに一人で住み、母屋に住む家族ともめったに顔を会わせることもなく、朝から酒を飲む生活を送るようになり、1992年9月に亡くなりました。
私は、いまでも、寺田ヒロオさんの漫画の、友達や家族を大事にする暖かい作風を覚えています。昭和30年代の穏やかな時代から激しく変革する高度成長時代へと移り変わる中で、寺田ヒロオさんはたぶんその変化を拒否したのでしょう。私は、その気持ちが分かるような気がします。
※ Xに画像を投稿しました(2024.7.21)。
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