11、大手町で待つもの(4)
鶴見中継所で、仲間の襷を受け取った直哉は、もうすでに多摩川の橋を渡ろうとしていた。第一京浜に見える『東京都』と言う文字。この橋を渡ればもう東京だ。
この道は数ヶ月前、詩織の為に山下公園からバラの花をとってきた帰り道だった。
雨でずぶ濡れになりながら、大好きな詩織の為に走り続けた。そして直哉は今、再びこの第一京浜を走っている。
沿道には沢山の観衆達が「がんばれ」とエールを送る。
直哉は胸に手を当てた。詩織と一緒に大手町にゴールするんだと。
そして軽快に加速して行き、なんと蒲田で10位の駒澤大学を抜き去ったのだ。そして青物横丁では更に9位の城西大学をも抜き去った。
初出場でなんと9位。今まさにシード権内を走っていた。
そして・・・
直哉が田町を通過した時、沿道から一人の男の声が聞こえてきた。
「頑張れ直哉!!!」
その聞き覚えのある声に気付き、直哉はふと沿道へと眼をやった。すると沿道には、直哉と併走して走る、兄の恵一の姿があった。
「頑張れ直哉!」
「頑張れ直哉!」
必死に走りながらそう叫ぶ恵一。そんな兄の姿を見て、直哉の目から涙がこみ上げてきた。
ずっと自分が嫌われていると思っていた。時に頭ごなしに怒られ、時に嫌味を言われ。とにかく嫌いだった兄。
しかし、恵一は直哉の事を思っていた。そしてそれと同じように直哉も恵一を何処かで待っていた。兄弟である事に、何ら変りはなかった。
「兄貴・・・」
「直哉!頑張れ!」
「直哉!頑張れ!」
兄弟は何年かぶりに共に走った。この箱根駅伝のコースで共に走った。
兄の愛情に初めて気付いた直哉は、溢れんばかりの涙を流しながら走り続けた。
そして大手町のゴールへとやってきた。
沿道にならぶ沢山の観衆の声援に支えられながら、東部工業大学は見事ここまで走りぬいたのだ。
そしてこの初出場チームの大健闘に、大手町沿道の観衆達は大きな拍手で彼らを出迎えた。
かっこよくなくてもいい。無事完走を果たしたのだ。しかも最後までしっかりと襷をつないだ。
たとえそれが綺麗でなくても、たとえそれが優雅でなくとも。時には倒れ、時には這いつくばり。ボロボロにながらでも歩み行く。人生とはそういうものではなかろうか?
いろんな事があった。泣いたり笑ったり。そして足がつったり。
でも、そうやって繋がれた仲間の襷は、10人のランナーの汗と努力の結晶として、今この大手町の読売新聞社前へと帰ってきた。
大勢の声援と拍手に見守られる中、直哉は目に涙を一杯に溜め込みながら、腕を高らかに振り上げた。
そして詩織とともに、9番目のゴールテープを切ったのだ。
直哉がゴールをすると、グランドコート姿の部員達が一斉に駆け寄ってきた。そして全員で泣きながら、大手町のビルの谷間で抱き合った。
「やったぜ!」
尾崎はそう言って、直哉をギュッと抱きしめた。
「はあ・・・はあ・・・尾崎さん・・・ありがとう・・・ありがとう・・・」
「それはオレのセリフだ!牧野!本当に有難う!」
「ありがとう」
「ありがとう」
お互いにそう言い合い、二人は強く抱き締めあった。
ビルの谷間をこだまする、割れんばかりの拍手の渦。
東部工業大学駅伝部の全員は、少年のように大泣きしながらお互いを抱き締めあった。
まさに素晴らしい走りだった。素晴らしい絆だった。そして堂々の9位シード入り。
こうしてランナー達の正月のドラマは終わった。
そして再び春の季節がやってきた。
春の陽気が立ち込める東京の街。公園やお寺のあちらこちらには、桜の花が美しく咲いていた。
そんなある日、直哉はふと五反田のバーのあった場所を通りかかった。そこはちょうど一年前、初めて詩織と出会った場所だった。
あの夜、美しいピアノの音色に引き寄せられるようにして、このお店の中へと入っていった。しかしそのバーは、いつの間にかイタリア料理店に変わってしまっていた。
店内に入ると、詩織が弾いていたピアノも、既に何処かに撤去されて無くなっていた。
ただ何も置いていない演奏スペースだけが、まるで夢の跡のようだった。
詩織の住んでいたワンルームマンションも、既に他の人が入居してきたのか、ベランダには男物の洗濯物が干されていた。
こうやって一つ一つ消え行く思い出・・・。
直哉は五反田の公園のベンチに一人座わり、詩織の形見の銀色の指輪を見つめた。そして、あの楽しかった二人の思い出を、一つ一つ思い出していった。
時には辛くて我慢が出来なくなってしまう事もある。
生きる希望すら無くしてしまう時もある。
でも・・・。
時は決して戻る事はない。
だから詩織の居ない寂しい世界でも、自分は頑張って生きていかなくてはならない。
詩織のいない辛い世界でも、それでも走らなくてはいけない。
苦しくても、辛くても、自分はこれからの為に生きていかなくてはならない。
東京の街は時を重ねるごとに変わって行き、詩織が生きていた証も年々と消えうせてゆく。
頭上に舞い落ちる、一枚の桜の花びら。
それはまるで詩織が笑っているかのようだった。
おわり