一、父と僕(第一話)
玄関の扉を開けると、地面に油蝉の死骸が転がっていた。その光景を見ると、この夏もそろそろ終わりだと感じてしまう。
この蝉は、長い月日を暗い地中の中で過ごし、やっとの思いで青空へ羽ばたくと、たった1週間で命朽ち果ててしまう。その姿は一見哀れにも見えるが、僕は決してそうは思わない。
短い一生を懸命に生きた事に違いはないのだ。時にそれは、人間よりも立派に生きているように僕は感じてしまう。
何故なら僕自身、ただなんとなく混沌とこの世の中を生きているにしか過ぎず、この油蝉のように、短い命を懸命に生きている訳ではないからだ。
この世の中を支配する人類。しかしその人生は、決して薔薇色ではない。
中学生の頃、本が大好きな僕は小説家になりたいと思っていた。しかしそんな夢も、大人になるにつれて、段々と自分の脳裏から消えうせえていき、普通に高校を卒業すると、青山学院大学へと入学。そしてコンパに明け暮れた大学生活を終えると、大手の新聞社へと就職した。
新聞記者とは一見華やかに見える職業かもしれないが、現実はそんなものではない。新聞社だって立派な営利団体であり、起こった事実を紙面に載せる事だけが仕事ではない。スポンサーを探す事も立派な仕事なのである。つまりよっぽどの不祥事が無い限り、スポンサーにとって不利な記事は載せないというものが新聞社の鉄則。
今まで取材した中でも何度かボツになった事があったが、それはスポンサーの機嫌を損ねたら大変という編集長の思いでしかなく、僕はそんな理不尽さに不満を感じながらも、結局は『仕方が無い』の一言で物事を済ましてきた。
一見正義感が強いと思われる新聞社。しかし、そんな社会にもしがらみというものが存在し、そんな混沌とした社会を、僕は今日も流されるようにして生きている。
所詮は一サラリーマン。なんら変わりがない。
趣味と言えば小説を書く事ぐらい。一度諦めた夢をもう一度という訳ではないが、小説を書いていると、なんとなく現実社会のしがらみを忘れる事が出来るのだ。
これは単なる現実逃避なのかもしれない。しかしこの現実逃避の時間があるからこそ、目の前にある混沌とした現実社会を生きていけるのである。
客観的に見ると、僕の書いた小説は決して面白いとは言えないだろう。しかし妻の佐智子だけは、どういうわけか、こんな僕の書いた小説を面白いと言ってくれる。褒め上手なのだ。
僕の名前は久保川真治。歳は36歳。妻の佐智子と3歳になったばかりの娘、綾の3人家族。
人の寿命は現在80年と言われる。
僕は人間として毎日混沌としながら生きている。そしてあと数年で人生の折り返し地点に差し掛かろうとしている。
こんな僕にこの夏、大きな出来事が起ころうとしていた。
大磯の町には、今日も相模湾からの風が吹き注ぐ。ここは今年の6月に引っ越してきたばかりの町であり、36歳となった僕は、なんと35年もの長期ローンを組み、初めてマイホームというものを手にした。
同僚からは「勤務先が大手町なのに何故そんな遠いところへ」とも言われた。理由は簡単な事で、大磯の町こそが、僕の生まれた町だったからだ。
母親は小学校2年生の頃に死去した。癌だった。そして母を亡くしてからは、学校教員であった父と二人暮らし。
しかしハッキリ言って父との仲は最悪。何事も否定ばかりする父は、僕にとって一番憎むべき存在でしかなかった。そして大学を卒業すると、もうこんな家嫌だと言って、真っ先に家を出た。父と早く別居をしたかったのだ。
そしてそれ以来父の顔を見ていない。ただ単に憎いわけでない。父を憎んで自分が偏屈な性格になってしまうのも嫌だったからだ。自分が誰も憎まず平和に生きる為には、父の存在というものは邪魔者以外何者でもなかったのだ。
それから13年もの月日が流れ、その間結婚をし、子供も出来、そして僕はこの大磯の町へと再び帰ってきた。
勿論今でも父と会う気は無い。ただ若くしてこの世を去った、母親のお墓の面倒ぐらいはしっかりとみなければいけないという思いが、僕を再びこの大磯の町へと導いたのだろう。
大磯駅には、今日も真治の妻の佐智子と、娘の綾が、毎朝恒例のお見送りに来ていた。
「パパ、行ってらっしゃい」
「綾。いいこにしてるんだぞ」
「うん」
3歳になったばかりの綾は、そう言うと、今日もあどけない笑顔を見せた。
「真ちゃんいってらっしゃい」
妻の佐智子にそう言われると、真治は笑顔で「ああ。行ってくるよ」と言って手を振り、大磯駅の改札口へと消えていった。
真治はこれから一時間以上の時間をかけ、大手町の大東京新聞社へと出勤するのである。
東海道線の朝のラッシュ地獄はハンパじゃない。なにしろ神奈川東京間を結ぶ大動脈鉄道である。この電車の利用者は物凄い数である。
ガタンゴトンと音を立てるすし詰めの車内。こんな密閉空間を一時間も耐える事が出来るのだから、慣れというのは恐ろしいものだ。
そんなラッシュ地獄に耐えながらも、真治はつり革を両手でしっかりと握り、目的地の大手町を目指した。