F9の雑記帳 -3ページ目

『親切の人類史』





 マイケル・E・マカロー『親切の人類史 ヒトはいかにして利他の心を獲得したか』(的場知之訳、みすず書房)を読みました。
 先日近所の図書館で見つけ、本の題名に惹かれて借りてきて読み始めたのですが、進化や利他行動に関するいくつかの理論を検討する第一章から第六章までは自分自身の知識のなさを痛感させられ、読み進めるのが少し苦しかったです。
 ああ、ダーウィンは本当に偉大だな…。
 ですが、「人類が途方もない苦しみに直面した七つの局面」(153頁)と「困窮する他者に対する私達の態度に起こった大革命の数々」(153頁)を論じる(「孤児の時代」「思いやりの時代」「予防の時代」「第一次貧困啓蒙時代」「人道主義のビッグバン」「第二次貧困啓蒙時代」「成果(インパクト)の時代」とそれぞれ題された)第七章から第十三章はどの章も読んでいて面白く内容に納得させられっぱなしで、(本来なら自分に怒るべきなのでしょうが)先の第一章から第六章までよりも読み進めるのが若干楽でホッとしました。
 そして、「理性が導き出す思いやりの理由」と題された第十四章は「さまざまな知見を、他人への親切に関するひとつの首尾一貫した説明へとより上げるため」(345頁)の章なのにも関わらず今までの読書経験が生きたのでしょうか、先の第七章から第十三章を読んだ時と同様に読んでいて面白く、終盤の“他者への思いやりの未来”の部分で「この先わたしたちの思いやりの能力がどんな試練に直面するかを、ある程度推測することができる」(366頁)と書かれている試練の数々の言及には見事に納得させられてしまいました。
 ああ、(この賞の内容と直接に関係する訳ではないので何だか恐縮ですが)「理性の力は、みんなで考えれば、もっと強くなる」(357頁)し、「個人の生活のなかでも公共空間に置いても、わたしたちが重要と考えることがらについて、論理的思考と議論を歓迎する環境を維持することが重要なのだ」(372頁)な…。

『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』



 レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』(望月哲男訳、光文社古典新訳文庫)を読みました。
 この本に収められた2篇の小説はどちらもその内容が身に迫ってきて、読み終えて「(僕には)今が読むべき時期だったのかもしれないな」と思いました。
 以下、それぞれの小説に関する感想(めいたもの)を書いておきます。

・「イワン・イリイチの死」:いくら控訴院判事イワン・イリイチにモデルがいたり、作者の死生観が盛り込まれていたとしても、第2章以降の彼の死に向かう過程の描写は迫力があり、死の瞬間が近づくにつれ生への懐疑が強まっていく部分等、読んでいる途中で何度となく頷いたり声を上げてしまいました。ああ、死を迎える人の心理は(その変遷も含めて)この小説での描写が一番近いのかもしれないですね…。あと、個人的には台所番のゲラーシムのイワン・イリイチに対する優しさと、(それとはあまりに対照的な)イワン・イリイチの妻であるプラスコーヴィヤ夫人の夫に対する思考や態度が比較的強く印象に残りました。

・「クロイツェル・ソナタ」:汽車の中で地主で貴族の男が語る嫉妬から妻を刺し殺してしまった話は、僕は語り手が組み立てて(彼の中で)ある意味普遍化した思想の内容や話自体の内容等により終始僕を圧倒しましたが、読んでいる途中で「イワン・イリイチの死」を思い出してしまい、状況等は違うとは言え)死がテーマだから似ている部分があっても仕方ないのかなと思いました。しかし、聞き手の男も語り手のエネルギーを受け止めた上で軽く質問までしているのだから、相当忍耐力があるんだな…。あと、巻末の解説(345頁)を読んで、僕もこの小説をチェーホフと同じ感じで読んだ(「読みながら『そのとおり』とか『ばかな』とか叫び出すのをやっとのことでこらえていた」)のを知り安心しました(?)。

「宇宙日本煉瓦小史」ほか



 『群像』2024年10月号所収の3篇の小説を読みました。
 以下に感想(めいたもの)を書いておきます。



・宮内悠介「宇宙日本煉瓦小史」(僕の携帯電話では“煉”の字が出ませんでした。):ページ数は多くない小説なのですが、読んでいて本当に吃驚しました。ニコライ・フョードロヴィッチ・フョードロフが草分け的存在とされる“ロシア宇宙主義”の意味を文字通りに考えると、こんなに未来的な世界が描く事が出来るだなんて思いませんでした。帝国宇宙主義(インペリアル・コスミズム)、(後に日本軍が「みちびき」と呼ぶ事になると言う)煉瓦により作られ、乗組員達が計器類を駆使して活躍する構造物…。(後に日本軍が「みちびき」と呼ぶ事になると言う)煉瓦により作られ、乗組員達が計器類を駆使して活躍する構造物…。


・くどうれいん「鰐のポーズ」:自分自身の恋人が十一歳年上の既婚者である事を、大学の時に仲が良かった友人の「むっちゃん」と一緒に食事した際には話題に出来なかった一方で、通っているヨガ教室で一緒に練習している「ようこ」の恋人が子供もいる既婚者なのを知った後、一緒に食事した際には話題に出来た主人公の「くるみ」の(“私達同じでしょう?”と言いたげな後ろめたさも含んだ)心情が何だかジワジワと身にしみてきて若干嫌な気分になりました。更に、先の食事の日より後でようことヨガ教室で一緒になった時、くるみのようこに対する見方が変わってしまう様子の描写も自分自身を見ているようで、何だかいたたまれない気分になりました。ああ、早く時間が過ぎてくれないかな…。