F9の雑記帳 -1350ページ目

途上にて

 今、仕事を終えて新幹線で東京に向かっている。「小さな旅」がまたはじまるのだ。いや、新幹線を使っていくのだから、「大きな旅」になるはずだと思うが…。これ以上馬鹿なことを言いだす前に車内でビールを飲んでいる。気分転換のつもりではあるが、少し酔ったのか。筆の速度に頭が追いついていないように思える。
 今日もまた昨日書いたように足は進まなかったが、(更にいうと勇気も出なかったが)とにかく前進することにして、なんとか朝は仕事場に着いた。その後は自己嫌悪とそれに伴う(と自分では思っている)吐き気が交互にやって来たが、いつの間にかそれなりに快方に向かった。だが、そこで止めておけばいいのに調子に乗って(だれかから一声かかれば)裸踊りしてしまいそうなぐらい気分が上ずってしまった。いつも通りぐずぐずと仕事をしていればよかったに違いない。思わず口笛を吹きそうなぐらいの調子であった。ああ情けない。落ち着かなきゃいけないと知っているはずなのに…。悔恨の気持ちがむくりと起き上がってきた。またやってしまった…。やはり「ここ」とは違う場所に行くことが嬉しいのだろうか。そんなこんなで時間が過ぎて、ブログを書いている。調子に乗ってこんなことをやっている僕自身おかしくてたまらないのだが…。

再燃

 明日が来なければいい。
 夜になるとそう思う。昨日も一昨日も一日たりとも考えなかった日はない。
 それなら死んでしまえばいい。一番簡単なことだ。方法ならいくらでもある。でも今まで僕は何もしようとしなかった。情けないことに怖いのだ。一昨日も電車のホームから線路側に足を踏みだそうとしたができなかったし、その前の日も映像は思い浮かぶが実行できなかった。それから神に祈ったり、聞こえないぐらいの小声で愚痴を言ったりするぐらいならしたことはあるが、それも逃げの姿勢の一端にすぎない。ああ馬鹿らしい。こんな奴ほど早く死ぬべきではないのか。無駄飯食ってんじゃねえよ!
 そう思っていても、いや、そう思うからこそなのか、明日は間違いなくやって来るに違いない。神の思し召しやら運命やら名前を決めるのは勝手だが、それならそれでまた生きていくしかないのだろう。それを決めるのは他ならない僕自身なのだが…。

土産

 先のブログで東京で観たライブのことを書いたが、本も買った。それらを以下に記しておくことにする。
 『現代俳句文庫64 澤好摩句集』(2009年1月、ふらんす堂)
 『田中裕明 追悼 ふらんす堂通信・別冊No.1』(2005年10月、ふらんす堂)
 『昼寝の国の人―『田中裕明全句集』を読む ふらんす堂通信・別冊No.2』(2008年12月、ふらんす堂)
 鳥居万由実『遠さについて』(2008年11月、ふらんす堂)
 別にこれだけ買ったからなんだということではないが、ついブログや雑誌などで本の紹介があるとつい買いたくなるのだ。だが、なかなかふらんす堂の本を(僕の知っている範囲での)東海地方の大型書店などで見かけないので、東京に行ったときなどにまとめて買う次第なのだ。(ちなみにまだ全部読み切れてはいない。更に言えば、昨年からの積み残し分も充分読み切っているとは言い難い状態にある)
 僕自身の中では、俳句よりも短歌を詠んだり鑑賞するのが好きなので、句集を買うというとつい言い訳がましく「怠りがちな“勉強”もかねて…」と自分に言い聞かせながら買う羽目になる。まあ、自分が自身を相手に小芝居を演じる形なのだが、馬鹿らしいことこのうえない。その積み重ねが今の僕を作っているといわれると返す言葉がない。…どこまでいっても同じこと、僕は僕なんだなと思う場面が出来するのだ。
 しかし、買った書籍はどれも面白い。仕事場への行き来や帰りの新幹線の中でも読んでいたのだが、何でこんなふうに詠めるんだろうという嫉妬心やら、早くこんな風に詠みたいものだという焦りが出てくるのが常な自分には、少し苦痛な時間であった。そんな自分なので感想を述べることさえいつできることやらわからないが、適当な時期に感想など書ければいいと思う。(このまま何もしない可能性は充分にありえるのだが…)