F9の雑記帳 -1347ページ目

才能

 才能とはなんだろう。
 今ふと頭に浮かんだ。すごく下らないものを書きかけて止めたせいだろう、そんな自分がまた憎いのかもしれない。
 しかし、今日はまた冬に戻った一日であった。もう何分かで今日が終わるときにこそ、一日を振り返るべきだろう。(そうかな?)
 朝は雨が降りそうで降らず、偏頭痛がするなか仕事をとりあえずこなした。今は今日の宿に向かうため(また東京に出張のため)、中央線の電車の中だ。ああ暖かい。気持ち悪いほどの暖かさだ。
 このまま今日は終わってしまうのだろうが、才能が何かということは何一つわからないままだ。何だか情けないが、わずかに下らない文章が書ける(いや、「書いた」というべきだな)という事実を残したことは僕自身には特筆すべきことかもしれない。

評価

 やはり来た。
 明日が月曜日だから仕方ないのかもしれないが…。猛烈に憂欝だ。明日からどうなることやら。加えて先週末から予兆はあったが、どうやら花粉症の時期に突入したようだ。花と眼の周りが痒くてたまらず、一度くしゃみが出はじめるとなかなか止まらない。田舎に住んでいるからなるわけないと思っていたのに…。
 ところで、昨日大阪文学学校の合評会の様子が放送されていたが(「ドキュメント日本の現場 『合評会の熱い夜』」)、心の中をさらけ出すことは絶対に必要なのか。僕にはよくわからない。書くことによって自己が滲み出ることは間違いない以上、一つの方法としては有効だろう。だが、それだけが文学の在り方だとは思わない。もしそうであるなら、世界の文学は全て同じ香りや手触りがするはずだが、一概に賛成できない作品もたくさん有るのだ。作家を目指すための最初の段階というならよくわかるのだが…。
 いずれにせよ、今は何の評価もされていない僕の考えだから、この短い文章でさえもう間違いなのかもしれない、…。

変更

 何かおかしい。
 まだ二月だというのに、この暑さはどうだ。思わず一日中目を瞑っていたくなった一日だった。予定では、夜ライブを観に行くつもりだったが、途中で気分が変わり(気分屋で困ったものだ)、名古屋で私用を済ませてから、本を読むことにした。
 相良平八郎『橋刑夢飢』(1976年,書肆季節社)。相良平八郎は北川朱実『死んでなお生きる詩人』(2001年,思潮社)で言及されていた詩人であり、一度きちんと詩集を読んでみたいと思っていた。それが偶然にも先週木曜日に阿佐ケ谷の千章堂書店で『橋刑夢飢』を見つけ、購入。すぐに読めばいいのに、つい先延ばしにしていた。これではいけないと自分の中で決意して、今日読んでみた次第である。
 読んだ印象としては、行分け詩・散文詩を問わず、全ての詩が「歌」を希求しているように感じた。「叙情を厳しく排除」(北川朱実)すると詩は自らリズムなどを纏い、叙情を求めようとするのか。答えははっきりしないが、朗読したり歌ってみればわかるかもしれない。また、自己の感情を入れず、湿度の低い表現でイメージの定着を図っているため、日常を書いた詩であればありがちな感動を強制する部分が少ないように感じた。それは弱点といえばいえるかもしれないが、僕にはとても心地よく、参考になる部分であった。自分の書く詩は、「言葉遊びしているだけの詩」とか言われるので、再び自問の日々をはじめなければなるまい。
 …ここまで書いてきて情けないことだが、つくづく僕は批評には向いていないのだな。そして、そんな文章しか書けない自分がたまらなく嫌だ。どうしてうまくできないのか。頭ではわかっているつもりだが、日々勉強、なのだな…。