台湾を守った男 根本博中将 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

台湾への中国共産党軍の進軍を、ギリギリのところで食い止めた金門島の戦い。

 

実は、その戦いを裏で指揮していた日本人がいたのです。

 

昭和20年8月終戦とともに中国大陸からの日本人居留民の引き揚げが始まりました。

 

昭和20年8月16日から内蒙古司令官から、北支那方面軍総司令官となった根本博中将は、北京に移った際に国民党政府の蒋介石から会いたいと連絡を受けて、面談しました。

 

そこで蒋介石は次のように述べました。
「今でも私は、東亜の平和は日本と手を握っていく以外にはないと思う」

 

根本博中将は、内モンゴルからの日本への引き揚げ者、4万人のために協力してほしいと頼み、蒋介石は承諾します。そして、35万人の北支那方面軍の兵隊を日本に復員するために協力してくれました。

 

その後、根本博中将は、いつの日か蒋介石に恩返しがしたいと、心に刻み込み、日本に復員します。

 

その頃、中国大陸では国共内戦がすでに始まっていましたが、蒋介石軍が勝つだろうと楽観視していました。
 

なぜなら、国共合作の以前までの共産党軍との戦いでは、国民党軍が圧倒していたからです。

 

しかし、満州国で関東軍(日本軍)から大量の武器弾薬を接収することができた共産党軍は、近代的な軍隊へと変わっていました。
 

また、正規の砲兵隊がなかったので、日向勝を筆頭とした日本人教官の元で、砲兵学校を設立して養成しました。

 

さらに、航空戦力を保持していなかった八路軍(共産党軍)は、林弥一郎少佐以下の関東軍で第二航空隊第四錬成飛行部隊を教官とした、東北民主連軍航空学校を設立しました。

 

この日本人に養成された搭乗員は、共産軍の勝利に大きく貢献することとなりました。医師や衛生兵や看護師など、戦争に必要な技術を持つ人は日本に帰国させず、徴用しました。

 

また、それまで蒋介石軍を軍事支援して来た米国が、日本の終戦後、中国の全権大使となったジョージ・C・マーシャル将軍の影響により、支援を行わなくなりました。

 

その結果、蒋介石軍は連戦連敗となり、ついに台湾に追い詰められてしまいました。

 

そのような状況を日本で聞いていた根本博は、いてもたってもいられなくなり、蒋介石の元に飛んでいきたいと思いました。

 

そこで、渡航費用を捻出するために骨董品を売りさばいたりしていましたが、思うように資金が集まりません。

 

そのような時期に、黄浮(こうふ)の娘からの手紙が届き、中国にきて助けてほしいと懇いう内容でした。
 

また、中国からある青年が根本博の元に訪ねてきました。
国民党軍の儀作義将軍からの使者であると話し、そして、中国に来て助けてほしいと懇願してきました。

 

根本博は、黄浮(こうふ)と面識があり、また儀作義将軍とは信頼関係があったので、その人物を信用して、通訳者や他の何人かの仲間を誘って、台湾へ密航します。その際、渡航費用の資金をあちこちからかき集めてくれたのが、元台湾総統、明石元二郎の息子の明石元長氏でした。

 

当時の日本は、まだGHQ占領下でしたので、簡単に海外へ行くことはできませんでした。
そこで、密航するしかなかったのです。

 

昭和24年(1949年)6月26日、宮崎県延岡市の沖で、26トン級の小さな汽船に6名の仲間(吉川源三、岡本秀徹、照屋林尉、中尾一男、吉村、浅田)とともに乗って、台湾へ向けて出航しました。

 

途中、何度も沈没遭難しかかり、また、途中、座礁したために立ち寄った島で地元警察から密航の疑いをかけられ、危うく逮捕されそうになったりと、やっとの思いで台湾に到着。
 

到着したのは7月10日でしたので、14日もかけての到着となりました。

しかし、到着して間もなく密航の疑いで、台湾警察に逮捕され投獄されてしまいました。

 

「私たちは、共産党軍との戦いで、国府軍のお役に立ちたいと思って日本から来たんだ」、と根本博は必死に訴え続けました。

 

当初は誰にも相手にされなかったのですが、次第に「台湾を助けたい」という変な日本人の噂が警察内に広まり、扭先銘(にゅう・せんめい)中将にもその噂が届きました。

 

「根本博」という名前を聞き、扭先銘(にゅう・せんめい)は慌てて、その投獄されていた根本博の所に向かい、涙の再会をします。

 

彼は、北支那方面軍総司令官だった、根本博元陸軍中将のことを知っていたのです。

 

そして、蒋介石の側近の温恩伯将軍と面会し、続いて8月10日に台湾に来たばかりの蒋介石と数日後に面会します。

 

数年ぶりの再会でしたが、台湾に来た目的や、これまでの経緯を根本が話すと、蒋介石は、根本博を国民党軍の軍事顧問として雇うことにしました。

アモイでの戦いが目前に控えていました。
 

この戦いで敗れてしまうと、次は台湾での決戦になります。

蒋介石軍にとって、この戦いが最後の砦だったのです。

 

すでに昭和24年(1949年)10月1日、中国共産党は全世界に向けて、建国宣言(勝利宣言)を北京で行っていました。

 

共産党軍にとっては体制は決まっているので、アモイでの戦いは、敗残軍を追い散らす程度の、勝って当たり前の戦いでした。

 

根本博は、アモイを視察すると、この地形では勝算はないと判断。そして、その近海に浮かぶ金門島で戦うべきと、主張しました。

 

その主張を、恩将軍は聞き入れて、アモイを切り捨て金門島の戦いのために、塹壕を掘ったり戦車を配備したり、急ピッチで準備を整えていきました。

 

共産党軍は10月25日に敵は金門島に上陸するという確かな情報を得ます。敵を全て上陸させてから殲滅するという作戦でしたので、その時を待ちました。

 

そして、決戦の日、全て根本博の予想した通りの展開となり、上陸した共産党軍はほぼ全滅。

 

途中、地元住民を盾にして戦おうとした共産党軍に対して、根本博の忠告に従い、敵を海岸に誘導してから殲滅したので、地元住民に危害が最小限に抑えられました。

このような配慮をする将校は国民党軍にはいませんでした。

 

この金門島の戦いで完敗した共産党軍は、その後、金門島を攻めることが出来ずにこう着状態になり、金門島と大陸の間に国境線がひかれました。

 

蒋介石から感謝の言葉があり、今後も日本と台湾でともに協力していこうと、お互いに誓い合いました。

 

根本博は、この金門島での戦いで、自分の名前を台湾の公式記録から削除してほしいと懇願しました。その理由は、日本人である自分が、金門島での戦いで軍事顧問として協力していた、ということが一般に知られると、蒋介石に迷惑がかかることを懸念したからでした。

 

その後、朝鮮戦争が勃発し、米国の第7艦隊が朝鮮半島と台湾の監視と護衛のために派遣され、米国は台湾を守ると宣言しました。
 

そこで、根本博は、もう大丈夫だろうと思い、台湾を離れ日本に帰国することになりました。

 

蒋介石は根本博の帰国の際、花瓶を手渡し、次のように言いました。
「これは、あなたと私がいつも一緒にいるということです。常にそばにいて、お互いがお互いを忘れないという意味で、この花瓶を贈ります。」

 

昭和27年(1952年)6月25日、中華民国の民間機で、根本博は3年ぶりに日本の羽田空港に降り立ちました。
 

そこで、マスコミに囲まれ、記者会見が行われました。

根本博が日本から密航して台湾に滞在中、日本では、根本博の黒い噂(台湾で志願兵を組織するように要請されたという噂)が、マスコミを騒がせていたからです。

 

根本博の留守中、自宅にGHQと町田警察官が来て、根本婦人が取り調べのために連れて行かれたことがありました。
 

そこで根本婦人は、「日本の軍人は家庭で話はしませんので、どこで何をしているか知りません」と答えました。

 

なぜ、台湾に密航までして渡ったのかという記者の質問に対し、根本博は次のように答えています。

 

「なぜ台湾に渡ったかというと、やっぱりカイロ会談だな。第二次世界大戦のカイロ会談で日本の国体が危なかった時、蒋介石総統がなんとか擁護してくれて、ポツダム宣言では、「日本国民の希望に任せる」ということになったんだよ。

 

つまり、日本の天皇制は蒋介石総統のおかげで助かったというわけだ。そのご恩返しを何とかしてやらなければならないと考えていたんだよ」と。

 

昭和18年(1943年)11月、連合国の米国のルーズベルト大統領と、イギリスのチャーチル首相と、国民党の蒋介石主席の三者が、カイロで会談しました。

 

そこでは、日本の戦後体制について話し合われ、日本の無条件降伏を要求し、日本の主権は、北海道、本州、四国、九州の4島のみとする、というようなことが決められました。

その際、蒋介石は、ルーズベルトから日本の将来の国体について意見を求められ、次のように答えました。

 

「日本の軍閥がまた立ち上がり、日本の政治に二度と関与することのないよう徹底的に取り除かなければならないが、日本の国体をどうするかについては、日本の新進のしっかりとした考えを持つ人々に自ら解決させるのが望ましい。

 

我々は、日本国民が自由な意思で、自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである。」と主張してくれたのです。
(中華民国33年元旦告全国軍民同胞書)

 

根本博と蒋介石との硬い友情の元、台湾を救った、根本博元陸軍中将。
彼が密航してまで台湾に渡り、蒋介石を助けようと思わなかったら、台湾は、中国共産党の支配下になっていたでしょう。

 

その後、昭和33年(1958年)8月23日、中国共産党軍が、金門島に向けて砲撃を開始。米軍は第七艦隊を台湾沖に派遣し、国府軍も反撃し有利に戦いを進めたことで、中国共産党軍の砲撃回数も次第に少なくなり、10月5日に実質的な戦闘は終了しました。

 

開戦当時、米国は中華民国に対し「金門及び馬祖は『米華共同防衛条約』の防衛義務範囲に含まれない」として、金門島の放棄を要求したが、蒋介石はこの要求を拒絶しました。

 

蒋介石にとって金門島は、台湾の安全保障上とても重要な島であると身をもって体験していたので、金門島を放棄することはできなかったのです。

 

根元博元中将は、昭和41年(1966年)亡くなりました。
 

その後、昭和47年(1972年)日中国交正常化が周恩来と田中角栄との間で、行われました。

 

それと同時に、日本と台湾との友好条約(日華平和条約)が破棄されてしまいました。

さらに、周恩来から度々要求されていた政治3原則を守るように、日本の新聞報道に規制が敷かれました。(日中両国政府間の記者交換に関する交換公文)

 

政治3原則とは
1、中国敵視政策をとらない
2、「二つの中国」をつくる陰謀に参加しない
3、中日両国の正常な関係の回復を妨げない
であります。

 

これは、台湾政府を中国共産党政府とは別の独立国家と認めないこと、中国共産党に不利益な報道はしないこと、という中国共産党による日本への言論統制になります。

 

今、もし、根本博元中将が生きていたら、どう思うでしょうか?

 

いや、霊界において、ずっと日本と台湾を見守ってくれています。
きっと、そうです。