GHQ占領政策のモデルとなった、日本人捕虜に対する思想改造 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

戦後のGHQ占領政策で行われた、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)。これは日本人に自虐史観を植え付ける思想改造でした。

 

実はこのWGIPのモデルになったのは、戦時中に中国で行われた日本兵捕虜に対する思想改造でした。

 

八路軍(共産党軍)は、近代的装備を持たないゲリラ部隊でした。
そこで、真正面から正攻法で戦うことをせず、後方部隊をゲリラ的に攻撃する戦法を得意としていました。

 

しかし、それでは敵軍に完全勝利することはできませんので、日本兵捕虜を有効に使うことを重視しました。
 

ゲリラ戦中心の八路軍にとって、主力となる必要不可欠な戦力が日本兵捕虜だったのです。

 

日本兵捕虜は当初、シナ兵の日本兵への憎しみから、殺害されていましたが、昭和13年(1938年)に日本人捕虜を殺害せず、親切かつ丁重に扱うよう命令が出され、それが八路軍全体に徹底されていきました。

 

昭和14年(1939年)、日本兵士覚醒連盟という組織が、中国共産党の朱徳・総司令官の指導の元に、杉本一夫氏、岡田義雄氏(高木敏雄氏)、小林武夫氏により組織されました。彼らは日本人で最初の八路軍の捕虜となった人たちでした。

 

その日本兵士覚醒連盟で、日本兵捕虜の思想改造が行われました。

日本の帝国主義者は、日本人に狂信的な愛国心、そして中国人への民族的な偏見を吹き込んでいる、そのため日本軍は頑強で、日本兵は降伏しない、という認識が八路軍にありました。

 

当初は、日本兵に対して、天皇制を廃止して革命を起こそうと説得してみましたが、逆に凄まじい抵抗に遭いましたので、方針変更します。

 

八路軍は、中日両国の人民の解放のために戦っていると吹き込み、
中国兵の敵は、日本兵ではなく、自らの目的のために利用し、抑圧している日本の軍閥や財閥であるとプロパガンダするようにしました。

 

日本軍は天皇崇拝を徹底的に叩き込まれていたので、それを破壊することを諦め、代わりに軍国主義者という対立軸を作りました。

 

軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民(国民)への同情を呼びかける心理工作を繰り返しました。

 

人民(国民)に戦争責任がなく、むしろ被害者であるという論理を用いて、
人民(国民)と軍国主義者という、2つの対極を分けて考える2分法を取ったのです。

 

陸軍の兵隊は、地方の農村出身者が多く、世界恐慌の影響でとても貧しい生活を送っていました。

 

そして、北一輝が書いた「日本改造法案大綱」をバイブルとして革命思想を持った兵士は、この貧困の原因は一部の裕福な資本家出ある財閥と政治家出あるとして、何度もクーデーターを起こしていました。

 

この2分法は、このような日本陸軍の兵隊に効果的でした。

日本兵士反戦同盟(のち日本人民解放連盟に名称変更)が、昭和15年(1940年)に延安に設置され、「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において野坂参三は校長を務めました。

 

この野坂参三は日本共産党員で、日本から中国に亡命してました。

 

日本労農学校で野坂参三は、集団でお互いに相手の自己批判を徹底的に繰り返させ、それまで積み上げてきた自尊心や価値観などを、木っ端微塵に打ち砕くことにしました。

 

この方法は、それまで深く染み付いた古い思考を破壊し、新しい生活様式を受け入れるのに役立つと考えられました。

(戦後、泊まり込みで行う企業研修でこの方法を用いている業者もありました。)

 

疲労と自己批判で意識がモウロウとしてきたところに、何度も何度も自分自身の言葉で、政治的教義(マルクス・レーニン主義)を反復させるという思想改造をしていきました。

 

捕虜の日本兵たちにとっては、共産主義者になることだけが、過去を絶ち切って、罪深い過去の記憶から自らを解脱させる唯一つの方法だったのです。

 

解脱とは、しがらみから解放するということです。人間誰でも色々なしがらみを持っていきています。そのしがらみから解放することができれば、幸せで生き生きと生きることができると、仏教では説明します。

 

そこでは、みんなで共産主義者になって、毛沢東を同志と呼び、中共軍を解放軍と賞讃して、そのもとに働く彼ら自身を、解放の戦士と呼称することによって、自分自身を肯定する居場所をつくりました。

 

日本労農学校での日本兵捕虜の思想改造は、成功を収めました。
 

捕虜の中で次のように話す人が出てきました。

「周恩来総理は(私の)人生になくてはならない指導者である」
「中国共産党と八路軍は私に第二の命を与えてくれた。それは私に、正しい人として生きる目的と意義を教えてくれた」

 

このような「覚醒した」日本兵たちは、新たに日本兵捕虜の獲得に利用されていきました。

 

昭和19年(1944年)3月4日、日向勝・砲兵中尉をはじめとする48人が八路軍の捕虜になりました。そのうち30人が日本人民解放連盟に参加しました。

 

日向勝は、砲兵教官として新四軍(八路軍)に止まり、砲兵部隊を育成し、第三野戦軍砲兵連隊の作戦参謀や大隊長などの要職を歴任しました。

 

日本の終戦後に始まった、日本の終戦後に始まった、淮海戦役、渡江戦役などの国府軍との大戦に参加して、この野戦軍は大いに活躍し連戦連勝。

 

共産党軍の勝利に大きく貢献しました。

 

昭和19年(1944年)11月、のちにGHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官を勤めることになる、米国の外交官、ジョン・エマーソンは、米軍事視察団の戦時情報局(OWI)の要因として、延安を訪問。

 

多数の日本兵捕虜の思想教育に成功している、日本労農学校に注目し視察にいきました。

 

捕虜を処刑せず、希望する者は釈放するといった方針、つまり友人として日本兵を扱うことを八路軍の兵士、農民に徹底的に教育し、
次に、捕虜の反戦組織をつくり、
さらにビラやメガホン、電話、手紙、贈り物で日本兵へ投降呼びかけや後方攪乱を工作し、
中国国内だけでなく、日本でも反戦活動を行うというプロセスを、システマティックに行なっていたのです。

 

ジョン・エマーソンらは、日本の占領政策において、この洗脳された捕虜や知識人を利用しようと考えました。

 

彼の意見をマッカーサーが採用し、日本労農学校の校長を務めていた、野坂参三を延安から日本に特別機にて呼び寄せ、占領政策に協力させます。

 

反戦思想にまで思想改造した、日本人民解放連盟の人たちも引き上げ船にて、他の日本人に紛れて日本に上陸してきました。

 

GHQは、戦時中非合法組織であった日本共産党を合法化し、投獄されていた共産党員を数千人規模で解放しました。

 

彼らは、GHQを解放軍と呼び、水を得た魚のように活動しました。

 

それまでは中国共産党の元、日本兵捕虜に対しての思想改造でしたが、

戦後はGHQ占領軍の元、日本国民全員に対しての思想改造となりました。

 

この昭和13年(1938年)から始まった、軍国主義者と人民(国民)との二分法は、終戦後71年経過した今現在まで繰り返し行われています。

 

例えば、靖国神社に合祀されているA級戦犯は軍国主義者であり、人民(国民)を苦しめた加害者であるという論法です。

 

その国民を苦しめた加害者が祀られている神社に、国の要人が訪れるということは、被害者である人民(国民)感情をないがしろにしている、というメッセージを日本人に植え付けるために、中国共産党は徹底的に抗議するのでしょう。

 

もし、靖国神社に政府閣僚、三権の長、天皇陛下が揃って参拝するような事態が起きると、軍国主義者 VS 国民という2分法が崩れさってしまい、占領時から続けられてきた、日本国民に対する思想改造が根本から揺らいでしまうことになります。

 

それを、中国共産党は最も恐れているのです。