内モンゴルにいた4万人の日本人居留民を救った男 根本博中将
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受託。中国大陸や東南アジア、太平洋の島々に展開していた日本軍約700万人は、直ちに武装解除して降伏するように、本国から指令が出ました。
しかし、その指令を無視してまでも、日本人居留民を守るために戦った兵隊たちがいました。
昭和20年8月9日、満を持していたソ連軍が中立条約を無視して、満州や樺太になだれ込んできました。そして、モンゴルにもです。
モンゴルは満州国の西側、万里の長城の北に位置しており、終戦当時、4万人の日本人居留民とそれを守る5千人の兵隊がいました。
8月14日には、日本軍の前線基地のあった、内モンゴルの張北という場所の30キロメートルのところまで、ソ連軍の機甲部隊が迫ってきていました。
そして迎えた8月15日、玉音放送を聞きます。蒙古軍司令官であった根元博中将は、日本軍が駐留している内モンゴルの張家口というところにいましたが、玉音放送が終わったあと、ラジオでモンゴルに住んでいる日本人に向けて、次のような声明を放送しました。
「日本は戦争に負けて降伏することになったが、私の部下将兵は健在である。私の命令のない限り、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄するものは一人もいないから、邦人は決して騒ぐ必要はない。
私は、上司の命令と国際法規に従って行動するが、我が部下及び邦人などの生命は、身命を賭しても保護する覚悟であるから、軍の指導を信頼し、その指示に従って行動される様に切望する。」と。
そして、司令部に戻って、蒙古軍全軍に対して次の様に命令しました。
「別命のあるまで依然、その任務を続行すべきこと、もし命令によらずに勝手にその任務を放棄したり、その守備地を離れたり、あるいは武装解除の要求を受託した者は軍律によって厳重に処断せよ」と。
そして、張家口の北にある守備陣地、丸一陣地の守備隊には、次の様に命令しました。
「理由のいかんを問わず、陣地に侵入するソ連軍は断固これを撃滅すべく、これに対する責任は一切司令官が負う」と。
日本の大本営からは18日に「即時停戦、武装解除受諾」という命令が出ており、19日には「戦闘行動を停止し、適時局地戦停戦交渉及び武器引き渡し等を実地すべし。なお状況を許せばあらかじめ、軍民官を北京と天津地区に撤収する様に努力すべし」と命令が出されました。
この時、内モンゴルの張家口地区での在留邦人の、日本内地への引き上げはまだ始まったばかりでした。
支那派遣軍総司令官、岡村大将からは、重ねて武装解除と即時停戦を厳命されました。
この時、根元中将は悩みます。
総司令官からの命令に従えば、ソ連軍は日本人が駐留している張家口に殺到し、4万人の日本人居留民は大混乱となるだろう。そして、略奪、強姦(レイプ)、など地獄絵図となるに違いない。
この時、昭和12年に日本人居留民がシナ人によって、惨たらしい方法で惨殺された、通州事件が頭をよぎりました。
根本博中将は、常に座右の書として、「生命の實相(じっそう)」(谷口雅春著)という本を持っていました。戦時中の生死の狭間を生きる日本人の間で、ベストセラーになっていたものであり、人生の迷いや命の本質をわかりやすく表した書籍です。
思い悩むと、この本を開き、考えを整理していきましたが、この時も「生命の實相」を開きました。その中に、禅問答で「南泉和尚、猫を切る」という話がありました。
この猫に仏性があるかないか、どう思う?と南泉和尚が修行僧に問いかけます。この公案に答えられる人がいるか? もし、いなければ猫を切ってしまうぞ、と言われました。
そして、皆答えられずにいたら、その南泉和尚が猫を切ってしまいました。
「恩愛の情を断ち切ることで、無所有の生活に入ることができる」「一度全てを捨てれば、かえって全てが生きる」
「現象に囚われるな。仏性というものは形のいかんにあるのではない。形の猫を切ってしまったら、そこに本当の仏性が現れるのだ」
というような意味を谷口雅春氏は説かれていました。
根本博中将は、自分自身の身はどうなっても良い。軍法会議にかけられて裁かれても良い。そのような形にとらわれず、日本人居留民4万人の命を救うことが第一である。
そのためには、武装解除せずに、引き揚げが完了するまで、徹底抗戦をするのみ。
と決意。
20日の夜、根元中将は、支那派遣軍総司令部に次の様に打電しました。
「ただいま張家口には、まだ2万あまりの日本人がいます。外蒙古軍(ソ連軍)は延安軍(八路軍)と気脈を通じており、重慶軍(中国国民党軍)に先立って張家口に集結し、その地歩を確立するために、相当の恐怖政策を実地すると思われる。
撤退に関しては、重慶側(中国国民党軍)の博作義は、張家口の接収を提議しており、日本人の生命財産を保護するべきも、もし延安軍(八路軍)または外蒙古軍(ソ連軍)等に引き渡すならば、その約束は守るられないと思う。
本職は、(国民党軍の)博作義の申し込みに応じ、八路軍(中国共産党軍)及び外蒙古軍(ソ連軍)の侵入には依然、これを阻止する決心なるも、もしその決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免職せられたく、至急何分のご指示を待つ」と。
根元中将は、自分自身が軍法会議にて処分されても、日本人居留民の生命財産を守るために、ソ連軍や中国共産党軍の侵入には断固阻止すると決意したのです。
ソ連軍や中国共産党軍に対し、武装解除してしまったら何をされるかわからない、と実体験で分かっていたので、断固阻止すると決意。彼はソ連軍の本質を見抜いていました。
しかし、中国国民党軍の博作義は、かねてより根元中将と信頼関係があったので、その国民党軍に対してのみ、武装解除と停戦を受け入れると伝えたのです。
この根元中将の決意によって、丸一陣地の守備隊の士気は一気に上がりました。
8月16日、モンゴル政府では、当初日本人居留民を全員引き揚げの方針はありませんでした。
しかし、満州国で関東軍がソ連軍に対して武装解除したのち、関東軍の武器弾薬をたっぷり摂収した上、さらに、在留邦人に対して、きている服まで略奪したり、婦女暴行(レイプ)をし、それを拒んだ者に対しては容赦なく射殺しているという情報が入ってきました。
そこで、急遽、在留邦人を全員、北京と天津地区まで引き揚げさせるということになりました。
しかし、内モンゴルを守備している日本軍はわずか1個旅団であり、人数も5千人。ソ連軍の機甲部隊を防ぎきるのには、持って3日が限界でした。
ソ連外蒙古軍はすぐそこまで近づいています。そして、満州国の残虐行為を聞いて、そのソ連軍に日本人居留民の生命財産を委ねることはできないと判断したのです。
しかし、8月14日、外務省は在外公館に次の様に打電して通達していました。
「居留民はできる限り現地に定着せしめる方針をとるとともに、現地での居留民の生命、財産の保護については、万全の措置を講ずる様に」と。
ポツダム宣言には「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたるのち、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的生活を営む機会を与えられるべし」とあり、軍人の復員についての規定はあったが、民間人の引き上げについての規定はありませんでした。
国際的な慣習では、占領地における居留民を、敗戦のために強制的に引き揚げさせるということは、人道に反することとされていました。
満州国などは日本から移住して14年になる人たちもたくさんいました。その地に根付いていましたので、それまで築いてきた財産や事業を失うことを考慮しての、外務省の通達だったのです。
また、内モンゴルに移住してきた日本人は、満州国に比べれば少ないですが、それでも財産や事業を捨てて、たった数日で引き揚げるということは、とても難しいこととでした。
根元中将は、15日の深夜、ラジオの重慶国際放送を聞いていると、次の様に伝えていました。
「今後の日本の主権は、北海道、本州、四国、九州の4島に限定され、海外の日本人は全てこの4島に送り返され、財産は全て没収される」と放送してました。
外務省の認識は、全く甘いものであると判明しました。
そして、8月16日、根元中将は北シナ方面軍司令官に転属となり、モンゴルから北京に移動することになってしまいました。
たった数日で4万人の在留邦人を引き揚げさせなくてはならない状況で、しかもソ連軍はすぐそこまで侵攻してきているのです。
そんな時に、頼みの綱である、蒙古軍旅団長、根元中将が現場で陣頭指揮することができなくなってしまったのです。
内モンゴルの張家口の北の丸一陣地を守備している兵隊達は、切り捨てられたと感じたことでしょう。
19日から引き揚げが実地されました。張家口駅から北京駅や天津駅まで貨物列車での移動となりました。
同日、ついにソ連軍が丸一陣地まで攻めてきました。日本側は白旗を立てて降伏の意思表示をしましたが、敵は容赦なく打ちつけてきました。
停戦交渉のために軍使を敵軍に派遣しますが、軍使が持っていた白旗をめがけて敵は撃ってきます。
白旗を持った軍使には、発砲しないというのが通例ですが、軍旗のないソ連軍には通用しないのでしょう。
再度、敵の攻撃をかわしながら、ようやく敵と交渉を持つことができました。そこで、敵将は「即時武装解除せよ」と迫り
「日本はすでに無条件降伏したではないか。お前達は天皇の命令に従わないのか。満州ではすでにどこでも日本軍は降伏しているぞ、今時、交戦を続けているのはお前達だけだ」とまくし立てました。
この時、辻田参謀はのらりくらりりと時間稼ぎをして、武装解除まで2時間の猶予をもらい、敵人を去りました。
ソ連軍は日本軍の武装解除を執拗に迫りました。なぜ、そこまで武装解除を焦ったのでしょうか。
当時の勢力図は、蒋介石の中国国民党軍と毛沢東の中国共産党軍(八路軍)、ソ連軍の三つ巴でした。そして、降伏した日本軍の武器弾薬を三者とも狙っていたのです。
また、国民党軍と共産党軍は日本軍降伏後、再び内戦するつもりでしたので、その戦いを有利にするためにも日本軍の武器弾薬が喉から手が出るほど欲しかったのです。
特に装甲車や航空機を持たない、貧弱な装備しかない八路軍(中国共産党軍)にとっては、日本軍の武器弾薬食料などを手に入れられるかどうかが、蒋介石軍に勝てるかどうかの生命線だったのです。
そして、ソ連軍は日本軍の武器弾薬を国民党軍の手に渡らないうちに、早急に摂収して、中国共産党軍に譲りわたすことにしていました。
それは、中国共産党を支援するという、コミンテルン大会で決議されたことに従った行動だったのです。
ソ連軍は、国際慣習による、逐次停戦して、しばらくしてから武装解除するという段取りを経ずに、実力行使で武装解除を強要するという手段をとったのです。
八路軍の轟栄泰将軍は、ソ連のプリエフ大将に対して次の様な手紙を送りました。
「貴官は、日本の壊滅と中国人民の解放に大きな援助を示されました。私共は、深く感謝しております。しかし、私どもの前途には、なお重苦しい闘争が控えております。
私どもは、貴官らに期待し、将来も援助をお願いします。最近貴軍が日本軍から奪われました、戦利品、武器弾薬、自動車、無線機その他各種の戦闘機器をお譲りください。」と、戦利品の譲渡を、平身低頭にお願いしていました。
一方、国民党軍は日本の岡村シナ方面総司令官に蒋介石からの通達を伝えました。
それは国民党政府軍以外の軍に対して、投稿したり、武装解除したり、占領されたり、物資を譲り渡したりすることを禁止するという内容のものでした。
当時の正式に認められた中国政府は、重慶に首都を置く国民党政府でしたので、その様な通達を出したのです。
8月20日、張家口駅に日本人が集合し、次々に貨物列車に乗っていきました。赤ん坊を抱えた母親や小さな子供たち、妊娠中の大きなお腹を抱えた女性など、着替えやオムツなど最小限の荷物だけで体一つで乗り込みました。
普段なら7時間ほどで北京までつくのに、途中の線路は八路軍(中国共産党軍)が爆破していたので、途中なんども列車が止まりました。復旧作業をしながらの運行で、3日ほどかけて北京や天津に到着。
途中、狭い空間と食べ物も飲み物もあまりない状況でしたので、途中で子供が亡くなったり、お腹のお赤ちゃんが死産してしまったりした人もいました。
また、途中は万里の長城に沿って線路が走っていましたので、まだ、長城の上で警備している日本軍の兵隊を見て、列車に乗った日本人引き揚げの人たちは、手を振って見送りました。
そして、「兵隊さんたち、みんな無事に日本に帰って来てください。」と心に祈りました。
終戦の時、根本中将が、居留民の引き揚げが完了するまで、武装解除せず徹底抗戦すると決意してくれなかったら、満州国と同様に、略奪、婦女暴行(レイプ)、殺害といった地獄絵がモンゴルにも起きていたことでしょう。
そして、4万人の日本人居留民のうち生き残った人でも、日本に帰ることができずに、孤児として、中国やモンゴルに止まり、シベリアに強制連行された人も多数出たことでしょう。