今日はお目当てのお店のランチが無くなっていたので、何処に行こうかと探しているうちに、小樽にまで行ってしまいました。
気温も23度。天気も良く、海もきれいでした。(写真は関係ない場所)
ホント天気が良くて、チューリップやライラック、いろんな花が一斉に咲きだしています。
太陽に照らされて、太陽に向かって花を開いている姿を信号待ちの時に見て、ふと思ったこと。
全ての生き物には、意識があって、自分の意志で太陽に向かって伸びたり、花を咲かせているんだなぁ。
太陽の距離だって実に絶妙な距離が保たれいて、人や生き物が暮らしていくのに、丁度いい気温に保たれている。
これも、何かの意識なのかなぁとか。
そんなことが思い浮かびました。
深海の魚も、虫も、天敵に狙われないように姿を解りづらくするのも、その生き物の意識がそう変化させているとかね。
自分は運がすこぶるいいと思っている人は、どんなことがあっても結果としてそうなっていくし、
自分は運が悪い、とか、堅苦しい常識や人目に囚われて生きている人は、そうなる傾向が強いし、
みんな自分の意識の力で実は動いているんじゃないのかなぁと思ったのでした。
最近、新しい考えとか、新しい医療とか、斬新な考え方の人とか、そうゆうものを生みだす人に目が行くんだけど、同時に、そうゆうものを真っ向から否定して斬り捨てるという、頭がガッチガチの人も目にする。
例えば、歯科だったら、8割が「これ抜歯ですね!」というものに対し、「いや、再生できますよ。なんだったら親知らずを移植することも可能です」という歯科医も中にはいるんだよね。
その話を8割の部類に入る歯科医にそれを話すと、真っ向否定。
もう話しているうちから否定オーラがドーンとやってくる。
胸が凄く苦しくなる。
なんだろ。2割?1割?の部類の話しの方が、すごく胸が高まるというか、キラキラする。
8割の部類の話を聞くと、抑えつけられて目に見えない監獄に入れられたような気持になる。
気持ちが重く、ドヨンとしてしまう。
(私的には、苦しいのは違う、胸が高まる、スカッとするのは正しいという解釈をしてます)
そして、2割?1割?の部類の歯科医は、
「絶対に治すという意志が大事。何故なら、細胞は意識を持っている。その方が成功率が高くなる」と。
歯科医に限らず、何でもそうだと思う。
なんかここ数日、こんなことばかりに遭遇するというか、目にする。
「弥勒の世(今年の春分から)」とか言ってたけど、これって、みんなが一斉に幸せになるとかじゃなくて、気付いた人が、気付こうとした人が、今までの監獄のような、奴隷のような世界に気づき、そこから出て行って、自分の思うとおりに生きるんじゃないかな。
だって、その重たい世界にずっと居たいという人、結構いるんだよね。
朝、通勤時間に国道を車で走っている時、みんな様々な車に乗っているし、一見自由なんだけど、すごく波動が重いの。(休日は軽い)
これってさ、一見自由かもしれないけど、奴隷みたいだよね。
生活する為のお金稼ぐために、好きでもない仕事をして、暗い顔して車を運転して、死んだような目で、眠そうな顔で毎朝出社する。
好きなことを仕事にしようとすると、
「イヤイヤイヤイヤ、世の中そんなに甘くない」って凄まじく馬鹿にしながら上から目線で説教。
そりゃああんたはそうだろうよ、って話だよ。
そう思っている人はずっとそこにいたらいい。
でも、新しい世界に飛び出す人も、そこで自分の思うような成功する人も、好きな時に好きなことをする、そしてキラキラしている人もいるんだよ。
で、そうゆう発想をする2割?1割?の人が、あげまん・あげ男でもあると思うんだよね。
だって、どんな状況でも楽しんでしまうから。
でもね、どんな状況でも、どんなに大変でも凄く頑張るんだけど、ここぞとばかりに大変なことを押し付けて、不安も押し付けて、一切の手伝いも、協力もせずに、あげまんを限界の限界まで追いやるというサゲもかなりの割合でいるんだよね。
自由にさせないぞ!
思い通りにさせないぞ!とばかりにね。
あげまん・あげ男さんはどんな状況でもバランスを取って上手にするんだけど、気が付いたら多大なものを背負わされて、エネルギー取られて、というケースが多い。本当に多い。
側にいるサゲの何十倍という大変さを背負わされて、おまけにいたわりの言葉もなく、更に責められて追いやられるという、ね。
そろそろこの辺に気が付いてもいいんじゃないかな、って思う。
これは私にも言えることだけどね。
「お前はこれが出来ない!」と出来る部分をスルーされ、出来ない部分をピックアップされてここぞとばかりに嫌味を言われるとか、こうゆうのって、さげの手の中に入っているんじゃないかと思うんだ。
本当はそこまで重要じゃないし、そんなにやらなくてもいいことを、周りによって「苦手」という分野にされて、いいだけ突かれる。
もし、あげまんがそれをすることを放棄したらどうするんだろう。
そんなことを考えてみた。
勿論いろんなケースがあるけどね。
「やーめたやめた!悩むのやーめた!」ってあげまんが手放すと、多くの場合、責め立てていたサゲが困るケースがほとんどのような気がする。
サゲを相手にするから、ここぞとばかりに攻撃して責め立ててくるんだろうな。
でも、その苦手とレッテルを付けられたもので悩むことを辞めたら、どうなるんだろ。
サゲが用意した落とし穴に毎回ハマっては罵倒されてきたんだけど、ハマることも、落とし穴に近づくこともやめた場合、どうなるんだろうね。
私は姑のやり口に我慢がならなくて、嫁だから行かなくてはいけない、という義理で行き、毎度コテンパンに面白がって意地悪されたけど、キレて行くこと自体辞めてしまった。
一気に形勢逆転というか、会う機会も減った。
精神衛生上すこぶる良い。
だって、私はサンドバックじゃないもん。
もっと幸せになるためにここにいるんだもん。
たまに行けば、腐ったものを私にだけ出されるけど(意図的に)、
そうゆうことが発覚すると、「またこれを口実に正月に行かなくて済む♪」となるのだから、相手は意地悪はそうそうできなくなるんだよね。
とにかくサゲは、変な常識であげまんを押し潰してがんじがらめにして意地悪を続けるね。
こんな奴隷みたいな社会では、みんながストレスを抱えている。
通常、人間は年を取ると穏やかになり、幸福感が増すんだって。
でも日本は違うよね。
なんかおかしいんだよ。
そのストレスのはけ口を、あげまん・あげ男に押し付けては至福の顔してるんだよ。
日本で年を取るほどに穏やかになって、感情もコントロールできて、幸福感が増すのって、あげまん・あげ男さんだけだよね。
親戚の集まりなんかでは、目の奥が違うから。
なんか脈絡が無い話になってしまったけど、あげまん・あげ男さんだけに通じる話題だよね。きっと。
気付いた人から、サゲが作った檻から抜けたらいい。
その檻は、鍵がかかっていないよ。
私も少しずつ抜け出している。
一個一個、監獄から抜けているつもり。
当たり前とされてきたものに、疑問を持とう。
自分の感覚って、ものすごい叡智が詰まっているから、信頼しよう。
それには、自分がこれが本当に嫌なのよ、というものに着目すると解りやすいかもね。
案外「常識」に縛られて、やらなくちゃいけない!とされているものが多いんだよ。
そうゆうのは大概の場合、はじめは「それを辞めることは無理かな、迷惑かけるし」というものの場合が多いね。
人それぞれ違うと思うけど、「これさえなければ最高なのに」というもの、ここにヒントがありそうです。