「分かる」とは? | 首藤ひろえ公式ブログ
最近、「わかりにくい」と感じる問題が多い気がします。
何か、問題の起き方が変わってきているような。

と思った時、「わかる」は「分かる」と書くことから、
いろいろと気づくことがあります。

文字通り、人は、何かを理解しようとした時、
より細かく分けて考えようとします。
細かくすれば、複雑なこともわかる、と。
でも、この考え方がもう限界にきているということなのだと思います。

この、部分に細かく分けることで理解しようとするのが、
デカルトがもたらした近代の「科学」の考え方です。
デカルト以降、現代までの長い時間の間に、
いつのまにか「科学万能主義」が定着して、
「本当かどうか」ということと「科学的に説明できるかどうか」が
同じ意味のように言われるようになってきました。

子どもたちが学校で習っている勉強のほとんどが
この考え方に立脚していることからも、
私たちがこの考え方にいかに縛られているかがよくわかります。

「科学」の進歩によって、病気のメカニズムはわかっても、
「病気にかかった人間全体」はわからないし、
生物の生態はわかっても、生態系全体のことは未だよくわからない。
気候現象は解析できても、気候変動による地球全体への影響はわからない。

どこまでいっても、「分ける」ことではすべてはわかりません。
でも、「現象」は目の前にある。
科学的に説明できなくても、現象は起きているのです。
科学は、科学の枠組みの中にあることだけを説明てきているに過ぎず、
世の中の森羅万象すべてを科学で説明できるものとは
いえないのではないかと思うのです。

「こころの時代」と言ったりするのは、
現象から何かを「感じとる」ことのほうが意味がある、
と考える人が増えてきたからなのではないかと思います。

科学と人間の心の問題が切り離されてからおよそ400年。
いよいよ、「分けずに全体を感じ取る」という段階になるのかな、
という予感がしています。