「ヒロコさん見てるとわたしも着物着たくなってきます!」
というコメントをもらった。
じわじわきた。
そっか。
最近ゆかたでなく、着物を出来るだけきちんと着よう、と意識していた。
それは、誰にもツッコまれたり、何か文句を言われないように…という気持ちが大きく働いていたんだ、と気づく。
ここはタイなのだけど、無理して日本の四季に合わせて、SNSなどを通して、日本に住む日本人が見ても出来るだけ違和感のないように、褒めてもらえるように、と、ゆかたから遠ざかっていた。
~タイは常夏だし、一年中気軽にゆかたが楽しめる~
出発点はここだった。
~敷居の高いイメージの着物の、一つ手前、気軽にゆかたが楽しめる、そこからゆかたを含め、着物がワードローブの一部になったら素敵だな~
初心はこれだった。
大義はなかった。
着物業界を盛り上げたいとか、世界中に着物を広めたいとか、一ミリも考えていたわけじゃなく、
ただ好きだから、サンドレスやTシャツを着るように、ゆかたを着たかった。
ドレスでパーティに行くように、着物を着たかった。
ゆかたでも、着物でも、それを着て歩いている人を見かけた時、「わあ、素敵だな」という気持ちになった。
私も、そう思われたかった。
「あ、私も着たいな」と思い、思われたい。
そこが始まりだった。
なのに、最近の私は、
綺麗に着(付け)なくちゃ!
着物に詳しい人に笑われないように着こなさなくちゃ!
そんな事ばかり意識していた事に気づく…。
だから、気軽ではなくなっていた。
誰のためのもの?
着るものは、人の印象を左右する。
対人という事を考えると、一緒に居る人、会う人への礼儀のひとつ、とも考えられる。
失礼にあたらない配慮は大切だ。
だが、
やはり大前提は、
自分の為のもの、なのだ。
着たいから着る
好きだから着る
それ以外は後付けなのだ。
とはいえ、私は誰かの為に「装う」のも「着るもの」の大事な役割の一つだと考えている。
「一緒に行こう」と誘われたランチや外出先がどこなのか、誘ってくれた人が誰なのかで、それは変わる。いや、変える。
その気合いの入れ方、抜き加減が、その人や場所に対するリスペクトだからだ。
その場に居る自分が、その場に馴染むまでいかなくとも、せめて浮かない程度の気遣いは必要だと考えている。
それは、崩す時にも正装の時にも言えると思う。
そんなガチガチの頭で、人目を必要以上に気にしていた事に気づいた。
自由でなくなり、窮屈さを少し取り戻した私の着物姿は 普段 から消えつつあった。
週一のラジオの時だけに着る(普段着物)、何か特別な時に着る(パーティなど)ものになりつつある。
ちょいとその辺に、ゆかたを着て…がなくなってきたのだった。
ちょいとその辺は、洋服が楽だ。
そんな事は百も承知で、ゆかたを着ていたんだった。
その感じ、がなくなっていた。
冒頭の、
「ヒロコさん見てるとわたしも着物着たくなってきます!」というコメントこそ、私が目指したものだった。
そうなったら嬉しいな。
私を見て、ゆかたや着物を着る人が増えたら、素敵だな。
ただ、好きだという事が、「着物」という一部の人だけのもので、廃れかけてしまいつつある文化を、少しだけ活性化させる手伝いになれたら、素敵だなという単純で純粋な思い。
…忘れていた。
着物を服やブーツに合わせたり、という今風?なオシャレにも出来ず、
バシッと正統派、着物も帯もウンびゃく万ですの、というホンモノ?にもなれず、
???
どこに向かうのだろう、と行き着く先が見えないままに、ゆかた以上に普段着物としての小紋をはじめ、綿やポリやウールもの。
ハレの日にも着れる色無地や訪問着、アンティークや、正絹ものなどが増えた。
そして、目指すところは、「綺麗に着(付け)る…。
確かにそうしたかったから、良いのだけど、大切な事を忘れかけていた!
それを思い出させてもらった!
というお話…。
~私のゆかたや着物姿を見て、それ、着たいなと思う人がちょっぴり増えたらいいな~
今後もこの思いを軸に、楽しもうと思う。
※(ネットの情報や、人からどう見られるかに左右されてしまう事が多くなったと危険信号をだしている)