8月9日。
どんな夜をお過ごしだろうか。
もちろん、多くの人たち同様に、この日を取り立てて特別な日だと、長年言い張ってきたタイプの人間ではない。
毎年の8月9日は、普通に仕事に汗して、仲間と会い、酔っ払い、たまに女子の気を惹こうなどという疚しい欲望を持ったりする。
だが、3日前の広島もだが、長崎も一度でも訪れれば、その息吹を感じることが出来る。それは、いま長崎で暮らす人たちの息吹であり、古の時代に起きた事をすべて飲み込んだ、刻々と変化を遂げながらも町が持ち続ける息吹だ。
それに加えて、今年の8・9は特別だ。
50年以上生きてきて初めて、完全に理不尽な理屈で、多くの人たちが尊厳を奪われ、愛する者を奪われ、命を落とすという暴挙に晒される中で迎えたからだ。その圧倒的で、どんな正当な主張をも全く聞き入れない暴力の在り方が、77年前のあの出来事と似ているからこそ、あえて書き残す価値があると感じている。
数年前にも紹介したので、ここでは多くを語らないが、田中千禾夫の戯曲「マリアの首」は、77年前の悲劇を様々な価値観、立場から切り取った力の籠ったマスターピースだ。
演じる者たちも、役柄が抱え、背負う運命や悲劇を、自分たちの人生観、価値観の中で解釈し、どう表現していくかを問われる舞台でもある。戯曲を読む側、舞台を観る側にも、同じように生きる事の意味が突き付けられる。
そして、こういう夜には素晴らしい音楽に耳を傾けることが大切だ。
何曲か候補が思い浮かんだが、この曲ほど今年の8.9に相応しいものはないと、直感的に決めた一曲。
おそらく、十分に聞こえないほど音声が小さいかも知れない。PCからならヘッドフォンか別のスピーカーにつないで聞いてほしいほどかも知れない。同じ映像源でもうすこし聞きやすいものもあったが、貼り付けたものほど、解像度がある映像がなかった。音が聴ければーという理屈はあるが、この演奏の、いや映像は、そこに映された多くの人たちの表情が重要な意味を持つ。
もちろん、そこに正解はない。彼らが、実際の1958年の夏、ニューポートで直接聴いた歌声の中に、何を感じ、何を見出したのか。その表情に浮かぶのは、喜び、回想、享楽、悔恨、喪失…。カメラは、その1人ひとりの思いを見事に捉えている。それがどんな感情ではあれ、1人ひとりの表情、眼差し、瞳の中に浮かぶ表情は、どれも美しく、儚い。
そして、同時にこの映像からは、神に捧げる音色の元で、年老いた者、若い者、男と女、最先端を走りたい者、自分自身を深めたい者、ありとあらゆるものたちが、全ての分け隔てから完全に解き放された神の子として等しく聖なるものに抱かれていることを知ることになる。その1人ひとりの並んだ顔を見ると、まるで幼稚園で物語を読み聞かされる子供たちのようだが、それも真実だと思える。物語を聞く子供たちも、1958年の夏の夜、水辺の町でマヘリアが神に捧げる声音を聴くすべての人たちも、完璧な平等の下に置かれている。
マヘリア・ジャクソンの慈しみと尊厳に満ちた声の下では、誰もが幼子のように分け隔てない愛に包まれる。それは、77年前の長崎で4000度の灼熱に焼かれた人たちも、いま、日本の東10000㎞で理不尽な砲撃を受けている仲間たちにも、分け隔てなく注がれる。
そして、常軌を逸した妄想の元に、彼らにミサイルを撃ち続ける憐れな独裁者にも。
救いの歌は、贖罪の歌でもある。