10月21日、11月5日に、中山道美濃十六宿の大井宿から大湫宿までを歩いてきた。 この区間には、3つの一里塚があり宿間距離も約13.7kmと非常に長い。 また大井宿場内や街道そのものが往時の面影を残している区間で見所も多いので、前編、後編に分けて編集した。 この【後編】では、中山道の難所、十三峠の一つ祝峠の「姫御殿跡」から大湫宿までを記録した。 写真は江戸日本橋より90里目の「権現山一里塚」で、木立はないが両塚とも残っている。
大井宿から大湫宿までの経路と主な遺構など。 この区間は、街道そのものが幅員等全体的に往時の面影を残している区間であり、また未舗装のままの区間もかなりあって、車両が入れない道もある。 特にこの未舗装区間は、文化庁の歴史の道整備事業で修理されており、当時の中山道がそのままの状態で保存されている。 「祝峠(姫御殿跡)」「みだれ坂(橋)」「紅坂(べにさか)の一里塚」「ぼたん岩」「深萱立場跡」「権現山の一里塚」「尻冷やし地蔵」など遺構や見所も多く、十三峠という難所が大半を占めており、歩きごたえもある区間である。
旧道らしい中山道を進むと、右手に少し大きめの馬頭観音が祀られている。 馬頭観音から50m先の右手に分かれる「祝坂」を上ると「姫御殿跡」がある。 皇女和宮降嫁の際に、岩村藩の御用蔵から運んだ無節の檜の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて休息所としたと伝えられている。
「祝峠」から中山道へ下り50mほど右手に「子持松跡」の標柱、その先左手に「みだれ坂碑」があり、この辺りからみだれ坂の石畳になっている。 乱れ坂の先に「下座切場跡」がある。 子持松は松かさ(松の子)が多くつくため「子持松」と言われ、その枝越しに馬籠宿(孫目)が良く見えることから「子持ちから孫が見える」として縁起が良い場所と言われたが、今は樹木が多く見えない。 下座切場跡は、村役人が裃を着用し土下座をして幕府や藩の役人を出迎えた所である。
街道左側に宝暦6年(1756)に地元武並の人々が道中安全を祈願して建立した首なし地蔵がある。首なし地蔵のいわれは、二人の中間(江戸時代の職制の一つ)が地蔵前で昼寝をしていたが、一人が目を覚ますと共の首が無い。辺りを見回しても犯人らしき人影は見当たらず、怒った中間は「仲間が襲われたのに黙って見ているとは!」と地蔵の首を切り落とした。それ以来、何度首を付けようとしてもどうしても付かなかったという。
首なし地蔵からは緩い下り坂となり、徐々に勾配は増し急傾斜の石畳の下り坂となる。この坂は大変急な坂で大名行列は乱れ、旅人の息は切れ、女性の裾も乱れるほどの坂だったので、「みだれ坂」といい、坂を下りきると乱れ川に架かる「みだれ橋」を渡る。乱れ川は石も流れるほど急峻であったとされ、ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に土橋が架けられた。荷駄(荷物を積んだ馬)1頭につき2文徴収する有料橋の時代もあったという。
みだれ橋から旧久須見村へ入り、この先はアスファルトの平坦な道となり、四ツ谷集会所手前左手に「うつ木原坂」の標柱、その先左手の田んぼと民家の間に「竹折村高札場跡」の標柱、そのすぐ先、民家と民家の間に「殿様街道跡」の標柱があるが、標柱だけで遺構らしきものは何もない。四ツ谷集落の家並みが途切れた辺りから再び未舗装の道になり、ほとんど平坦な山道だが「かくれ神坂」という名がついている坂を上ると「妻の神」がある。道祖神の一種で賽の神でもあり、ここは長島町久須見村と竹並町竹折村の境で悪霊の侵入を見張っている。その先さほど勾配もない砂利道を進むと、「平六坂碑」がある。平六坂には「平六茶屋跡」の標柱があるが今は何もない。
平六坂を過ぎた辺りで、トレッキング中の外国人集団に出会う。ガイド者もいないようなので旧中山道の歴史を探訪するというより、山野をトレッキングポールを手に山歩きすること自体が目的のようだ。
平坦な道を進むと江戸日本橋より89里目の「紅坂一里塚」がある。一里塚に植えられていた樹木は無くなっているが、両塚(上北塚、下南塚)とも残っている。一里塚の手前あたりから旧藤村に入り、一里塚を過ぎると紅坂の石畳(270m)が始まる。近年の土地開発が進む中でも、この付近の中山道は開発から免れており原形をとどめ往時を偲ぶことができる。
紅坂一里塚から少しづつ上り坂になり、左手に「うばヶ出茶屋跡」の標柱、すぐ先の足元に「ぼたん岩」がある。地面にある直径5mほどの大岩の模様が牡丹の花状に見えることからこの名が付いた。江戸時代から有名で学術的には花崗岩の「タマネギ剥離(オニオンクラック)」の標本として貴重なもののようだ。
ぼたん岩の先は「紅坂」という石畳の下り坂になり、小さな橋を渡るとアスファルトの道となり旧藤村集落に入っていく。その先右手に「ふじ道道標」がある。ふじ道と彫られた石の道標を北へ抜ける小径が竹藪の中に延びている。先に進むと右手に「三社灯籠」があり、道を挟んで「よごれ茶屋跡」がある。
三社灯籠を右手に入っていくと正面に「神明神社」がある。神明神社には句碑群と石仏群、芭蕉句碑がある。藤村には明和の頃(1764~)俳諧に親しむ人がおり幕末には美濃派の俳諧結社が存在した。この先の深萱立場の茶屋本陣加納家の当主であった加納三右衛門(四世桂吾)の句碑、三社灯籠を奉納した加納左衛門(道艸・みちくさ)の句碑など多くの句碑が並んでいる。芭蕉句碑「山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉」。この神明神社の先はJR東海によるリニア中央新幹線のトンネル工事のため通行止めになっている。400年の歴史がある旧中山道とリニア新幹線が、同じ場所にあるのが何とも不思議な巡り合わせを感じる。
旧藤村集落から橋を渡り国道へ出ると、右側に「藤村高札場」が当時の大きさで復元されている。高札場の左側には大きな庚申塔が祀られている。その先には「深萱立場」の解説板が設置されている。深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあたり、立場本陣・加納家(右下、モノクロ写真は解説板から)のほかに、茶屋や馬茶屋など10戸以上の人家があり、餅や栗おこわが名物であった。立場本陣は大名などの身分の高い人の休息場で、門や式台の付いた立派な建物であった。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くし雨や日光が馬に当たらないよう工夫されていた。国道から50mほど右手に現在の旧加納家(左下)があり、立場跡にはトイレも備えた休憩所が設けられている。
深萱立場を過ぎるとかなり急勾配の「西坂」があり、左手に「馬茶屋跡」がある。ガイドブックに「ちんちん石」が載っているので探したが見つからない。左手の倉庫横から奥へ入り左手の丘へ入っていくと墓地があり、そこの千部供養塔前にちんちん石を見つけた。大きな石がちんちん石で、その前に置いてある小さな石で叩くと確かにチンチンと高い音がする。古くからカンカン石と呼ばれ親しまれてきた讃岐の名石「サヌカイト」の一種だろうか。ここからは車両通行不可。道なりに進み「みちじろ坂」を上っていくと、「三城(みつじろ)峠」の標柱と「ばばが茶屋跡」の石碑がある。
三城峠を越え急勾配な下り坂を下りていくと、右手に「下座切場跡」の標柱がある。 下座切場は村役人が長袴で土下座して幕府や藩の役人を迎えた場所だという。 向かいに大きな「中山道碑」があり、是より藤と刻まれている。 ここは恵那市武並町藤と瑞浪市釜戸大久後の市境で、恵那市から瑞浪市の旧釜戸村へ入っていく。
道なりに進むと「大久後の向茶屋跡」の標柱、さらに200mで未舗装の大久後観音坂を上ると、大きな岩の上に「観音坂の馬頭観音」が祀ってある。 そのすぐ先右手に「霊場巡拝碑」があり、天保2年(1831)建立で、「奉納西国秩父坂東供養塔」と刻まれている。 アスファルトの道へ出て左手に、直焼きの灰くべ餅が名物であったと伝わる「灰くべ餅の出茶屋跡」の標柱があり、そのすぐ先が大久後立場である。
灰くべ餅の茶屋跡を過ぎると、斜面に沿って農地が広がり往還両側に数件の民家がある。 民家を抜けると右手高台に「大久後の観音堂、弘法様」が祀られている。 観音堂を過ぎると「権現坂」の急な上り坂になり、坂の名が「鞍骨坂」に変わると刈安神社参道入口前に出る。
刈安神社参道前を過ぎるとすぐに「炭焼立場跡」があり、小さな遊水池は旅人や馬の喉を潤したとされる。 炭焼立場を過ぎると平坦な道を進み、「吾郎坂」を上り再び平坦な道を進むと、徐々に道は上り坂となり勾配もきつくなり石畳の道になる。 ここを「樫の木坂石畳」といい、しばらくすると権現山一里塚が見えてくる。 南塚の前には「十三峠の内中山道樫の木坂」の碑が立っている。
「権現山一里塚」は、幕末に記された「中山道宿村大概帳」により、塚には松が植えられていたことが知られているが、今は木立はないが両塚とも残っている。江戸へ90里、京へ44里という道標で「樫ノ木坂一里塚」とも呼ばれ、石畳とともに中山道当時の姿を偲ばせてくれる。この一里塚は慶長8~9年(1603~04)、十三峠の新設工事とともに築かれたもので、瑞浪市内の4ヵ所のように完全に残っている例はなく貴重な一里塚である(市県指定史跡)。南塚(写真上)が径9m、高さ5m、北塚(下)が径10m、高さ3.5m、両塚の間隔は11mで南塚は自然の地形を一部利用して構築されている。
樫の木坂石畳は一里塚辺りで終わっているが、坂はまだまだ続く。 この辺りは「中仙道ゴルフ倶楽部」の中央を突き抜ける形で中山道が通り、街道にはゴルフボールが落ちている。 しばらく進むと往還右手に「順礼水の坂」の標柱がある。 この上には宝暦7年(1757)建立の「馬頭観音」が祀られ、「順礼水碑」が建っている。 順礼水は「お助け清水」ともいわれ、 昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になったが、念仏により眼の前の岩から水が湧き出し、命が助かったと言い伝えられている。 順礼水碑には沢山のロストボールが供えてある。 順礼水碑から300mで下り坂の「びあいと坂」となり、さらに「曽根松坂」という土道を下ると広場に出る。
「曽根松坂」を下ると、右手に「阿波屋の茶屋跡」があり、その奥に「阿波屋観音」がある。 阿波屋の茶屋跡には現在もテーブルやベンチが置かれ、休憩所となっている。 そのすぐ先に「十三峠の三十三所観音石窟」がある。 石窟の中に多くの石仏が祀られている。 天保11年(1840)道中安全を祈願して、大湫宿内の馬持ち連中や助郷に係る近隣の村をはじめ、この道を利用する大手飛脚業者の定飛脚嶋屋、京屋、甲州屋を始め奥州・越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬連中が建立したものである。 石窟内の石仏にも多くのゴルフボールが供えてある。
三十三所観音石窟から緩い坂を下って150m進むと左手に「尻冷やし地蔵」が祀られている。 宝永8年(1711)伊勢の豪商熊野屋の夫人が急病になった時、この湧き水で助かり感謝して地蔵を建立した。 地蔵の後に泉があることから尻冷やし地蔵と呼ばれ、それ以来お助け清水として、旅人や大名行列等も愛飲したという。 地蔵の後を見てきたが、残念ながら現在は湧き水を確認できなかった。
尻冷やし地蔵から広いアスファルト車道を横切り、車道に沿って上る側道を上っていくと、左手に「しゃれこ坂碑と八丁坂の観音碑」がある。 しゃれこ坂に続いて「山之神坂」を上り、上りきった所に「童子ケ根」と彫られた石碑がある。 この坂が十三峠最後の上り坂で、標高約540mは十三峠で最も高い地点である。
童子ケ根からは緩い坂道を下り急に勾配がキツくなる「寺坂」を下っていくと、ようやく大湫宿が見えてくる。 その先の宗昌寺の入口に「是より東十三峠」の碑があり、ここで十三峠が終了する。 道を挟んだ反対側には「中山道大湫宿」の大きな自然石の道標がある。
宗昌禅寺は、「女人講碑」で有名な臨済宗の寺院で、境内の女人講碑は文化11年(1814)の建立。 大湫は何度も大火で焼けているが、宗昌寺は難を逃れ本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣としても利用されたという。 高台にある宗昌寺境内からは、大湫宿本陣跡方面を一望できる。
宗昌寺を出ると道は平坦となり、60mほどで「枡形」となり、左へ曲がり宿内へ入っていく。 宿内へ入りすぐ左手にあるのが「丸森(旧森川訓行家住宅・国登録有形文化財)」で、修復工事が行われ観光案内所・無料休憩所として使用されている。 その向かいが「大湫宿本陣跡」である。 大湫宿本陣跡は旧小学校校庭が本陣の屋敷跡地で、校庭前の駐車場に本陣跡の解説板、皇女和宮の陶製人形が三体飾られ、校庭には和宮歌碑が建てられている。