岐阜空襲を子どもたちに伝える平和のための資料展参観 | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

岐阜空襲から7月9日で72年がたった。長かった戦争が終わる、約1ヵ月前のことだった。当時を知る人が少なくなる中、岐阜で惨禍があった事実を「子どもたちに伝える平和のための資料展」(みんなの森 ぎふメディアコスモス ドキドキテラス)が開催されているので、7月11日に参観してきた。

 

私自身は、空襲時6歳、家は岐阜市中心部から北西に20数km離れた郡部なので、空襲直後の惨状をこの目で見てはいない。しかしながら、記憶は断片的だが、親が裸電球に黒い布を被せる灯火管制や隣家の蔵の白壁が黒く塗られたこと、空襲のとき岐阜方面の空が夕焼けのように、だいだい色に染まっていたと大人たちが話していたことなどを朧気ながら覚えている。

 

まだ日本人が物のひもじさをひきずっている昭和20年代は学生だったので、復興初期の岐阜の街のようすは余り知らないが、昭和33年に社会人になり、その後の復興、発展の状況は具に見てきた。この資料展では、空襲直後と72年たった今とを見比べるかたちで資料が展示されているので、大変分かりやすく興味深く参観してきた。展示パネルの一部を紹介する。

 

 

 

 

資料展のポスター。(みんなの森 ぎふメディアコスモスの会場で)

 

戦争していた時の合言葉。「神国日本」「撃ちてし止まむ」「欲しがりません、勝つまでは!」といった言葉が並ぶ。

 

決戦の日々の世の中。男はみな戦場へ、食料不足から配給制に(左)。

家を壊して他の地区に燃え広がらないようにする家屋疎開。街も都市も、まるごと焼かれるので、全く意味がなかった(右)。

 

子どもたちの訓練と仕事。爆弾には、こうして耐えよ!(左)と防空壕造り(右)。実際には焼夷弾と機銃掃射攻撃で両方とも役にたたなかった。

 

岐阜空襲は、7月9日23時34分~10日1時20分、爆撃中心点は徹明町通りと金華通りの交差点、投下弾はE46集束焼夷爆弾 2,387発、M47焼夷爆弾 12,221発で行われた。(岐阜市平和資料室パンフによる)

 

M-47焼夷弾 : 実物

 

E-46集束焼夷弾 : 実物大模型

 

ひと晩で中心部は焼け野原に。丸物百貨店(現中日新聞岐阜支社)屋上から南のJR岐阜駅方面を望む。

 

焼け野原で市民が求めたものは!。  戦争に負け、食べものもろくになかった時代、人々がさらに欲しがったものが娯楽だった。戦争中は楽しみや娯楽を一切禁じられていたため、娯楽に飢えていた。終戦間もない1945年9月末、柳ヶ瀬座(後の金華劇場)が誕生、食べ物も住む家もない人々が詰めかけた(左)。食べものを求めて大行列。写真は神田町通(現長良町通)と美殿町通の交差点。ここからは、関や美濃に向かう美濃町線が発着していた。都心部では食糧が足らず、農村地帯に買い出に行く、長い行列ができている。着物や家財道具と物々交換し、戦後の数年、市民たちはこうして生き延びた(右)。

 

戦争は終った。さあ、街づくりだ!。長良川堤防上の応急の住居(バラック)では、早くも小さな看板(神山医科器械店)を掲げて商売を再開している(左)。復興の槌音が聞こえる神田町通(現長良町通)の様子。市電は開通したが多くの人は歩いている。商店街はなく、焼けあとのガレキが残るなか、あちこちに畑が作られている(右)。

 

焼け野原からの再出発 ~そして今 。

ここは異国の廃墟か、いまの名鉄新岐阜駅界隈(左)。国敗れて山河在り!、戦争で岐阜の町は焼けても、金華山の稜線は変わらない(右)。