副題:海なし藩の川越藩が三浦半島の海岸警固を担っていた背景と経緯

 

前回ブログで、海に接していない武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)に居城を置いていた譜代大名の川越藩が遠く離れた三浦半島三浦郡の海岸線の警固を担っていた事を書きましたが、本日のブログでは、その歴史的背景と経緯について書いてみたいと思います。

 

川越城の唯一の遺構(現在の埼玉県川越市)

 

第11代将軍 徳川家斉の治世の1808年、幕府の直轄領の長崎湾内英国軍艦フェートン号(下写真)がオランダ国旗を掲げて不法に入港し、出島のオランダ商館員を人質にして、長崎奉行所から水、薪、米・野菜・肉を入手(強奪)した後に港外に逃走する事件が発生します。

 

大きな被害はなかったのですが、長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹。長崎港の警固を担っていた肥前国佐賀郡(現:佐賀県)の譜代大名 鍋島藩の家老と藩士数人も責任を取って切腹しています。

 

1808年 長崎港に不法侵入した英国軍艦フェートン号

 

1808年の英国軍艦フェートン号の事件以降も、海に接した幕府の直轄領(御領)に、英国、ロシア、米国の軍艦、捕鯨船、商船の出没が相次ぐようになります。直轄領の無防備な状況を痛感した徳川幕府は、全国各地の沿岸に接する幕府御領地(直轄地)の警固強化を決定します。

 

幕府直轄領の配置(紫色) WEBより拝借

 

幕府直轄領の警固役として選ばれたのは、関ケ原の戦い以前から徳川家(松平家)に臣従していた信頼度の高い白河藩、会津藩、川越藩等々 の譜代大名でした。

 

本来ならば有事の際に幕府直轄領を守るのは、幕府直轄軍ともいうべき旗本八万旗(旗本・御家人・家臣)だと思うのですが、幕末期の旗本の軍役義務は、事実上免除されていたようですね。

 

幕府直轄の旗本(200石~1万石)

 

1810年(文化七年)、度重なる外国の軍艦、捕鯨船、商船の来航を危惧した幕府は、お膝元の江戸湾に通じる房総沿岸の警固を陸奥国白河藩(現:福島県白河市)の松平定信に命令。三浦半島沿岸から相模沿岸の警固を陸奥国会津藩(現:福島県会津若松市)の松平容衆に命令します。

 

1820年(文化政三年)、会津藩主の松平容衆の転封によって浦賀奉行所(太田資統)が三浦半島沿岸から相模沿岸の警固を引き継ぐ事になり、その実働部隊を命令されたのが武蔵国入間郡に居城(現:埼玉県川越市)を構えていた譜代大名川越藩主 松平斉典(下写真)でした。

 

第四代川越藩主 松平斉典 (17万石)

 

海岸警固の実働部隊となった川越藩は、三崎村(現:三崎市)や現在の横須賀市に位置する浦郷村、大津村、観音崎に海防陣屋を設置(下写真)し、先ずは500人以上の藩士を派遣しています。

 

三浦半島 海防陣屋跡 (WEBより拝借)

 

1837年(天保八年)、米国旗を掲げた「モリソン号」が浦賀湾に侵入して来た時、浦賀奉行(太田資統)と川越藩は、幕府の異国船打払令に則って無抵抗のモリソン号を砲撃して追い払います。

 

しかし1年後の長崎出島のオランダ商館からの報告書によって、「モリソン号」は、米国オリファント商会所有の民間商船であり、浦賀への来航目的は、マカオで保護した日本人漂流民七人の送還と貿易交渉の打診であったことが判明します。

 

米国オリファンと商会所有の商船モリソン号

 

蘭学者の高野長英渡辺崋山が参加していた「尚歯会」(別名:蛮学社)は、商船のモリソン号に大砲を撃って異国船打払令を実行した幕府の頑迷な鎖国政策(オランダと清国の船を除く)に対して、公然と反旗を翻します。

 

渡辺崋山は、三河国の譜代大名の田原藩(現:愛知県渥美半島)の江戸年寄を勤めていたようですが、画家としても知られていますね。

 

高野長英は、陸奥国の外様大名の仙台藩の水沢留守家の家臣の三男として生まれ、叔父で医者の高野家の養子となり、後にシーボルト門下生を経て江戸で町医者を開業していました。

 

(左)渡辺崋山、(右)高野長英

 

モリソン号事件異国船打払令のような幕府の頑迷な鎖国政策を痛烈に批判する「戊戌夢物語」を書いた蘭学者の高野長英は、逮捕➡永牢(終身刑)➡脱獄➡自決、「慎機論」の草稿を書いた渡辺崋山も蟄居➡切腹となり、蘭学者の集いの尚歯会(別名:蛮学社)の主張は潰えてしまいます。

 

蘭学者の言論を弾圧した此の事件は「蛮社の獄1839年天保10年と呼ばれていますが、中学生時代の僕は、蛮社」とは、蘭学を嫌う幕府側の儒学者や国学者が"野蛮な蘭学者の仲間"として名付けた蔑称だと思い込んでいたのですが・・・「蛮社」=「蘭学者のグループ」と解釈する方もおられるようですね。

 

蛮社の獄で捕らえられた高野長英 (WEBより拝借)

 

徳川幕府から三浦郡~相模沿岸の警固を命じられた川越藩の話に戻りましょう

 

武蔵国で最大の石高となる17万石を拝領していた川越藩は、三浦郡~相模沿岸の警固を命令された時、17万石の内の1万5千石を相模国の1万5千石と替地されています。しかし沿岸警固の出費額は、替地の石高1万5千石を大幅に上回る規模に膨れ上がり、川越藩主 松平斉典は莫大な借財に苦しむことになります。

 

ペリーの浦賀来航の頃になると、川越藩が派遣した藩士は2万人以上となり、川越藩の御用達だった豪商の横田五郎兵衛の台所事情も苦しくなります。困り果てた川越藩主 松平斉典は、内々に転封工作(国替え工作=引越し工作)を図ったとの話が伝わっています。

 

映画化された土橋彰宏氏の小説「引越大名 三千里」の主人公は、父の代から都合七度もの転封を重ねて「引っ越し大名」と揶揄され、転封によって莫大な借財の返済と利息で苦しんだ結城松平家二代目当主の松平直矩でした。

 

結城松平家二代目当主の松平直矩(引っ越し大名)

 

三浦郡~相模沿岸の警固を命じられた川越藩主 松平斉典は、引っ越し大名として名高い結城松平家の八代目に当たるそうですが・・・松平斉典の転封工作(藩領の引越し工作)は不首尾に終わってしまいます。

 

次回は話を本筋に戻して、ジェームズ ビッドル司令官が率いる米国東インド艦隊の2隻が三浦半島の城ヶ島沖を廻って江戸湾口の浦賀沖合に来航(1846年弘化3年)し、浦賀奉行所と川越藩と対峙した時の様子を書きたいと思います。