本日のブログは、釈迦牟尼の入滅後500年間に亘って仏像が造られていなかった時代に崇拝されていた象徴的具象物一つである「法輪」を予定していたのですが・・・・

 

ここのところ「仏塔崇拝」(仏舎利崇拝)と「仏足石崇拝」と些か抹香臭いブログが続いていたので、今回のブログ記事は、ガラリと目先を変えてみることにしました。

 

実は、今月の1月18日の僕のブログのアクセス数が俄に「2,490」の数値を記録しました。

 

僕のブログの通常のアクセス数は、概ね350から450程度ですから、「2,490」アクセス数は明らかに異常です。

 

数年前にも2回ほど高いアクセスがあったことがあり、コンピューター上の単純エラーだろうと思って無視していたので・・・今回もそうだろうと思っていたのですが・・・

 

今日、過去の投稿記事のアクセス数を眺めていると、2014年に僕が数回に分けて投稿した「アンネ・フランク」のブログ記事(下欄に添付)にアクセス数が集中していることに気付きました。

 

2014年10月3日付けの僕のブログ記事

 

僕のブログにアクセス数が増加した背景には、今年の1月17日に日本国内のマス媒体で報道された記事(下記)に起因していたことが分かりました。

 

日本で流れたニュースの情報源となったオランダ現地紙の「フォルクスクラント」の記事には、概ね次のような内容が書かれていたようです。

 

「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクさんとその家族の居場所をナチス・ドイツに密告した人物は、アムステルダム・ユダヤ人協会のメンバーだったアーノルト・ファン・デン・ベルフ氏が自分の家族を守るために行った可能性が高いことが分かった」

 

ユダヤ人居住区内でナチス政策を実施することを強制されていたユダヤ人協会は、1943年にナチスによって組織解体となり、協会のユダヤ人メンバーの多くは、強制収容所に送られてしまったのですが・・・

 

密告者のアーノルト・ファン・デン・ベルフ氏と家族は、強制収容所に連行されることなく自宅で終戦を迎えられたそうです。アーノルト・ファン・デン・ベルフ氏は1950年に亡くなられていました。

 

実は、2014年10月3日に僕が書いたブログ記事では、密告者をアンネ・フランクの隠れ家の一階の倉庫で共稼ぎで働いていた Mr.ホランメルト・ハルトと妻のレナ・ハルトの可能性が高いと書いてしまったことを吐露します。

 

僕が密告者をオランダ人のハルト夫妻だろうと思った背景には、決死的覚悟でアンネ一家を含む隠れ家メンバー8人の面倒をみたオランダ人女性のミープ・ヘースさんがオランダ人のハルト夫妻を密告者と思っていたこと・・・

 

そして、戦後に強制収容所から生還したアンネ・フランクの父親のオットー・フランク氏に、そのことを告げていたこと・・・という事ことに因るところが大きかったのですが・・・

 

そしたまた、アンネ一家を含む隠れ家の同居者8人についての密告電話を受けたナチス親衛隊将校のユリウス・ダットマンが「密告電話は女性の声だった」と述べていることも影響していたと思います。

 

今回、密告者調査をした専門家チームによると、アンネの父オットー・フランク氏は、密告者が顔見知りのユダヤ人協会のアーノルト・ファン・デン・ベルフ氏だということに気づきながらも、その事実を伏せていた有力証拠があるといっているようです。

 

アンネ・フランクの父オットー・フランク氏が密告者について沈黙を守ったのは、密告者がユダヤ人であったことが分かると、当時の世間に蔓延っていた反ユダヤ主義に益々拍車がかかるであろうことを恐れたのであろう・・・と指摘していました。

 

 

上記に貼付した拙ブログは、今回のアクセス騒動となった「密告者」については一言も触れていないのですが・・・今回2番目にアクセスが集中した記事となりました。ご興味がおありでしたら御一読ください。

 

今月の17日から20日まで続いたアクセス数(1103→2490→978→773)も、22日は平常ペースの「426」に戻って静かになりました。