1944年8月4日、午前10時半頃、アンネ一家(4人)と共同生活者(4人)の8人が潜伏する会社建物の前に、オランダ・ゲシュタポ・ユダヤ人課のカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長の率いる車が止まります。


アンネ一家(4人)と共同生活者(4人)が潜伏していた会社建物

カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長は、1階の倉庫要員に案内させて2階の会社事務室に向かい、社長室で仕事していた Mr.クーフレル に拳銃を突きつけて、潜伏者の8人の居住区となっている3階に急行。ゲシュタポの急襲に恐れ慄く8人を逮捕して、アムステルダム南部のユーテルペ通りにあるゲシュタポ本部へ連行します。

 
潜伏者の8人を逮捕したカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と社長室で執務していた Mr.クーフレル

ゲシュタポが隠れ家を察知することが出来たのは、現場に赴いたカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長の上司であるユリウス・ダットマンへの一本の密告電話でした。女性の声だったそうです。

その声の女性は、隠れ家の一階の倉庫で共稼ぎで働いていた Mr.ホランメルト・ハルトホの妻のレナ・ハルト(掃除係)だとする未確認情報があります。アンネを含む隠れ家メンバー8人の面倒を親身になって支援したオランダ人女性のミープ・ヘースさんも、そのように思っていたらしく、強制収容所から生還したアンネの父親のオットー・フランクにも告げたようですが・・・オットー・フランクは、生涯を通じて、その件について何も語らなかったそうです。


左:アンネ一家と共同生活者の8人の支援をした四人のオランダ人とアンネの父親 オットー・フランク。
前列左端がアンネ一家を支援したオランダ人女性のミープ・ヘースさん。
前列中央の男性がアンネ・フランクの父親のオットー・フランクさん。


アンネの日記の中にも、1階の倉庫従業員に隠れ家の存在を知られないように、音を立てないように最大限の注意を払わなければならないと綴った頁がありますが・・・・実際には、個人の考えを大事にする習癖の強い彼らは、潜伏生活を送る身であることも忘れて、それぞれの主張を喧々諤々とぶつけ合う光景が頻繁に綴られています。

会社の事務員である4人とミープ・ヘースさんの愛人(後に結婚)だけは、隠れ家の秘密を承知していましたが、何も知らされていなかった倉庫係の人々は、誰もいない筈の階上の 『 隠れ家 』 から漏れ伝わる正体不明の異音に気付いて彼是と詮索し、自分たちに嫌疑が及ぶのを恐れてオランダ・ゲシュタポ本部に密告したのかもしれません。戦時中の日本と同じように、密告を促すような隣組的な仕組みがあったのかも知れませんね。


     父親・オットー、    マルゴー(姉)、      アンネ(妹)、     母親・エディット

隠れ家に潜伏していたアンネ一家を含む8人を一網打尽にしたカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長(享年61歳)の略歴が残っています。

1911年 6月:オーストリア(ウィーン)の警察官の息子として誕生。
1935年:オーストリア陸軍除隊後、ウィーンの警察に入隊。
1939年:ドイツ・ゲシュタポ ( 国家秘密警察 ) に志願入隊。
1943年11月:オランダ・アムステルダムSD・ユダヤ人課に転属。(但し、非ナチス党員)
1944年8月4日:午前10時半頃、アンネ一家(4人)と共同生活者(4人)の8人を逮捕。
1945年 4月:ウィーンに戻るが、共産党員暴行の罪で14か月の懲役判決を受ける。
1954年:ウィーン警察の巡査部長まで昇進。(西独連邦情報局のスパイだった時期もあり)
1963年10月:ナチハンターによって拘束。ユダヤ人虐待の容疑で裁判開始。(警官職停止)
1964年 6月:証拠不十分により訴訟打ち切り。
1964年10月:警官職に復帰。指紋や写真の整理にあたる。
1972年:死亡 (享年61歳)


警察官として復職した後だと思いますが、オランダ記者から、アンネ一家について質問を受けたカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー元親衛隊曹長の短いコメントが残っています。

記者 『 自分のしたことを悔いていますか? 』
彼  『 悔いています。まるで村八分ですから・・・ 』
記者 『 アンネの日記を読みましたか? 』
彼  『 自分の事が出てるかと思いましたが、出てませんでした 』




『 アンネの日記 』 は、カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長が踏み込む三日前の1944年8月1日の時点で終わっていますから、当然ながら,逮捕時のことは、何も書かれていません。

アンネ一家の隠れ家に踏み込んだ親衛隊曹長は、アンネのカバンを逆さまにして中身を床上にぶち撒けているのですが、彼自身は、その中に 『 アンネの日記 』 が含まれていたことに、全く気付いていなかったことが分かります。

隠れ家のアンネの部屋に捨て置かれた 『 アンネの日記 』 を拾って密かに保管したのは、オランダ人支援者のミープ・ヘース(1909年生-2009年没)とヤン・ヒース( 1905年生-1993年没)の夫婦でした。


左:カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長がアンネの日記を床上にぶち撒けたアンネの部屋
右:アンネの日記を戦後まで密かに保管したオランダ人支援者のミープ・ヘース


1944年8月4日にカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長によって逮捕された潜伏メンバーの8名は、アムステルダム南部ユーテルペ通りのゲシュタポ本部に連行されて一泊。その翌日にはアムステルダムの 『 ベーテリングスハンス拘置所 』 に移送されて四日間の取り調べを受けています。

その後、1944年8月8日、アンネを含む8名全員は、アムステルダム中央駅(下写真)からオランダ北東部ホーフハーレン・ヴェステルボルクの北方10キロに位置する 『 ヴェステルボルク通過収容所 』 に移送され、政治犯として懲罰棟 ( 第67号棟 ) に収監されています。


アムステルダム中央駅から、強制収容所への中継地となる『 ヴェステルボルク通過収容所 』 に移送。

『 ヴェステルボルク通過収容所 』 からは、オランダ系ユダヤ人(約10万人)、ドイツ系ユダヤ人(約5000人)、ジプシー(500人)やオランダ人政治犯(約400人)が各地の強制収容所へと送り込まれていますが、生還できた人は極端に少なかったようです。


オランダ北東部ホーフハーレンの北方10キロにあった 『 ヴェステルボルク通過収容所 』 の模型

今回、僕と友人K氏の二人が訪れたポーランド南部の 『 アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 』 へは、65回(1942年~1944年)に及ぶ移送列車によって、60,330人が送り込まれ、同じく今回訪問したドイツ国内の『 ベルゲン・ベルゼン強制収容所 』などへも 9回の移送列車で4894人が移送されていました。


『 ヴェステルボルク通過収容所 』 の跡地に残る鉄道の引き込み線と粗末な監視楼 (ウイキペディア)

『 ヴェステルボルク通過収容所 』 の懲罰棟 ( 第67号棟 ) に収監されたアンネと姉のマルゴー、そして母親のエーディトは、収容所内の工場で電池の分解作業を割り当てられますが、同じ仕事をしていたブリレスレイペル姉妹(ヤニーとリーンチェ)と仲良くなっています。

アンネよりも10歳ばかり年長のヤニーとリーンチェ姉妹は、後に、ドイツ・ハノーファ北方のベルゲン・ベルゼンの強制収容所でも一緒に生活することになり、アンネと姉のマルゴーの最後を知る人となるのですが・・・・その時のことは、老爺が訪れた 『 ベルゲン・ベルゼン強制収容所 』 のブログ投稿の折に触れることにしたいと思います。


オランダ北東部ホーフハーレン北方にあった 『 ヴェステルボルク通過収容所 』 の跡地

更に、アンネ一家は、 『 ヴェステルボルク通過収容所 』で、ド・ヴィンテル一家(父マヌエル、母ローザ、娘ユーディー)と知り合いになっています。 娘ユーディーは、アンネと同年齢だったことから、随分と親しくなったようです。母親のローザ・ド・ヴィンテルもまた、ポーランド南部の第二強制収容所(ビルケナウ)で飢餓と疲労で亡くなったアンネの母のエーディトの最後を知る人となります。

一ケ月後の1944年9月3日 、アンネ一家と隠れ家メンバーの8人、そして、、ド・ヴィンテル一家(3名)とブリレスレイペル姉妹(ヤニ-とリーンチェ)は、約1ケ月を過ごした 『 ヴェステルボルク通過収容所 』 から 『 アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 』 へ向かう最後の移送列車(家畜用貨車と荷物用貨車)に定員の倍以上も詰め込まれた状態で護送されます。


『 ヴェステルボルク通過収容所 』 から 『 アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 』 への貨車移送

戦後にオランダ・アムステルダムに生還したアンネの父親は、都会しか知らない娘のアンネが、移送貨車の高い位置にある小窓から見える田園風景を飽きもせずに見惚れていたこと、そして、姉のマルゴーやボーイフレンドのペーター、そして通過収容所で知り合ったユーディーと頻りにお喋りしていた様子を、懐かしく思い出して語っています。

 
同じ貨車で 『 アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 』 へ移送されたアンネとボーイフレンドのペーター

3日後の1944年9月6日、アンネ一家を含む隠れ家メンバー8人を運ぶ移送貨車は、ついに、想像を絶する艱難辛苦と破滅が待ち受けていた 『 強制収容所 ( アウシュビッツ-ビルケナウ) 』 に到着します。


強制収容所に到着直後、ガス室送りと強制労働に従事する人に選別する親衛隊医師


続きは次回にしたいと思います。