45歳の佐藤健太は、75歳の母親
君江と二人暮らし。
認知症の初期の症状が出始めた母親
の病院受診、要介護認定申請、訪問
調査、デイサービスの見学と進めて、
やっとデイサービスとの契約にまで
たどり着いた。
契約の日の土曜日は、仕事だった
健太に代わって、隣県に住む姉の
楓が立ち会ってくれた。
その日、久しぶりに同級生の中村
哲也と飲みに出かけた健太は、姉
が泊ってくれている安心感もあり、
ずいぶん遅くまで飲み歩いた。
帰宅したのは午前0時に近かった。
物音を立てないように、そっと
自分の部屋に入ろうとしたが、座敷
で寝ているはずの楓に声をかけられた。
「健太、遅かったわね」
「姉貴、ごめんな」
「良いのよ、飲みに行ったの久しぶり
なんでしょう」
「うん、それに哲也の話を色々聞かさ
れてたから」
「そうなの。温泉旅行の話は、明日の
朝するね。今日はもう早く寝なさい」
「うん、ありがとな。姉ちゃん」
健太は、ベッドに横になると、フーっ
と深く息を吐いた。哲也にSOSの電話
をしてからここまでの日々を思い出し
ていた。
「今日は、自分へのご褒美だな」
翌朝、朝食を済ませると、楓は息子の
浩介が予約を取った温泉旅館のパンフ
レットを、母親と健太に見せた。
海沿いの眺めの良い旅館で、ファミリー
向けの大きな部屋で、ベッドが3つに
和室に布団を敷いて、5人が一部屋で
泊まれるタイプだった。
何よりも良いのは、窓際に専用の家族
風呂があることだった。
「これなら家族だけで入れるから、
気兼ねが要らないでしょう」
楓が言うと、君江が聞いた。
「こんな立派な旅館に泊まって、ずい
ぶんと高いんでしょう」
「大丈夫よ、お母さん、5人で一部屋
だから、意外と安いのよ。それに、
今回は颯介の就職祝いを兼ねている
から、健太が奮発してくれるの!」
「あら、そうなの。颯介の就職祝い
なら、豪華にしてやらないとね」
君江が楽しそうに言ったので、楓と
健太はホッと胸をなでおろした。
旅行の話を一通り済ませると、楓が
健太に話が有ると言って、健太の
部屋に入った。
「健太、この前F市の認知症サポーター
養成講座に行って来たでしょう。浩介
と颯介と3人で。
その時、このノートをもらってきたの」
楓が健太に見せたノートの表紙には
「私のこれからノート」と書いてあった。
「何だい、これは」
健太は、中をペラペラめくりながらのぞい
てみた。
中には、延命治療のことや、財産の分け方、
葬儀やお墓のことについてなど、本人の
希望を記入するような形式になっていた。
「高齢者は、いつ何があるかわからない
でしょう。特に、認知症の人は、だんだん
判断能力が低下していくと、自分で自分の
意思を表示しにくくなるでしょう。
だから、元気なうちに、本人の意思を確認
して、記録を取っておきましょう!って
いうノートなの」
「S市の講座の時はくれなかったぞ」
健太が言うと、楓が答えた。
「これはね、F市が独自に作って配布して
いるそうよ。
それでね、お母さんの意思も今のうちに
きちんと聞いておきたいと思って」
健太は、ちょっと嫌だな、と思った。
いくら将来のためとはいえ、今の母親に
葬式やお墓の話なんて聞けないと思った。
すると、健太の心を見透かしたように
楓が言った。
「やっぱり、健太はそういう顔をすると
思ったわ。
だから、このノートをね、今度の旅行に
持って行って、浩介と颯介にお母さんと
おしゃべりしながら聞き出してもらう
つもりなの。
このノート、前半は思い出とか好きな
ものとか大切なものとかを書く欄がある
から、そういう話を二人に聞いてもらって
ね。少しずつ、将来的にどうしたいかって
いう話を聞いてもらおうと思っているの。
健太に頼んだら、刑事さんの尋問みたいに、
怖い顔で聞くに決まっているから、
お母さんだって嫌だろうからね」
姉の楓の言う事も確かに正しいと健太は
思った。
延命治療や葬式やお墓のことなど、でき
れば母親の望むようにしてあげたいと
思う。しかし、そんな話を自分一人では
なかなか聞きたくても聞けないし、何
からどうやって話したら良いのかも
わからない。
その点、このノートを見ながら、孫の二人
がおばあちゃんの昔話を聞くように、徐々
に話してくれるのなら、母親も素直に本音
を言ってくれそうな気がした。
「姉貴、わかったよ。このノートの
ことは姉貴に任せるよ。
俺も、おふくろが本当はどう思っている
のか知りたいし、できればその希望を
かなえてあげたいと思ってる。浩介と
颯介なら、うまく話を聞きだしてくれる
と思うよ」
健太の言葉を聞いて、楓の顔がホッと
した表情になった。
「ああ、良かった。健太がダメだ!って
怒鳴るかと思って、内心ビクビクして
いたのよ。
講座の時にね、F市のケアマネさんが
言ってたの。本人の意思をしっかり確認
しておくと、イザという時に家族の間で
もめないで済みますよって。
最後まで本人の意思を尊重してあげる
ことが、とても大切ですからねって!」
認知症になったからと言って、一人の
大切な家族であることに変わりはない。
最後まで、本人の希望に沿って過ごさせ
てあげたい。
姉の楓の想いを聞いて、健太も同じ想い
だった。
健太! それって大事だね!
TO BE CONTINUED・・・