学生のみなさんへ(3) まず痛みを感じよう
言葉の背後にある痛み、悲しみを感じ取ることが大切です。少し補足しながら、2年前の記事を再掲します。
学生のみなさんへ (3)
まず痛みを感じよう
私の授業では、まず、学生に「痛み」というものを感じてもらいます。
それはみなさんに私がなにかするということではなくて、自分から、痛みというものを感じ取ろうとしてもらうということです。
泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。
(宮沢賢治「貝の火」)
僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまはない。
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)
もうけつしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとはとうめいな軌道をすすむ
(宮沢賢治『春と修羅』「小岩井農場」)
こうした言葉から、作者の痛みを感じ取ろうとしてください。
痛みはまた、悲しみと言い換えてもかまいません。
作家たちは肉体の痛みというよりも、精神の痛み、心の悲しみを何とか乗り越えようとして、それを言葉にする道を選んだのです。
その時何が起こっているのか、どうして作家はその言葉を選び、その言葉を書きつけたのか、そうした作家への接近が必要です。
読者が作家の言葉を痛みの表現と考え、それを受容し、そこに共感することで、作家の思いは遂げられるのです。
作家たちは読者を必要としています。読者が作家に共感したり、同化したり、自分自身が作家の立場となり、その文章を自ら書いたと考えることで、その痛みを共有できます。
作者のことをよく調べてみましょう。作者と作品は別物だなどというのは、作品を作ったことのない人間の寝言にすぎません。作品は作者の分身です。
皆さんも一人の作家になる。そのために、皆さんに短歌を作ってもらったりしています。作者としての自分を感じてみましょう。皆さんには今までつらいこともあったでしょう。それをもし作品にするとき、何が起こるでしょうか。
悲しみを文字にするとき、いったいどんな現象が現れるのでしょうか。
なぜその表現が、読者の心をとらえるのでしょうか。
作者は本当に孤独です。しかしあなたの作品が読者を魅了した時、あなたの心に何が起こるでしょうか。
そのような方法論で、表現というもの、作品というものを照らし出していこうとするのが、私の授業です。
みなさまにすばらしい幸運や喜びがやってきますように。
いつもブログを訪れてくださり、ありがとうございます。