学生のみなさんへ(2)  痛みの表現として文学作品を見る | 日置研究室 HIOKI’S OFFICE

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作家の日置俊次(ひおきしゅんじ)が、小説や短歌について語ります。
粒あんが好きですが、こしあんも好きです。

 

  学生のみなさんへ(2)  痛みの表現として文学作品を見る

 

 言うまでもないことですが、文学作品は作者の心の表現です。表現というものがとても大切です。皆さんも心のどこかに悲しみを抱えているのではないでしょうか。そういう心が、文学作品を理解する大切な基礎になるのです。下の記事を参考にしていただければと思います。

 

学生のみなさんへ(2)

 

痛みの表現として文学作品を見る

 

 実は誰もが表現を求めているのです。喜びや楽しさというものもありますが、最も切実な表現は苦痛から生まれます。たとえば子供の頃虐待を受けた人が大人になったとき、自分の子供を虐待してしまいます。なぜでしょうか。

 それはその大人(親)が心に痛みを背負っているからです。その痛みがそのまま残っているからです。子供を虐待する行為を、その大人の痛みの表現として考えてみましょう。ひとは、生きていくためには、表現しないではいられないのです。

 その大人が、子供の時から今までどんな苦労、どんな痛みを背負って生きてきたのか、自分の痛みを人に言えずにどれほど苦しんできたのか、そんなことを考えましょう。

 言いたくても誰にも言えなかった痛みというものがあります。もし誰かがその痛みを理解し、その痛みに涙を流し、悲しみ、その苦しんでいる人の肩をやさしく抱いてあげていたら、どうなっていたでしょうか。

 表現できなかった苦しみ。おそらく今までその気持ちを表現できなかったというところに、大きな問題があります。苦しみは表現されなければ癒されないのです。だれかに深く認めてもらえることの素晴らしさを知れば、痛みに耐えられるのです。

 それを知らないものが、自分を痛めつけた行為を弱いものに繰り返すことで、自分の痛みをごまかそうとします。自分の受けた痛みが癒されていない結果として、子供に暴力を振るってしまいます。

 それもまた一つの表現の形となっていると、私の文学の授業では捉えようとしています。すべては表現なのです。もちろん、暴力はいけないことです。すべての表現が許されるわけではありません。しかし、そうしたさまざまな表現の形がある中で、文学として表現することのすばらしさを強調したいと思います。

 自分が、一人の人間として、はっきりと認められ、尊敬されるような場所にしか、自分の本当の居場所は見出せません。文学作品の作者はそういう居場所を探しているのです。その居場所は、作品を読んだ読者だけが与えられるのです。

 文学作品は、例えば虐待のような暴力的な行為に代わる高度な「表現」であり、それは歴史に刻まれ、時空を超えて、輝き続けることができます。

 しかし、とにかく、読者、あるいは観客の存在が、作者には不可欠なのです。

 文学作品、作者、読者という3者のうちどれが欠けても、文学の世界は成立しません。そして、ここに出版産業という仲介者が入ってくるので、話がややこしくなります。

 

 

 実例を一つあげておきます。私は紙の本をいろいろ出版してきましたが、出版の世界には作者をだまして儲ける闇の世界が広がっています。私は鎌倉の詐欺出版社からひどく騙されて、作品を盗まれ、深く傷ついていますが、それをこのブログで告白して、少しだけ心の痛みが和らいでいます。記事に「いいね」をしてくれる人がいると、身に沁みます。その事件はいずれ、文学作品にして発表する予定です。

 

 

    

天天快樂、萬事如意

みなさまにすばらしい幸運や喜びがやってきますように。

   いつもブログを訪れてくださり、ありがとうございます。