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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


今や安部昭恵さんと言えば話題の渦中の人となってしまった。

 

愚僧は、遇ったこともないし、お話ししたこともない。

 

でも、何かお人好しの様な気がしてならない。

 

もてはやされて調子に乗っていたのかどうかはよく解らんが、あまりにも脳天気な感じもする。

 

その一方で、首相の旦那さんは”悪魔の証明”に必死である。

 

総枠を眺めると何かおかしいような気がする。

 

国民は『もっと真面目に予算審議をして欲しい。』と願っていると思うのだが、くだらん時間浪費の中で多くの予算が通過していこうとしている。

 

すべてが不真面目としか言い様がない。

 

こんなバカげたやりとりをしていたら、数時間で他国に墜とされてしまうだろう。

 

個々の利権はさておいて、もっと真剣にやってほしいものである。

 

 

サンライズ


覚性山佛眼寺が真宗佛光寺派末寺となったのは、什物記録の痕跡から江戸時代初頭(元禄年間)と推測されるが、過去二回に亘って火災を被っており、寺歴を語る古文書等は焼失してしまっている。

 

しかし、境内に現存する五重石塔(野洲市文化財)や銅鐸博物館に所蔵されている佛眼寺の寺号(外陣正面に掲示)は鎌倉時代後期と言われており、佛眼(ぶつげん)という明名由来から推測するに、恐らく天台寺院として現存していたのではないかと推測される。

 

現に本堂の階段下や後堂の木材等から以前の廃材が再利用されており、過去二回の被災を物語っている。

 

従って、古い木材を活用しつつ再建されたのが現本堂で、同じく鐘楼堂についても木材の劣化、彫刻及び瓦紋を勘案するに江戸末期の建立ではないかと推測される。

 

 

こうした経緯のもと、旧鐘楼堂は永きにわたり佛眼寺の歴史を刻んできた。

 

それは、弛まないお念仏の相続と、里に時を告げるために据えられたものと解するが、幾度かの修復を重ねつつも古材は風雨に晒され腐朽し、また、虫害等も著しく、今まさにその役目を終えようとしている。

 

しかしながら、四本柱の上部は損傷が軽く新鐘楼堂の建材には適さないものの廃棄するには惜しく、この度の新築事業を期として先人方の当山への篤い崇敬の念を讃えるため記念の念珠に仕立て、念仏者の法具として生かそうと考えている。

 

 

サンライズ
 


人間同士の信頼はあっていいと思う。

 

しかし、見返りを前提とする一方通行の信頼は、脆く崩れ去るものである。

 

目下、ある学校法人の許認可等で国会が紛糾しているのがいい例えだ。

 

 

引用するのも恐れ多いが、親鸞聖人は、歎異抄に『よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。』と記されている。

 

『よきひと』とは、師匠であった法然上人のことである。

 

そして、『念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候。』と続く。

 

つまり、『師匠に騙されて地獄に落ちたとしても何の後悔もない。』ということである。

 

さらに、『いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』と続く。

 

この文面においては、『見返り』とか『取引』は一切存在しない。

 

こういうのが本当の信頼であって、はじめから後の利益を期待するのは信頼ではなく単なる交渉であって取引に過ぎない。

 

 

よって、事の真相に至って『騙された!』とか『梯子をはずされた!』とのたまうのは、はじめから信頼もなく、単に、取引に失敗しただけなのだろうな。

 

 

サンライズ
 


最近、至る所で、『あれも、これも私がやった。』というのをよく耳にする。


真相は周辺の方々には解っているのだろうが、誰も言わんから痺れ切らして自らが言うのだろうな。

 

意のまんまである。


『じゃ、あんたの実態は?』と聞かれると『私は○○だ。』とのたまうが、それは、己の実態を証明したことにはならない。

 

つまり、現代流に申せば、その場に居合わせることによって一個の生命体が認識できるということにしか過ぎないのである。


『貴方の実態は?』と聞いてみても的を得た返答はない。

 

『では、どういうことで己を認識させてもらっているの?』とさらに問い詰めると、『私は私だから。』という返事しか返ってこない。


つまり、己の規模や実態は世間さま、他人さまから数々教わっているということに気づけないのだ。

 

翻ってみるに、私達は、世間、他人さまなど多くの自分以外の方々から私という実態を認識させてもらっている。

 

これを仏教ではご縁と言う。

 

これも、先に己が存在してのご縁ではない。

 

ご縁の中に、たまたま、己が居合わせてただけなのである。

 

 

サンライズ
 


今や人権擁護委員の守備範囲が広大となりつつある。

 

同和問題をはじめ性差問題(DV)、いじめによる子供の人権、ネット通信による誹謗中傷、パワハラ、ドクハラ、モラハラなど数を上げればきりがない。

 

このままでは人様の擁護どころか愚僧の擁護をお願いしたいほどである。

 

 

さて、先日、トランプ大統領が就任当初の頃、記者とのやりとりの中で、大統領が記者に向かって暴言を吐いた事件は誰もが記憶に新しい。

 

言われた記者も汚い言葉で返したところ、その場からSPに摘まみ出されたとのこと。

 

その時、居合わせた他の記者が「ヘイトスピーチ!」と大統領を指摘した。

 

実に情けないことに、アメリカでも正しく言葉の意味が理解されていないのが現状だ。

 

この一連のやりとりは、単に子供の口喧嘩と同じであって、双方がどんなに汚い言葉で罵り合おうがヘイトスピーチではない。

 

単なる口喧嘩だ。

 

ヘイトスピーチとは、『人種、出身国、宗教、性的指向、性別、障害など 自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて個人または集団を攻撃、脅迫、 侮辱する発言や言動のこと。』を指す。

 

つまり、どうしょうもない個々の属性を攻撃するのがヘイトスピーチなのである。

 

すべての暴言に対してヘイトスピーチという指摘は当てはまらないのである。

 

良い勉強をさせてもらった。

 

 

サンライズ
 


過日、鐘楼堂の起工法要をおこなったとき、ある参詣者が『仏教も神社と同じように安全祈願するんやね!』と仰った。

工事の安全を願うのは共通の願いだが、起工法要をお勤めたからといって事故が起きないわけではない。
 
事故は、安全を怠ることによって起こるのである。
 
 
愚僧は、ご遷佛法要においても同じ事を申している。
 
『お経を称えたからといって魂を抜いたり、入れたり、愚僧はそんな器用な超能力は持ち得ていない。』と。
 
誰のために起工法要やご遷佛法要をお勤めするのかである。
 
誰のためを考えるとき、同時にその目的も見えてくる。
 
『住職・寺族、門徒、すべての関係者が決意する場なのである。』と申している。
 
ご遷佛勤行と同じで、『お経が短いの、長いの・・・。』というような問題でもない。
 
他人の問題ではなく、その場に居合わす者自身の問題なのである。
 
『正覚の大音が十方に響きわたるよう』、永久(とわ)にお念仏の(とうこ)を絶やさないよう関係者自身が決意する場なのである。
 
従って、真宗の表白文には『安全』とか『祈願』という語句は用いられないのである。
 
 
サンライズ
 

一昨日、鐘楼堂が解体された。
 
梵鐘を取り去られた躯体は重心を失ってグラグラである。
 
人間も要を失うとフニャフニャになるのと同じだ。
 
造作は時間がかかるものだが、壊すのはわずか一日である。
 
屋根瓦の垂木には微かに文字が記されている。
 
二度の火災で記録書類がなく、先代からは『建立は江戸末期』と聞かされてきたが、”明治三十三年”という記載は想定外だった。
 
大工に言わせると葺き替えを行った痕跡が見られるとのこと。
 
見事な彫刻が施してある彫り物の一部は再利用する予定だ。
 
ところで、『屋根土から壺などが出てきたらどうしよう。』などとあらぬ心配をしていたのだが、屋根には埋めないのが鐘楼の常識とのこと。
 
『もし、埋蔵するなら石垣の基礎部分が圧倒的に多い。』とのたまう大工のささやきに数日後が楽しみだわ。
 
あらぬ見返りに期待している愚僧はまさに愚かな凡部と言えよう。
 
 
サンライズ
 


様々な宗教が”信心”ということばを多用するのでまぎらわしい。

 

真宗では、『信心をする。』とは申さない。

 

さらりと表現してしまったが、ここんとこはとても大切なところ。

 

『信心をする。』と言うから、自力にせがまれ、『これだけしてやったのに!結果は?』ということになってしまう。

 

つまり、見返りのご利益を期待してしまうのである。

 

そして、思い通りに望みが叶わなかったら、『信心が足りないから・・・』とか、『お布施が足りなかったから・・・』と片付けざるを得なくなる。

 

初めから、対象が見返りのご利益という『もの』ではなく、『こと』なのである。

 

お話しを難しくしているようだが、『もの』と『こと』の頭に『ありがたい』を付けると仄かに見えてくる。

 

『ありがたいもの』はいずれ消え行くが、『ありがたいこと』は心に響き残る。

 

よって、真宗では『信心をいただく』、『信心を賜る』と表現する。

 

勿論、いただくのは己の計らいではなく、『如来』より呼び起こされる信心なのである。

 

 

サンライズ
 


先日、友人が奈良の東大寺大仏殿に参拝してきたとのこと。

 

『久しぶりに参ったけど、矢張り大仏は壮大で立派やった。』との感想。

 

『それで、どうでしたか?』と聞くも、『沢山のお願い事をしてきた。』とのこと。

 

 

東大寺に限らず、古刹寺院の殆どは、必ず拝観料がつきものだ。

 

”信仰の自由”を提唱しつつも、実は参拝を買っているに他ならない。

 

しかも、徴収されている方は僧侶ではなく、委託会社の方である。

 

寺院の維持管理費に充当されているのだろうが、ご本尊を観光の対象にしていいのかな。

 

余計なお世話だろうが、”信仰の自由”は何処へ行ってしまったのやら。

 

『実は、拝観はしませんけど、信者として参拝したいのですが・・・。』と言えばどうお応えになるのだろう。

 

 

一方、愚僧は常に衣を羽織り、参拝して偈文をお唱えすることにしている。

 

勿論、殆どが、『僧籍にあるお方から拝観料を戴くわけにはまいりません。』とのたまう。

 

しかし、儀礼としてのお供えは常識なので、拝観料以上のお供えが必要となる。

 

当院は参拝料をいただくわけにはいかないけれど、それに代えて『境内の草むしり10本』というのはどうだろうな。

 

 

サンライズ
 


先日、三歳の孫がお父さんにオムツを交換してもらっていた。

 

オムツを脱いだ瞬間、孫は振りチンが気持ちよかったのか家の中を走り回る。

 

暫くして、父親が履かそうと催促するが余計に逃げ回る。

 

そして、最後の一言に「パパ嫌い!あっかんべー!」が出た。

 

昔、ある小児科医が、『親が子供を底抜けに愛していると、子供は平気で親に反抗しますよ。』と語ってくれた。

 

つまり、子供は親が自分を無条件に受け入れることを知っているから、親は絶対に自分を見捨てないという確信があるからこそ言うことを聞かない子になれるし、反抗もできるということである。

 

しかし、親が子供を愛していなければ、子供は親に反抗できない。

 

こどもは親から見捨てられれば生きていけず、親が『見捨てるぞ』と脅せば、親の顔色を窺うようになるのである。

 

そして、親の言いつけを守ろうと自ら利口さんな子になろうとするのだが、そこには本当の信頼関係や愛情は生まれてこないのである。

 

親を阿弥陀さまに、子供を人間に入れ替えてみよう。

 

子供が逃げようが親の心は変わらないのである。

 

人間と阿弥陀さまの関係も似ているな。

 

 

サンライズ