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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


タイトルに誕生日と表現せず、わざと生誕日と書いてやった。

 

あまり意味も無く、どうでもよい。

 

この歳を授かって、ファミリーから『おめでとうございます!』は何か歯痒いものがある。

 

これを、あまり力説すると96歳の母に失礼かもな。

 

『冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし。』とは、一休禅師の法語である。

 

お正月に髑髏(しゃりこうべ)をかざし、これを連呼しながら京都の町を行脚されたとのこと。

 

どんなに容姿端麗であっても、死ねば化けの皮が剥がれて皆こうなるというのである。

 

つまり、『体裁に捉われることなく、今を懸命に生きなさい。』ということだといただいている。

 

まさにこの心境かな。

 

因みに、今年のプレゼントは、クロコダイルのダウンベストだった。

 

まあ、『嬉しくもあり、寂しくもあり!』ってとこかな。

 

今まで、何かとありがとうございました。

 

一人では生きられません!!

 

これからも皆さまにお世話になろうと思っております。

 

 

サンライズ
 

ある参詣人が質問した。

 

このお寺は創建500年経過しているとのことですね?

 

その質問に住職は応えた。

 

『いや、700年です。』と。

 

すかさず参詣者は、『でも、ガイドさんは500年と言われましたが?』

 

すると、住職は、『いや、使用されている材料の樹齢は200年なんです。』と返した。

 

まあ、凡人の愚考なんてそんなもんだ。

 

かつて、看護学校を建設するために用地買収に従事したことがある。

 

団体交渉を目論んでいたのだが、個別交渉に走る地権者もおられた。

 

でも、最後は額の問題ではなかった。

 

地権者みんなが口を揃えた。

 

『ご先祖から預かった土地を売ってしまうこの自分に申し訳ない。』

 

それを聞かされると頭が下がってしまった。

 

土地を売却した後も地権者の方々は、『ゴミが落ちてはいないか?』と毎日、気にしておられたのである。

 

『売った土地なのに、なぜここまで?』と頭がよぎったが、『この土地を永遠に生かして欲しいという叫びなのだろう。』と、ありがたく思いをいただいた。

 

その後、ジュースやコーヒーの空き缶が放られていることもあったので造成工事まで拾わせていただいた。

 

数日経って、『やはり、あんたに買ってもらってよかった。』という声を耳にした。

 

怖いものである。

 

地権者は、いや、ご先祖はちゃんと見ておられるということだ。

 

今や、こんな沙汰は日常茶飯事であろう。

 

使ったこともない札束を電卓ではじいているようでは何も見えてこないのである。

 

本当に頭が下がったときに見えてくるのだろうな。

 

 

サンライズ

 


通常、『いただく』という表現は、自らが能動的に何かを取得することである。

 

一般的にはそういうことだ。

 

しかし、仏教的には相当な隔たりがある。

 

大切なのは、『いただくのは何か』ということだ。

 

それは、はありがたい『もの』なのか、もしくは、ありがたい『こと』なのかなのである。

 

 

『もの』は自力のお金で済むのだが、『こと』は難しい。

 

つまり、『こと』は、私自身の力だけでは成り立たないのだ。

 

あらゆる諸条件がそろって初めて『こと』が成就されるのである。

 

 

少し表現を変えてみよう。

 

例えば、ある目的地に行きたい時に電車に乗ったとしよう。

 

言わば、乗車券は『もの』だが、その乗車券で目的地に到達できることが『こと』なのである。

 

到達に至るまでには多くの諸条件が介在してくる。

 

『事故なく、電車が定刻通りに動く。レールも駆動も順調。そして、運転手も自身も周辺の方々も健康。ついでに、座れる座敷もあった。』、など、こうした諸条件はすべてご縁なのである。

 

このご縁が揃って初めて、『ありがたいこと。』に至るのだ。


よくよく考えると、目的地への到達は私の所作だけではないことがよく解る。


これと同じように、弥陀の本願をいただくというのも、自らの所作ではない。


すべてが、阿弥陀さまより賜る縁であり、阿弥陀さまより賜る信心なのである。


そう考えると、自力を豪語しつつ、『自ら信じています。』という奴ほど怪しいものはないな。


『何でもj出来る。』と思っていても、『何も出来やしない。』のが私自身なのだろう。

 

こうした、気づきこそが信心に繋がっていくのだろうな。

 

 

サンライズ
 


先日、栗東市のある銀行に行くことがあったが、久々だったのでやはり行き過ごしてしまった。


仕方なくUターンして何とか辿り着いたのだが、駐車する時に後方確認が甘かった。

 

もう少しのところで接触事故となるところだった。

 

相手の方も同年齢ぐらいの方で、思わず、『びっくりさせてすみません。』と謝ると、『いやいや私の方こそ前をよく見ていなかった。』とのことだった。

 

お互いに紙一重だった。

 

今や、ニュースなどで高齢者の運転操作ミスが多いとのことだが、最早、その域に近い。

 

免許を取得する際には到達年齢が必要だが、一旦、取得すれば永久というのもおかしい。

 

どこかで線引きが必要なのではなかろうか。

 

昔、『絶対に自動車運転免許は取得しない!』という医師がいた。

 

『さぞかし、お金持ちの言動か』と思いきや、彼は、新車購入費、車検代、保険料、ガソリン代に体力疲労などを勘案すると、毎日、タクシー通勤したとしても自家用車を保有しない方が安価という数理計算を立てていた。

 

これも利便さに欠けるが、どこかでリスクと向き合う必要があるように思う。

 


サンライズ

毎日、梵鐘を撞かせていただいている。

 

昭和35年に再整備した梵鐘だ。

 

戦前の鐘はとても良い音色だったらしい。

 

腹の底から『ゴーーン』と響き渡ったとのことだが、国に供用してしまった。

 

で、今の鐘は『キャーン』と金属音そのものだ。

 

これが里の午後五時の知らせになっている。

 

まあ、これも仕方がなかろう。

 

素材が揃っていない戦後まもなく整備したのだから。

 

でも、愚僧的には、満足している。

 

当時、梵鐘の意義は音色ではなかった。

 

時を知らせるツールだったのだ。

 

しかっりとお役目を果たしてくれている梵鐘にナムアミダブツである。

 

 

サンライズ

と、いうわけで暫く旅をしていた。

 


勿論、実際の長旅ではなく、心の彷徨いである。

 

確かに遠いところに赴き、忙しかったこともある。

 

しかし、そんなことは本論でも何でもない。

 

つまり、時間的に余裕がなかったのではなく、愚僧の心に余裕がなかったという、まあ、そんなところかな。

 

その反面、得るものも大きかった。

 

 

人間、誰しもそうだろう。

 

今、与えられた『いのち』を無駄にはできないということを、改めて強いられる羽目となった。

 

無駄という言葉は。仏教的には『粗末』に値すると了解(りょうげ)している。

 

親鸞聖人が最後まで見つめられたのは、自分も含めて気ままでどうしようもない都合の良い我が身である。

 

人間、誰しも自分が一番かわいくて愛おしいのである。

 

そんな、気ままで極悪非道の凡夫(われわれのこと)でさえも、救い取ってくださるのは『阿弥陀さましかない』というのが親鸞聖人の終着駅だったろう。

 

今や、目で見て、触って初めて感じ得られることが重視され、眼で見えないものは軽視されつつある時代だ。

 

先ずは、『証拠を見せろ!』とか『論理的に説明しろ!』などと。

 

これらすべては他に向かって発する言葉である。

 

言わば、他に向かって『助けてくれ』に他ならない。

 

しかし、眼には見えないはたらきは公平に訪れている。

 

実は、それに気づかないのが我々凡夫なのである。

 

それは、他から与えられるものではない。

 

つまり、仏法は内観の教えでしかない。

 

私にかけられた願い、望み、営みがこよなく、あまねくはたらきつづけているということに気づかさせていただいた時、かすかに見てくるのだろうな。

 

『他力とは、私を生かそうとする弥陀の本願でしかない。.』と勝手ながらにもありがたくいただいている。

 

 

サンライス


永らくブログ更新できなかった。
 

申し訳ないが、また、頑張るのでよろしく。

 


最近、よく思うことだが、長年、生きていると歳を重ねても地域の会議や会合など、様々な場面に遭遇させていただく。
 

愚僧は、大凡を理解したつもりで、側近も解っているつもりだと思っているのだが・・・。
 

いざ、蓋を開けるとなかなか一筋縄とはいかない。
 

時代とともに人も変化しているのである。
 

我が家でも同じことが起きる。
 

息子の会話から想像するに、愚僧が戦力外のような気がしないでもない。
 

つまり、今までお山の大将をさせてもらってだけなのかもな。
 

多くの生き物は優勢繁栄のために戦う。
 

そして、新たなリーダーが出てくる。
 

でも、愚僧は戦った記憶が無いままに敗北しつつある。
 

今は、一つひとつを順追って乗り越えていくことが最も大切なのだろうが、過去の経験値が邪魔をするのかもしれない。

 

聞く側にしてみれば、うざい話しに他ならない。
 

まあ、人間はこうした戦いのない変遷の中で歳をとっていくのだろうな。
 

 

サンライス
 


自治会の夕涼み会に長男夫婦が向かった。

若嫁に、抽選くじがあるので所定の箱に入れてくることと、焼きそばを買ってくるよう頼んだ。

二人で手を繋いで出かけていったとのこと。

申し訳ないが、昭和20年初期生まれの愚僧にはそんな高尚な作法は持ち得ていない。

お土産の焼きそばは、キャベツも豚肉も沢山入っていてなかなかの出来映えだった。

味も美味しかった。

坊守曰く若嫁は、『ちゃんと抽選券を所定の箱に入れてきましたよ!』とのこと。

夕涼み会に行かれたお隣さんの報告によると、何度も愚僧の名前を呼んでいたようだ。

抽選が当選していたのである。


ところが、一一言が足りなかったのだ。

『抽選が終わるまで帰らないように!』という一言だ。

まあこの時期、食中毒など夏に当たるものにろくなものがない。

当たっていてもいただかない奥ゆかしさに拍手だ。

いかばかりか残念。

暑かったろうに、わざわざありがとうさん。


サンライズ

今年も琵琶湖にシジミ捕りに行った。

いつもの漁場だ。

水温に馴染ませながら湖水に浸かった。

『なんだこりゃ、水温が生温かいではないか。』

およその状況を察するが如くシジミはいない。

例年では約1時間程度でバケツに半分弱が捕獲できるのだが、とにかくシジミがいないのだ。

採れるのは石貝にダブ貝ばかり。

この種は肝臓ジストマを抱えているので危ない。


約1時間、悪戦苦闘しながら味噌汁一回分を捕獲することに成功。

しかし、大粒ばかりで小粒が少ない。

確かに水温もさることながら、湖底地形が変化している。

水面から30mまでは徐々に深くなって胸元までの水位だが、また、膝までの水位に変わる。

漁場は河口に近いので、大洪水とともに砂に覆われて中小シジミが窒息死したのかな。

まあ、推測は及ばないが、残念なこと。

この夏場を凌ぐのは鰻も宜しいがシジミ汁に限る。

次回は場所を変えて探索してみるかな。


サンライズ

過去の害獣に備えて、常に本堂裏手に檻を仕掛けたままにしてある。

エサは長持ちする乾パンだ。

久々に本堂裏に回ったところ、カラスが入っていた。

すでに微動だにしなかった。

結構、カラスには地蔵尊のお供えなどやられっぱなしだったが、獣の檻に入るとはよほど腹が空いていたのだろうか。

可愛そうなことをしてしまった。


ご近所の方からの言葉に、『先日からカラスが入ってバタバタしていましたたよ!』と教えてくださったが、時、既に遅しだ。

知らせてくだされれば逃がしてあげたのに。

安易に『良かれ』と思って仕掛けておいた結果、大違いが生じてしまった。

愚僧が檻を仕掛けなければこんな事態は招かなかった筈である。

最早、お隣の方の問題ではない。


こんなことは地域社会でもよくあること。

まあ、人間の『良かれ』なんて実にいいかげんなものでしかない。

こんな時こそ最後の〆が大切なのだ。

〆は言葉ではなくアクションである。

愚僧に悲しいご縁をいただいたカラスを畑に葬らせていただいた。


サンライス