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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


先日、息子達と琵琶湖大橋袂(たもと)のピエリに行った。

 

その日は、混雑していて裏側の駐車場に駐車した。

 

そこで、裏側入り口付近のガリバー中古車展示場で愚僧は車を詮索し、息子達は別の買い物があるとのことで別行動とした。

 

約1時間が過ぎ、約束の時間に、『今、何処にいる?』と息子から電話が入ってきた。

 

『車のところで待ってるわ。』と返答し、愚僧は最初に駐車した車の中で待っていた。

 

気が長いのは愚僧の自慢のひとつだ。

 

凡そ40分が経過しただろうか。

 

しびれを切らした息子から電話が入ってきた。

 

『ガリバー中古車展示場で待っているんだけど、どこにいるの。』と一言。

 

まあ、車には違いないのだが車の範疇って広いわな。

 

一言が足りない己に猛省だ。

 

 

ライジングオブサン
 


本年度も難病申請を行ったが、『あなたは症状が軽い。』ということで難病の認定を外されてしまった。

 

症状が軽減したことはありがたいが、『そんな沙汰ってあるんかいな。』と少し怒っている。

 

指定を外されるってことは、薬剤支払いの負担も100%となる。

 

決して安価な薬ではない。

 

 

愚僧は薬代の負担が増えたから怒っているのではない。

 

そもそも、難病たるや現段階では治療方法が確立されていない疾患であり、重傷者だけでなく、中傷、軽症患者全体を通して病態を調査研究するところに意義があると思うのだが・・・。

 

かつて、病院が救命救急の指定を受けようとしていた時、ある救命医はどんなに軽症患者であっても救急扱いで診察されていた。

 

『先生、今しがた診られた患者さんって本当の救急じゃないよね!』と言うと、その救命医は『診察の結果、救急ではないことが判明したが、こうした延長線上に本当の救急がまぎれているんですよ。』と仰った。

 

当時、その先生のひたむきな応需姿勢に頭が下がったものである。

 

さて、軽症だからといって紙切れ審査だけで研究対象から除外するというのはいかがなものかな。

 

 

サンライズ
 


前日、長男次男の合同結婚式を無事納めさせていただき、一夜明けて、仙台のご家族を引き連れて、いざ、京都に向かった。

 

ご家族は、滋賀も京都も初めてのことで湖西道路を経て一路京都へと。

 

ご家族の希望で、ます初めに日本仏教源流の天台宗の三十三間堂と真言宗の東寺に向かった。


駐車場料金と拝観料をしっかりとお支払いして、両寺を参拝させていただいた。

 

その後、集中豪雨に見舞われつつ、溺れるような雨の中、新婦ご家族菩提寺のご本山西本願寺に辿りついた。

 

丁度、お昼になったので本願寺門徒会館の地下食堂でお昼をいただくこととした。

 

 

一段落して、仙台のご家族から質問をいただいた。

 

『なぜ、この京都の一等地で駐車場が無料なのか?』だった。

 

すかさず、応えた。

 

『真宗のご本山では、参詣者から参拝の為の付随経費を戴くことはない。これは、東本願寺も興正寺も、我が本山佛光寺も然りだ。』と。

 

つまり、真宗は観光を目当てにしているのではなく、参詣を目的にしているということを力説させていただいた。

 

また、併せて『このお寺は、おみくじ、お守りはどうして売られていないのか?』というご質問をいただいた。

 

そこで、真宗の教えは、『我身の生き様を問うことを旨とし、他の何かに責任転嫁できない自分自身に目覚めることである。』と応えさせて戴いた次第である。

 

しかと、ご納得いただいた次第である。

 

 

サンライズ


いよいよ明日は息子二人の合同結婚式だ

 

目下、五色幕、仏旗、毛氈、雄蝶雌蝶など、色とりどりの設えに追われている。

 

 

6月のある日、どこからからともなく珍客がお祝いに訪ねてきた。

 

放置すれば絶命するような子猫だ

 

可哀想なので面倒をみることに決めた

 

『ネズミ』という名前も好きだが、6月なので『ムー』と名付けたやった。

 

『ムー』よ、祝福をありがとう。

 

元気に育ってくれたまえ

 

 

サンライズ


来週の土曜日は、長男次男の合同結婚式だ。
 
我が子ながら今の幸せ一杯の姿を見ていると、若い頃を懐かしく想い出すものである。
 
当時、勤務していた済生会病院から北川さんという上司を主賓としてお迎えした。
 
四半世紀仕えたが信楽高原鉄道列車事故が起こり、被災者及び遺族救済のために身を投げ打って済生会を辞められた方だ。
 
その方の祝辞は、今でも忘れることができない。
 
『このようなおめでたい席で好ましくない事を話すかもそれませんがお許しください。』から始まった。
 
それは、様々な人間関係の中で、家族という関係を考えてみると、親子・兄弟・夫婦とあるが、選び、選ばれることのできるのは夫婦だけであると。
 
しかも、その結びつきは、地球上の人口から勘案するに32億5千万分の1の出会いであると。
 
まさに、『出会いは偶然、別れは必然』と仰った。
 
いかに愛(いと)しく思っても、いずれ別れは必ずやってくる。
 
その時に『貴方に出会えてよかった。ありがとう、おかげさま。』といえる人生を歩んでいただきたいと。
 
『身は何時か何処かで滅ぶ。その時におかげさま。ありがとう。』と言い合える人生は、何ものにも代え難いと。
 
折しも先日、市川海老蔵の嫁(小林麻央)さんが34歳という若さで亡くなられた。
 
『来世も、来々世も一緒にいよう。』という海老蔵さんのプロポーズに、がんと戦いつつ、決して逃げなかった麻央さんの手記が海外で炎上しているとのこと。
 
お釈迦さまは、『人生は苦なり。』とお説きになり、その苦悩の根源は、他ではなく私の心であるとお諭しくださった。
 
人生の節目において〝おめでとう〟と言われた瞬間から、新たな苦悩が始まるのである。
 
自分にとって愛しく、思い通りになってほしい人ほど、実は思い通りにならない。
 
改めて己を省みるに、お互いを拝み合い、助け合っているかといえば、決してそうだと言い切れない己の姿に気づかされる昨今である。
 
 
サンライズ

最近、冨に不器用さが目立ってきている。

 

そこそこの自信はあったのだが。

 

『あなたそんなに短気な性格だったの?』と坊守に言われるが、もともとは短気ではない。

 

今までスムーズに出来ていた事がうまくいかなくなってきているのだ。

 

視力が劣化した上に慎重さが欠け、逆に横着さが荷担しているのだから最悪だ。

 

先日から二回も指を切ってしまった。

 

病院に行けば、恐らく2~3針は縫われるだろう傷だ。

 

わずか2針程度の縫合にキシロカインを3~4箇所も注射されるのが解っている。

 

生(なま)で縫われるよりも注射の方が回数が多く痛いので病院行きは止めた。

 

しばらく流血させて消毒後、圧着テープで縛っておいた。

 

現在、見た目は綺麗に治っているが、末梢神経だけはぴりぴり疼いている。


息子達の結婚式にうまくギターが弾けるかな。

 

年とともにもう少し丁寧に生きなきゃいかん。

 

ひたすら反省の日々が続いている。

 

 

サンライズ

この5月13~14日に自坊の報恩講法要を営ませていただいた。

 

お迎えした布教使は元本山総務の岸本秀一氏だ。

 

でも、俗世間では彼のことを『唯の酒飲み』と言う。

 

ん~、こんなことを書いて良いのかな?

 

でも、本山佛光寺布教師会の会長である。

 

彼は、『先生』とか『お師匠』という紹介を最も嫌うお一人だ。

 

所詮、人間というのは、自身も含めていいかげんなものでしかない。

 

つまり、『貶められてなんぼの世界』である。

 

しかし、貶め方が問題なのだ。

 

つまり、『前世、祟り、罰(ばち)』という次元の低いものではない。

 

表現方法は異なっているものの、つたない経験の中で説いてきた愚僧の思いは寸分の違いも無く、確信を得ることができた。

 

これはこれでありがたいこと。

 

しかも、真の確信は布教ではなく一杯飲み席でだ。

 

凡夫が救われていくであろう課程を語り合う中で、如来の本意を互いに共有できた。

 

まあ、これから愚僧がどう解釈を重ねようが、如来の本意は不変である。

 

凡夫には、角をへし折るべく、ある種の快い貶めがあってもよい。

 

その感性を味わえないのはつまらない人生でしかない。

 

自分の本当の姿を知れば自ずと手が合わするに違いないのである。

 

人間、感性もあると思うが、『貶められてなんぼやねん』ということだろうな。 

 

 

サンライズ


ご恩という言葉は、『恩に着る。』とか、『あなたの御恩は一生忘れません。』などとよく使われている。

 

仏教では、自分が被っている恩恵に感謝することを仏恩という。

 

つまり、すべての営み、はたらき、願いである。

 

そこで、恵みを受けることを「受恩」といい、恵みを受けていることを自覚することを「知恩」という。

 

すなわち恩という大元はすべての恵みなのである。

 

恵みを受けているにも拘わらず、それに気付かないこと、また、恵みに報いようとしないことを「恩知らず」と言う。

 

仏恩という言葉を直訳すると阿弥陀如来のご恩ということである。

 

では、阿弥陀如来とは何ぞやということになる。

 

簡単に申せば、私を私として成らしめようとするすべてのはたらきの姿だと思う。

 

そもそも、『恩』という漢字は、『因』の下に『心』と書く。

 

因とは、起こりであり、元という意味がある。

 

因によって心が動かされていくからこそ『恩』という文字が作られたのだろう。

 

しかし、その恩は仏さまの側に留まっていてはならないと思う。

 

つまり、私に差し向けられたご恩なのであって、対象は私自身ということである。

 

『恩に着る。ご恩に預かる』ということは、『そのご恩を有り難く受け止める。』という心が伴ってはじめてご恩となる。

 

その機は、自分自身だということを忘れてはならないな。

 

サンライズ
 


昨日は、母の訪問診療の日だった。

 

坊守が仕事だったので、対応は愚僧に任された。

 

定刻となり、先生は看護師と事務員を携えてポータブルの超音波診断装置をもってきてくださった。

 

ゼリーを塗ってお腹を中心に丹念に診てくださった。

 

そして、『何も異変はありません。少し、ガスが溜まっているので、お腹を「の」の字にマッサージしてください。』とご指導くださった。

 

その後、明後日の年忌参りの準備をしていたところ、坊守が帰ってきた。

 

開口一番、『お母さんのエコーどうだった?』と聞かれたのだが、愚僧は『お母さんの回向どうだった?』に聞こえてしまったのだ。

 

すかさず、『回向は、まだ早いわ!』と応えたが、しばらく会話が成り立たず、怒られてしまった次第である。

 

お互いに少しの言葉の付け添えが大切だと感じた次第である。

 

 

サンライズ


本日もお朝事の後、静寂な思いの中で深い瞑想にふけっていた。
 
というのは嘘で、高校野球をテレビ観戦していた。
 
すると、いきなり非通知の電話がかかってきた。
 
しょっちゅうお寺はこのありさまだ。
 
すでに、非通知ということだけで相当怪しい。
 
いきなり、『ご住職は、おられますか。』ときた。
 
『私が、住職ですが、何か?』と応答すると、『実は、仏教の根源とも言える凄いのを提供していますが、如何でしょう?』ときた。
 
『では、その凄いといのは何ですか?』と聞くと、『仏教の根源です。』ときた。
 
よく聞くとお釈迦様の誕生仏のことだった。
 
釈尊の誕生は、『尊いこと!』と認識しているが、イコール、凄いことではない。
 
人間である以上は、誰にでも誕生日はある。
 
 
そう考えると、釈尊誕生の四月八日が近づいてきている。
 
では、『根源って何?』と聞くも的を得た返答はなく、単に仏像を売りつける話に変わっていったので少しからかってやった。
 
 
『ところで、あんた四月八日というのはどういう意味があるのか知っているか。』と聞くと知らないという。
 
『よく聞けよ、関東弁で四月八日(しがつようか)は、”火が強か(しがつよか)”という意味がある。七輪でサンマを焼いて、真っ黒焦げになった状態のことで、もう元には戻らん。この一連の様を関東では”オシャカ”と言うんだ。』と。
 
その後のやりとりはご想像にお任せするが,『その仏像を入手したところで、私は何もも変わらん!』と一喝させてもらった。
 
だんだん、付き合うのに草臥れて、『うちは真宗寺院であり、凄い物はいらんからありがたい事を大切にしている。』と返したところ、『大変、失礼しました!』と受話器を置かれた。
 
失った五分間を返してくれ。
 
 
サンライズ