ひのきょうのブログ -37ページ目
連休中にいただくお食事というのは、地元のお祭りというのもあってご馳走が並ぶ。
特に揚げ物が多い中、昔ながらの筍の煮物や手こね寿司はとても懐かしく味わいがある。
昔、婆さんが「祭り、祭りと待つのが祭り、後の御縁が何になろ。」と口ずさんでくれたものだ。
『祭り』と『待つ』を掛けた一句で、今でもこの一句は忘れない。
お祭りによって、平素の過酷な仕事を忘れて有頂天になるのもよろしいが、終わってみれば、その御縁というものを自分なりに「どう頂いたのか?」ということだろう。
つまり、「その瞬間、その刹那を大切にしなさい。」ということである。
そこには、「勿体ない。忝(かたじけ)ない。有り難い。」という感謝の言葉しか見当たらない。
動機や理屈はさておいて、今を生きられる私がありがたいのである。
生かそうとするすべての願い、営み、はたらきに感謝せずにはいられない。
サンライズ
GWもアッという間に終わってしまった。
楽しい時間ほど過ぎ去るのは早い。
同じ時間であっても心の加減で異なるものである。
そして、今日は、孫が散らかしたオモチャの整理だ。
自分の後片付けは邪魔くさいものだが孫のは別である。
これも、心の加減一つで異なってくるのである。
サンライズ
来る5月23日(土)には、滋賀 南教区において法話会を開催する。
前回はお通夜の想定法話だったが、今回は中陰(故人の死後49日間)中に行う想定法話だ。
僧侶なれば、資格の有無に拘わらず、それ相応の法話ができて当たり前なのである。
そして、僧侶全員で評価し合う。
お話の導入から核心、間合い、滑舌、長さなどについてである。
この想定法話会には一般のお同行にもご聴聞をいただき、無記名のアンケートを求める。
これが一番ありがたく、また、肥やしにもなる。
つい、聞き慣れない専門用語を並べても、僧侶同志ではそのことに気付かない。
よく、やってしまうミスだ。
また、いくらお話の内容が長けていても、『しんどいなあー。』とか、『早く終わらないかなー。』と思われたら最後である。
実際には聴聞者の中に他宗派の檀信徒さん方もおられ、すべて仏教徒とは限らない。
法話は真宗教義を弘めるチャンスでもあるが、間違えばピンチにもなりかねない。
愚僧は、平素の法話でも質疑応答があっても良いと思っている。
拙寺の聞法会はいつもガチンコなのだから。
さて、どうなることやら楽しみだ。
サンライズ
昨日は中主仏教会の視察研修だった。
二年に一度の研修で、管内43ヶ寺のうち31名の僧侶および寺族が参席した。
例年に倣い、午前中は寺院参拝研修、そして午後は周辺のエキスカーションである。
今回は京都の西山浄土宗総本山の光明寺参拝後、京都市内の高瀬川二条苑で昼食。
紅葉参道をくぐり抜け閑静な趣の阿弥陀堂、御影堂、釈迦堂を参拝させていただいた。
そして午後は、京都水族館の見学となり、ほろ酔い加減でイルカのショウを見せてもらった。
イルカは非常に優れた頭脳の持ち主といわれ、見事に調教(?)されていた。
暫く腰を据えて見ていたが、ショウをイルカが先先に催促しているようで人間が調教されているような感じがした。
調教しているつもりが実は調教されているのである。
人間が意識することをイルカにさせているのではなく、イルカが観客に『見せつけてやっている。』という感じだ。
つまり、よくある話だが、『させているつもりが、実はさせられている。』のである。
私達人間は、眼球より入ってきた光の屈折を己の脳で具現化して見識している。
たまたま、一人二人と同じ映像を共有して『見えた』と認識しているに過ぎない。
したがって、有るがままの真の姿は誰も見えないのかもしれない。
サンライズ
先日、近所の娘さん二人が早朝から本堂の掃除に来てくれた。
まあ、めったに無いことだが、午後からそこのお家の法要が勤まるので当主が差し向けたのである。
二人で楽しそうにお話しながら懸命にお掃除に没頭している。
お正面の階段や縁などの掃き掃除から雑巾掛けである。
参詣してくださる方々のためを考えると本堂正面が中心となってしまい、どうしても両端はなおざりになってしまう。
そこでアドバイスをさせていただいた。
『昔、デートの前に息を吹きかけて車を磨く若者がいた。しかし、ボンネットを開ければ泥だらけだった。』と。
お掃除とは、他人(ひと)のために行うものではなく、自分のためのお掃除である。
見えない所や使用しない所もお掃除の範疇なのだ。
つまり、他人事ではなく己の問題なのである。
因みに、昔、息を吹きかけて車を磨いていたというのは、何を隠そう若かりし頃の愚僧自身であった。