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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


連休中にいただくお食事というのは、地元のお祭りというのもあってご馳走が並ぶ。

特に揚げ物が多い中、昔ながらの筍の煮物や手こね寿司はとても懐かしく味わいがある。

昔、婆さんが「祭り、祭りと待つのが祭り、後の御縁が何になろ。」と口ずさんでくれたものだ。

『祭り』と『待つ』を掛けた一句で、今でもこの一句は忘れない。

お祭りによって、平素の過酷な仕事を忘れて有頂天になるのもよろしいが、終わってみれば、その御縁というものを自分なりに「どう頂いたのか?」ということだろう。

つまり、「その瞬間、その刹那を大切にしなさい。」ということである。

そこには、「勿体ない。忝(かたじけ)ない。有り難い。」という感謝の言葉しか見当たらない。

動機や理屈はさておいて、今を生きられる私がありがたいのである。

生かそうとするすべての願い、営み、はたらきに感謝せずにはいられない。


サンライズ


GWもアッという間に終わってしまった。

楽しい時間ほど過ぎ去るのは早い。

同じ時間であっても心の加減で異なるものである。


そして、今日は、孫が散らかしたオモチャの整理だ。

自分の後片付けは邪魔くさいものだが孫のは別である。

これも、心の加減一つで異なってくるのである。


サンライズ

来る5月23日(土)には、滋賀南教区において法話会を開催する。

前回はお通夜の想定法話だったが、今回は中陰(故人の死後49日間)中に行う想定法話だ。

僧侶なれば、資格の有無に拘わらず、それ相応の法話ができて当たり前なのである。

そして、僧侶全員で評価し合う。

お話の導入から核心、間合い、滑舌、長さなどについてである。

この想定法話会には一般のお同行にもご聴聞をいただき、無記名のアンケートを求める。

これが一番ありがたく、また、肥やしにもなる。

つい、聞き慣れない専門用語を並べても、僧侶同志ではそのことに気付かない。

よく、やってしまうミスだ。

また、いくらお話の内容が長けていても、『しんどいなあー。』とか、『早く終わらないかなー。』と思われたら最後である。

実際には聴聞者の中に他宗派の檀信徒さん方もおられ、すべて仏教徒とは限らない。

法話は真宗教義を弘めるチャンスでもあるが、間違えばピンチにもなりかねない。

愚僧は、平素の法話でも質疑応答があっても良いと思っている。

拙寺の聞法会はいつもガチンコなのだから。

さて、どうなることやら楽しみだ。


サンライズ


昨日は中主仏教会の視察研修だった。

二年に一度の研修で、管内43ヶ寺のうち31名の僧侶および寺族が参席した。

例年に倣い、午前中は寺院参拝研修、そして午後は周辺のエキスカーションである。

今回は京都の西山浄土宗総本山の光明寺参拝後、京都市内の高瀬川二条苑で昼食。

紅葉参道をくぐり抜け閑静な趣の阿弥陀堂、御影堂、釈迦堂を参拝させていただいた。

そして午後は、京都水族館の見学となり、ほろ酔い加減でイルカのショウを見せてもらった。

イルカは非常に優れた頭脳の持ち主といわれ、見事に調教(?)されていた。

暫く腰を据えて見ていたが、ショウをイルカが先先に催促しているようで人間が調教されているような感じがした。

調教しているつもりが実は調教されているのである。

人間が意識することをイルカにさせているのではなく、イルカが観客に『見せつけてやっている。』という感じだ。

つまり、よくある話だが、『させているつもりが、実はさせられている。』のである。

私達人間は、眼球より入ってきた光の屈折を己の脳で具現化して見識している。

たまたま、一人二人と同じ映像を共有して『見えた』と認識しているに過ぎない。

したがって、有るがままの真の姿は誰も見えないのかもしれない。


サンライズ

先日、近所の娘さん二人が早朝から本堂の掃除に来てくれた。

まあ、めったに無いことだが、午後からそこのお家の法要が勤まるので当主が差し向けたのである。

二人で楽しそうにお話しながら懸命にお掃除に没頭している。

お正面の階段や縁などの掃き掃除から雑巾掛けである。

参詣してくださる方々のためを考えると本堂正面が中心となってしまい、どうしても両端はなおざりになってしまう。

そこでアドバイスをさせていただいた。


『昔、デートの前に息を吹きかけて車を磨く若者がいた。しかし、ボンネットを開ければ泥だらけだった。』と。

お掃除とは、他人(ひと)のために行うものではなく、自分のためのお掃除である。

見えない所や使用しない所もお掃除の範疇なのだ。

つまり、他人事ではなく己の問題なのである。

因みに、昔、息を吹きかけて車を磨いていたというのは、何を隠そう若かりし頃の愚僧自身であった。


サンライズ


もうすぐGWに入る。

すると孫達が遊びに来てくれる。

現在のところ男三人だがそれぞれに性格が異なるのが面白い。

まさに青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光だ。

今は小さな花だけれど、いずれは大きな花となろう。


今年の天候は全体に良さそうな予測である。

さて、どこへ連れて行ってやろうか。

しかし、この時期目がけて等しくお出かけタイムとなるから道路はままならなくなる。

この時期故に渋滞は切なく惜しいものだ。

やはり、例年通りのBBQに落ち着きそうかな。


サンライズ

昨日は滋賀大学教育学部の少林寺拳法部にお邪魔してきた。

毎年、この時期に教育学部と経済学部の拳士約100名が石山学舎で合同練習をする。

最早、体力的にも技の指導は困難だ。

昼食後、午後一番の約一時間の法話が愚僧の出番である。

腹が膨れて睡魔が襲ってくる時間帯でもある。

今年で7年目に入り、正直なところネタが底をついてきた。

しかし、真剣な眼差しが貫いてくるから断れない。

流石、将来を担う精鋭達ばかりだ。

テーマは『嘘と真(まこと)』だ。

嘘が嘘の顔をしていてくれれば解り易いのだが、嘘が真の面を被っているからなかなか見破れないという切り口から入った。

就活で忙しい四回生も院生も話を聞きに来てくれた。

ある拳士に、『毎年、懲りずによく来るね。』と聞くと、『先生のお話は今しか聞けませんから。』と返ってきた。

おセイジでも嬉しいではないか。

その子の目は輝いていた。

実に頼もしい一日だった。


サンライズ

やっと、父の預金の整理が付いた。

しかし、時間がかかるものだ。

母も妹も愚僧が相続することを快く受け入れてくれた。

大した預金でもない。

相続とは負債もその範疇である。

行員に聞くと放置する家族も結構あるとのこと。

相続は額の問題ではない。

故人の通帳が彷徨わないようけじめを付けておくことが大切なのである。


サンライズ


最近、家族葬という手法が流行っている。

解り易く言えば、家族或いは親族だけで執り行う葬儀のことのようだ。

昔は『密葬』と呼び、家族・親族の他にも特に故人にご縁のあった方を招待したものだ。


ところが『家族』という名が付くと、その固有名詞だけが一人歩きしてしまう。

従って、地域の方々や友人にはお声が掛からず、焼香のひとつもできない。

生前、故人にも様々な友人がいて、地域社会との繋がりもあった筈だろう。

老人クラブにも所属され、また、願い寺の講中にも所属されていたであろう。

が、しかし、本来読まれるべき弔辞はない。

ただ、故人が知る由もない売名見え見えの地元選出議員と首長からの電報だけが読まれるというギャップは、無性に故人が可愛そうに思えてくる。


本来、葬儀とは『故人の死』というご縁をいただいての儀式である。

『主体性』と『主体者』とを混同してしまうと、『故人の出棺』ではなくなる。

所詮、喪主が決めることだが、違った意味で寂しい気がしてならない。


 サンライズ


久々にご門徒さんの葬儀式をいただいた。

今日はその葬儀式である。

いつも笑顔を絶やさないお婆さんだった。

その笑顔に出遇うとこちらも貰い笑顔になっていた。

家人に聞くと、決して家の中ではそうではなかったらしい。

しかし、それをそのまま鵜呑みにしていいものだろうか。


住み慣れた街、過ごした我が家、家族だからこそ遠慮がいらなかったのではあるまいか。

せめて、家の中ぐらいは息抜きしたいものである。

もう、あの笑顔に会えないのが残念である。


 サンライズ