ひのきょうのブログ -38ページ目
先日、真宗教団連合滋賀支部の引継会に行って驚いた。
何と、初代県支部長は前住職だった。
現在は削られているが、初代支部長のゴム印には父の名がくっきりと刻まれている。
父はそのことを一言も言わず、愚僧も若かったので気に止めていなかった。
まさに、不思議なご縁である。
他にも同じようなことがある。
それは、父が県教委に在籍していた頃、守山北中学校の開設準備室勤務を命ぜられ、守山市役所に約五年間勤務していたことがある。
当時、『教員でも市役所勤務があるんだな。』と思っていた。
ところが、あるご縁で愚僧が民間病院から守山市民病院の事務長職を仰せつかった。
公務員試験も受けず、いきなりの部長級になってしまった。
よもや、市の職員になるとは全くの想定外だった。
そして、辞令公布日には市役所の玄関をくぐり、『そういえば、父もこの市役所に勤めていたんだなー。』と懐かしさを感じた次第である。
時代は繰り返すと言うが、まさに、不思議な廻りあわせだった。
教育職と医療職では接点もないが、見えない糸を手繰っていけばどこかで交わってくるのである。
今でも、その場所に行けば父に出遇うことができる。
サンライズ
先日から、有名な神社仏閣に油かドレッシングのようなものが撒かれるという事件が続出している。
奈良・京都・和歌山に始まり、関東は千葉県にまで被害が及んでいる。
いわゆる、器物損壊だ。
早速にも、市役所の文化財保護課からこの種に注意を促す通達があった。
しかし、当山にはそんなお宝はない。
器物損壊とは、意識的か無意識かは別にして人が成せる行為を指す。
折しも、拙寺の本堂にはアライグマやハクビシンが出現し、強烈な爪痕を残している。
しかし、アライグマが本堂の柱に爪痕を残すのは器物損壊とは言わないのである。
つまり、動物の本能というか自然体なのだ。
市役所に相談するも、『アライグマは鳥獣保護の指定動物』だそうで、『捕獲したら持って来なさい、薬殺する機関に届けます。』だ。
物理的には、油はいずれ蒸発するだろうが爪痕は永遠に消えない。
被害の程度から申せば、爪痕の方が厳しいように思うのだが、何かスッキリしないものがある。
このお話は、今後も爪痕を残しそうだ。
サンライズ
今年から孫がピカピカだ。
頑張って数キロ歩いて小学校に通っているとのこと。
娘は『もっと学校が近いと良いのに・・・。』と呟くが、そのまま鵜呑みにできないものがある。
距離が長ければ長いほど危険も伴うが、その分、収穫も多い。
況してや、四肢の鍛錬にはこの上ない。
先日も、混雑する電車の中で小学生が座れずにいた。
愚僧流に言わせれば、そんなものは可愛そうでもなくば苦労でもない。
言わば試練である。
顧みれば、片田舎の小学校を出て、すぐさま京都の中学校、高等学校と通計6年間通ったが、無遅刻無欠席だった。
これは自慢と言うよりも母の厳しい育み以外に何も無い。
成績は別だったが、体だけは鍛えられたものだ。
危険が伴わない限り子供は甘やかさないというのが鉄則であ る。
すぐに席を譲ろうとする大人を見かけるが、これもどうかな。
老人、妊婦は別だが子供だけは譲れない。
将来を背負っていただくためにも譲らない。
サンライズ
祖母の実家から筍をいただいた。
見事に竹の皮の色に覆われた太い筍である。
しかし、本当の筍は小粒の黄金色が最も美味しい。
生で刺身にしても、そのまま焼いてもいただける。
京都の長岡京あたりから出荷される二月下旬の筍はみんな黄金色だ。
地面に埋もれて太陽光を浴びていないうちに掘り起こして出荷するのだ。
つまり、筍の皮の色が通常の竹の皮の色になってしまえば、既にえぐ味が出てくるからである。
えぐ味が出るということは、安易に動物に食べられないよう身を護っているのである。
ところが、そこに小糠と鷹の爪を放り込んで茹でて、あく抜きをするのだから人間はおぞましい。
大気に晒されていない筍は本当に美味しい。
一 度、ご賞味あれ。
サンライズ
学生時代に少林寺拳法部の師範であった梶原道全師から開祖宗道臣管長の体験談を聞かされた。
ある時、四国の本部道場に、「頼もう!頼もう!」と大声で道場破りがきたとのこと。
道場破りの猛者は、目の前にブロック煉瓦を積み重ねて拳で一撃砕破したとのこと。
そして、「貴方も道場主なら割れるだろう。」と凄んだという。
すると、管長は弟子にハンマーを持って来させ、何無く割って見せた。
猛者は「いや、それは違う。」と言ったそうだが、宗管長は、「いいや、ボタン一つでミサイルが飛び交う時代に、拳で煉瓦を割ったところで何になる。」と一喝したという。
人の手はブロック煉瓦を割るためものではなく、合わせて拝むものであることを諭したという。
その後、猛者は弟子になったとのこと。
サンライズ
春雨が続いていて、今朝も雨だった。
ご門徒さんとの約束で、地蔵菩薩の遷佛法要に参らせてもらった。
真宗では往生即成仏の教えから地蔵菩薩(六道思想)への崇敬の念は持たない。
しかし、当主からの強い依頼があった。
雨のしょぼ降る中、三誓偈を済ませ、座敷で湯茶の接待をうけた。
『ある、拝み家さんに事前に拝んで貰ったところ、「今日の日が良い。」とのことでしたのでこんな日になってしもうてみませんなー。』と言われてしまった。
事前に私の都合を聞きに来られ、今日の日が決まったのではなく、すでに、期日が決まっていたのである。
考えて見れば、愚僧ごときが地蔵菩薩の魂を抜いたり入れたりできるわけもない。
今を生きる当主の心が、少しでも和めばそれで良いのである。
サンライズ
釈尊は「人間は悉く平等であること。」をお諭しくださった。
当たり前のことだが、人間は生まれながらにして「皆悉平等」なのである。
では、「何が平等なのか?」ということである。
不平等なことが平等になったからとて安易に喜べるものではない。
はじめから、人間に都合の良い平等なんてものはない。
つまり、「苦しみの根源である四苦も平等」ということをお諭しくださったのである。
サンライズ
先日、前住職の百ヶ日法要では息子が法話を買って出てくれた。
布教師資格は未だだが、いずれはお同行の前で法を説かねばならない。
凡そ50名の方がご参詣くださった。
タイトルは、『出せなかった賀状』である。
結局のところ、寒中見舞いに替わってしまった。
折角なので、その全文を茲に掲載してみたい。
頌春
~ 歎異抄(たんにしょう)のご真言を仰ぎつつ ~
久遠劫(くおんこう)より今まで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)はすでにすて難く
いまだ生まれざる安養浄土(あんにょうじょうど)はこいしからず候こと
なごり惜しく思えども娑婆の縁つきて力なくして終わる時
彼の土へは参るべきなり
急ぎ参りたき心なき者をことにあわれみ給うなり
あなかしこ あなかしこ
平成二十七年乙未歳 元旦 佛眼寺 杲 昌玄
と記されている。
生前、前住職は、『覚悟はできているので死ぬことは何も恐れてはいない。でも、もう少し皆と一緒に居たい。』と常々語っていた。
サンライズ
昨日はお釈迦さまの誕生日だった。
生まれてすぐさま、七歩進み、右手で天を左手で地を指し『天上天下唯我独尊』と言われた。
この『我』とは釈尊ご自身のことではなく、みんな一人ひとりの人間を意味する。
そして、『いのちを大切にしよう。』という言葉が込められている。
ここで、仏教とその他の宗教について考えて見たい。
その他と言えば、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教などさまざまであるが、信仰の対象がすべて神である。
つまり、絶対神であって人間は神には成れない。
ところが仏教では佛に成ることを目的としている。
成仏という言葉があるように、『佛さまと同じ国に生まれたい。』と願うことであり、その究極は往生である。
往生とは、仏の国に『往きて生まれる。』と書く。
約2600年前、ゴータマ・シッダールタという人間が釈尊という佛に成られたのであるから、私達にもその可能性は残されている。
サンライズ
卒哭忌(そっこくき)とは百ヶ日法要のことである。
言い換えれば、年忌法要の始まりでもある。
しかし、なぜ、卒哭忌と言うのだろう。
『哭(こく)』という語源には、悲しみに打ちひしがれて喚く意味が含まれている。
まさに、主を失った犬が嘆きながら吠えまくる様である。
その頭に『卒』が付いているのだから、そうした状況にけじめを付ける(卒する)という意味がある。
一家の柱を失った家族にしてみれば、そう簡単には仕切り直しできるものではない。
しかし、どんなに厳しい別離であっても、仕切り直しできるのが百日目ということなのである。
つまり、心の切り替えが到来したのではなく、切り替えなければならないという現実に直面しているということである。
そんなわけで、先週の土曜日には父の百ヶ日法要を終えさせてもらった。
聞きたいことは山ほどあるが、最早、及ばない。土地の権利書も何処に仕舞ってあるのか判らない。
しかし、いつまでも吠え嘆いているだけでは何も始まらない。
これも父が与えてくれた試練なのだろう。
卒哭忌を噛みしめながら今を生きなければならない。
サンライス
