ひのきょうのブログ -24ページ目
聞法会の後、ある聴聞者が『お恥ずかしい話しですが、今、如来さまの光を感じています。』と語りかけてきた。
その方は、脳梗塞の後遺症に長い間悩まされておられた。
リハビリのおかげで随分軽快したものの、片腕の麻痺は著しかった。
当初は、『不自由な姿を人に見られたくない。』と、外に出るのも億劫だったという。
しかし、不自由ならがも足だけは動かせた。
何とか自転車にまたがって聞法会に来られたのだ。
それは、『病気になったからではなく、それ以前から如来さまの光に照らされていた。こんな私でも。』と仰った。
この覚めが嬉しくて黙ってはいられなかったのだろう。
智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ
如来の智慧は、光となってあらゆるものを照らすことから無量光という。その光は暁の闇を破るように迷いの衆生を照らし、偏見の智慧しか持てない存在であることを知らせてくださる。
『ありのままの真実の相(すがた)に気付かせてくださる如来さまにすべてを任せずしてどうしておられようか。』ということである。
そして、フラフラと危なかしく自転車をこぎながら帰っていかれた。
いいお話しを聞かせていただいたことである。
サンライズ
久々に湖西道路を選んだ。
時刻は交通ラッシュ極まりない朝の8時だ。
どうしても午前9時半には京都の本山に着きたい。
真野を過ぎて暫く走ると雄琴あたりからとんでもない渋滞に巻き込まれた。
何と、まあ自家用車通勤の多いこと。
しかも、殆どが一人乗りだ。
反対車線はがら空き。
『猫も、杓子も!』と口を尖らせながら反対車線をバックで逆走したい思いであった。
よくよく考えると愚僧も『猫も、杓子も!』の一人に違いなかった。
その、道路を選んだのは愚僧なのである。
サンライズ
本日、ご本山において御正忌報恩講が勤まり、お日中のお勤めに候補衆門徒(長男)とともに参勤させていただいた。
参勤僧侶の数は意外と少なく、20名ほどが左右に別れていざ内陣へ。
内陣には院家柱(いんげばしら)というのがあり、愚僧の寺格では昔はこの柱の後列だったが、今日は上席に座らせていただいた。
本堂は新潟教区からの観光バスによる団体参拝者で満堂だった。
そして、シーンと静まりかえった堂内に直入伽陀(じきにゅうかだ)の発音(はっとん)が響く。
本願寺派の僧侶方も絶賛するほど佛光寺派の声明はすばらしい。
続いて寺族物故者の法要にも参席し、前住職昌玄法師に手を合わせ焼香させていただいた。
ご法話は、『問いを持ち続ける中に本当の応えがある。』というお話しで、言い換えれば、『訪ねなければ応えはない。』というプロ向けのご法話だった。
さて、どう自分と向き合うかな。
サンライズ
例えば、川に落ちて困っている人がいたとしよう。
勿論、可哀想なので助けた。
いつか、己もそんな境遇に陥るかも知れない。
それはそれで尊い行為である。
『助けていただいて、ありがとうございました。』
『いえいえ、どういたしまして。』ですべてが完結する。
ところが、助けた後に、『あれが、これが・・・』と宣う人もいる。
そんな人達は『期待はずれであった』という思いが強いのだろう。
要するに、『何かの見返りを期待していたのでは?』と疑ってしまう。
だったら助けなければ良い。
また、『きっと、何か良いことあるからね。』というのもある。
『きっと、何か良いことが・・・』というのもやはり見返りの期待である。
そして、期待がはずれようものなら、『あんなに親切にしてやったのに!』という愚痴に変わる。
よくよく考えれば、見返り期待の行為ではなかった筈だ。
見返りを期待する思いも、期待はずれという思いもすべて己の都合。
どんなに素晴らしいことを成し得ても見返りを期待するようでは、尊さはその瞬間に消え失せてしまうのである。
そう考えると、お念仏をお称えする行為も同じだな。
サンライズ
ご近所から沢山のお野菜をいただいた。
いただくのが妙に重なるものだ。
次から次へと感謝の連続である。
大根・蕪・壬生菜・白菜にほうれん草など、旬のお野菜ばかりだ。
冷蔵庫に入れておいてもすぐに鮮度を失うので半分は漬け物にする。
漬け方にも色々あって、漬け頃、食べ頃というのがる。
なかなか手が抜けない。
忙しくなりそうだ。
サンライズ
地元産の芋を沢山頂いた。
愚僧は芋が大好きだ。
最近は安納芋という甘い品種もあるが、昔ながらの芋は矢張り美味い。
やたらと甘くなく、ホクホクしている。
少し衣を付けた揚げたての芋天は最高だ。
そして、腸にも程よくやさしい。
芋は植物ファイバーの宝庫だ。
当然、屁の回数も多くなるが、生きている証拠でもある。
最悪の事態に『屁もでんわ!』というのがあるが、『生きている心地がしない。』ということかな。
かつて、高校時代に京都通学していた朝の出来事である。
野洲駅から乗り、石山駅あたりでラッシュアワーの中、従姉妹とともに電車に揉まれていた。
前日、彼は我が家に泊まり、二人で芋天をアホほどいただいた。
そして、大津駅あたりでラッシュはピークとなり、山科駅では駅員がギュウギュウに無理押ししてきた。
全員身動きできない状況である。
従姉妹は石山駅あたりから我慢していたのだ。
東山トンネルを過ぎたあたりで、少し栓が弛んだのだろう。
長らくの我慢に音は『ピッユウ』と高めだった。
そして、みんなの笑いに更に彼の括約筋も弛んでしまった。
『ブフォー』というけたたましい爆音とともに臭臭が漂ったが、乗り合わせていた乗客は誰一人身動き出来なかった。
結局、京都駅に着くまで周辺の乗客は怒ることもできず、全員が『ハア、ハアー』と口で息をしていた。
京都駅に着いた頃、お互いに屁もでなかったが、生きた心地がしたものである。
サンライズ
愚僧が、病院奉職したS48頃のことである。
今は知らないが、当時はお亡くなりになった患者さんに最後のお見送りしたものである。
老衰の方、なす術もなく亡くなられた方など年齢もまた様々であった。
お見送りは、婦長、病棟スタッフの殆どだったが、事務として関わらせていただいた愚僧も端っこにいた。
しかし、そこには最後の脈を取られた主治医の姿はなかった。
現代医学を以てしても力が及ばなかったのだ。
言い換えれば、『死のご縁を授けてしまった。』という反省だったのだろう。
病棟に帰ると主治医は分厚くなったカルテの総括をしておられた。
『先生、人間は死んだらどうなるのでしょう?』と聞くと、『死んでみないと解らないな。』と仰った。
ベテランの老医だったが、流石に科学者らしい応え方だった。
そして、カルテを閉じて静かに掌を合わせられた。
『必然の死の本当の因は、偶然の生にある。 』というのは云うまでもない。
やはり、良識ある医者に看取られたいものである。
サンライズ
ついこの間まで、右足甲部に黒板を落として激痛を訴えていた愚僧。
今はすっかり良くなって痛みもない。
おかげさまで正座も苦にならない。
患部を復元しようとするはたらきに感謝である。
で、何を学んだかと云えば、『横着すると怪我する。』という教訓だ。
つまり、『どうして怪我をしたのか?』という問いかけ(反省)があったからである。
今回は、たまたま黒板を足に落として気付かせてもらったが、わざわざ痛い目をしなくても教訓は存在する。
この、『どうして?』がなければ何度も同じことを繰り返していくだろう。
まあ、ここまでは小さな出来事だが、これを人生に置き換えてみよう。
都合の悪い出来事、不幸な出来事、或いは壮絶な出来事が身近に起きたとしても『問いかけ』がなければ目覚めは訪れない。
お釈迦さまも親鸞聖人も『人生への問いかけ』をなさった。
そして、私達に道理を顕かにしてくださったのである。
未だに、愚僧の問いかけは、『怪我』に過ぎない。
また、いつか、どこかでやっちまうかも知れないな。
サンライズ
サンライズ
最近、『何ということか!』という事件が多すぎる。
何かが狂っている。
己だけ、民族だけのために偏った思想に心血を注ぎ、他をもないがしろにしてしまう。
他がなければ己の存在すらも覚められないくせにとてもおぞましい。
しかも、報復の繰り返しによって正当化しようとしている。
許せない。
仏教以外の教えでは、人間はいかにあがこうとも絶対神には成れない。
神は絶対的存在なのである。
しかし、仏教は佛に成るための教えである。
ここで、今一度、”いのち”のルーツを訪ねてみよう。
”いのち”は『ご先祖(親)からいただいた』とするのが仏教、『神より授かった』とするのが概ね仏教以外の教えと言っても過言ではない。
『神さまのため』ならどんなに恐ろしいことでも平気でやってのける。
ジハード(聖戦)と称し、神のために命を捧げるという勝手な解釈だ。
しかし、真宗の教えでは『仏さまのために』というのは存在しないのである。
あくまで、己が浄土往生を遂げるための教えなのだ。
父母の孝養のためとて、念仏一返にても申したること未だ候らわず
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり
と、親鸞聖人は歎異抄で顕してくださっておる。
つまり、私は亡き父母の追善供養のためのに、一遍も念仏を称えたことは未だかつてない。
なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを繰り返す中で、いつの世か父母兄弟であったということに他ならない。
つまり、浄土往生を遂げるための念仏であった。
『誰のためでもない、己のための念仏であった。』ということである。
そして、『この世で阿弥陀如来に救われ、次の世では仏に生まれ変わって苦悩する人々を救わねばならない。』といただいておられる。
何処まで行っても『救済しかない。』という深い味わいだ。
鬼畜の所作をなりふるまず行う奴等に、『もう少し智慧の勉強をせよ。』と云わざるを得ない。
サンライズ
先日の別院挨拶での一コマ。
いきなり『ご来賓の先生』と紹介されるや、『来賓』とか『先生』という表現が脳裏に焼き付いて、頭の中は速乾セメントに早変わり。
もともと、愚僧は『来賓』でもなく『先生』でもない。
肝心なお話しは度忘れし、どうでもええお話しほどホイホイと出てくる。
そして、『困った年頃だな。』と歳のせいにしてしまうから本当に困ったものだ。
後で坊守に確認する始末。
ところが、『ご院さん、いい挨拶でしたよ!』と輪を掛けてくる。
実は、坊守もしっかりとは聞いていない。
逃げ言葉として、『何はともあれ、』とか『いずれに致しましても、』が出てしまう。
一見、お話しとして繋がっているようだが前述を御破算にする言葉だ。
結局、何のこっちゃさっぱり解らん話しだ。
恥ずかしい限りである。
サンライズ

