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ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


昨年の正月明けのことだ。

今にも死にそうな子猫が縁の下でニャーニャーと鳴いていた。

餌や水を与えても摂らない。

偶然、母親からはぐれたのか、或いは人間世界にもあるように子育て放棄されたのか。

いずれにしても衰弱が著しかったので近くの動物病院に運んだ。

診断では風邪をこじらして命の保障は半々とのことだった。

そして、点滴を施してくださった。

先生は事の経過を聞いて診療費は受け取られなかった。

動物愛護に徹する信念をお持ちの先生だった。

二日後に再診予約し、自宅で様子見することとなったが、翌朝には子猫の息は絶えていた。

本堂裏の空き地に埋めようとしたとき、凄い形相で親猫が睨んでいた。

子猫の母親か?

子猫を探していたのだろうか?

思わず『シイッ』と追い払って土に還してあげた。


しかし、後で何かいらんことをしてしまったような嫌悪感に襲われてしまった。

はじめから、ソッとしておけば良かったのかも知れない。

猫のお葬式は、猫に任しておくべきだったと今も深く反省している。


サンライズ

正月早々、風邪をひいてしまったようだ。

思い起こせば年末から体調は勝れなかった。

目下、喉の痛みが著明である。

あめ玉を頬ばっているようで声までおかしくなっている。

仕方なく、近所の掛かり付け医に診て貰うことにした。

愚僧は、『風邪を引いた模様』と言いたかったのだが、堪えて、喉の痛み、鼻水、くしゃみ、悪寒など出現している症状だけを克明に訴えた。

こうした際に自己診断は禁物である。

病名診断は医師の重要なお役目なのだ。

懐中電灯と舌圧子で喉を診て、『真っ赤ですな。』と仰った。

概ね判っていたが、『先生!診断はどうでしょうね?』と聞いて見た。

すると、先生はニコニコしながら『咽頭炎、気管支炎のようです。』と応えてくださった。

これが、『やはり、貴方が言うように咽頭炎、気管支炎のようです。』では医師の立場はまる潰れとなる。

ひどい患者さんになると、『注射打ってくれ。』とか『薬出してくれ。』と患者側から処方を要求してくるのもいる。

すると、『そんなことは、私(医師)が決めること、余計なお世話だ』と、医師を怒らすことになりかねない。

医師とて人間である。

最後に、『では、お薬を出しておきましょう。』と優しく対応してくださった。

本日の愚僧はとてもお利口な患者であった。


サンライズ

新年明けましておめでとうございます。

旧年中は、実にくだらないブログをお読みくださってありがとうございました。

今年もさらにくだらなくして参る所存であります。

 ” 正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし ”

この歌は、大徳寺第四十七世の一休禅師が元旦に頭蓋骨を振りかざして街中を歩きながら詠ったという。

伝承では、『正月』の句が、『元日』や『門松』もあるようだが意味は同じと言えよう。

当時、戒律の厳しい禅風に対し、在家的、人間的、民衆的な禅風を弘め、世間に惑わされることなく独自の生き方をされた禅僧である。

正月が訪れる度に、誰も彼もが『おめでたい!』と浮かれているが、間違いなく死に近付いていることを示唆している。

一般的には『年が変われば何か良いことが起きるのではないか』という素朴な期待が込められている。

しかし、仏法を聞かずして何が変わろう。

人生はすべて夢まぼろしの連続なのである。

どんな人間もひと皮むけば骸骨でしかない。

どんな二枚目でも美人でも、死ねば白骨でしかない。

『いづれこうなる前に、早く目を覚ませ』ということなのである。


というわけで、今年の正月はいきなり骸骨から始まりました。

今年も何卒よろしくお願い申しあげます。


サンライズ

思わずブログを二日間、飛ばしてしまうところだった。

12月のことを昔から『師走』とも言うが、普段、走らない師が走るほど忙しいという喩えなのだろう。

勿論、愚僧は師でもないが、毎日が走るほど慌ただしくなってきているのは事実だ。

『忙しくない』ということは、ある意味ありがたいことだが、『忙しい』ということも逆にありがたいのである。

愚僧が日を追うのではなく、日が愚僧を追うことがありがたいのかな。

でも、これで心が安まる訳でもない。

本日、若い子達にお話しする機会を与えられた。

彼等は意気揚々とした眼差しで聞いてくれた。

文明は科学の進化と共に便利さをもたらした。

時間も短縮された。

画面に向かえば何でも解答してくれる時代となった。

しかし、そこには勝ち組、負け組も出てくる。

現時点での残酷な結果である。

他愛もないところで一喜一憂しているだけなのかな。

『安堵』というのは、どこにあるのだろう。


サンライズ

本日、ある方の死を耳にした。


故人は三十代半ばから俗世間を逃れ、最後は行路病人で亡くなったという。

近くのコンビニ駐車場で63歳で命終されたのだ。

もよとり、故人は器用人で在来工法の大工だった。

父のために実家の増築をも手がけた心優しい人物であったという。

ところが、些細な事で父と仲違いし、兄とも音信不通となった。

父が他界した後、兄はこっそりと捜索願を出していた。

警察では判明していたようだが当人の許諾がなかったために明かさなかった。

つまり、個人情報保護法に抵触するからである。

そして、最後まで実家の近くを彷徨っていたのである。


過去に故人は酷く兄を冒涜したとのこと。

こんなことは何処にでもあるお話しだ、

やはり、本心は生まれ育った家に帰りたかったに違いない。

兄は唯一の肉親であり、心では許していた。

最後まで実家の付近をうろつきながら、く隣り町のコンビニで一人寂しく命終した。

故人の兄に申し訳ないという頑固な性分が禍したのだろうか。

糖尿病をこじらせて敗血症を患っていたとのこと。


翻って見るに、ケースは様々としか言いようがないが、何ともならなかったのだろうか。

切ない時世を感じざるを得ない。  


サンライズ


明後日の27日は父の命日である。

遺族としては壱周忌よりも命日の方が身に浸みる。

言わば、壱周忌は外向けの法事だが、命日は内なる意味が深い。

昨年の今頃、家族は看病に疲れきっていた。

しかし、最も憔悴していたのは当人であったに違いない。

意識混濁の中、耳だけは確かだった。

命終の数秒前まで顎で頷いていた。

最後に家族全員で御礼を申しあげたのが昨日のようである。

『お父さん、お爺ちゃん、ありがとうございました。』と。

そして、父の書斎からは『形見として渡してくれ!』と言わんばかりに、数百本近い筆と沢山の白檀の数珠玉が出てきた。

壱周忌には参詣者に筆を二本づつ供養分けさせていただいた。

上手く書けるかどうかは腕次第だ。

来年は白檀数珠を供養分けさせていただこうと思う。


サンライズ


昨日は、少林寺拳法滋賀守山道院の坊年会だった。

毎年、この時期に催されている。

今年は、守山市内の焼き鳥屋だった。

ろくすっぽ練習も行かない愚僧だが、必ず声を掛けてくださるのはとてもありがたい。

田尾道院長を筆頭に拳士が一同に会した。

そう、田尾と言えば、あの中日、阪神球団で大活躍した田尾選手の従姉妹さんだ。

でも、顔はあまり似ていないので想像にお任せしておこう。

さて、少林寺の拳士達には独自に僧階が与えられており、金剛禅総本山少林寺に属する坊主ということである。

懐かしい顔が揃っていた。

高齢者の殆どは練習には行かずともこの坊年会だけは参加してくる。

開院当初から道院長を支えて頑張ってきた猛者どもばかりだ。

自身で言うのもどうかとは思うが、愚僧もその一人にカウントされているのだろう。

学連拳法を卒業し、当時、県内の老舗道場を2~3見学させて頂いたが、やはり田尾師範の技だけは本物だった。

最後に道院長から『技はもういいから、法話に来てくれ。』とせがまれてしまった。

みんな、みんないい面構えをしていた。


サンライズ


父の壱周忌の日に、本山から辞令が届いた。

今年に引き続き、来年も正月早々から本山でのお茶所布教だ。

これまた不思議なご縁である。

お朝事(晨朝)勤行に続いて7時30分から約30分間の布教だ。

十日間で締めてネタ十本。

さあて、何をお話しするかな。

まあ、この一年間の恥かき話しでもさせていただこう。

メインタイトルは『お念仏のこころ』でいこうかな。


サンライズ


小学校六年生から一人でご門徒さんのお参りをしてきた。

それは、中学二年生の頃だった。

勤行を始めるや否やお隣さんと会話をしている方がおられた。

ボソボソなら許せるが、大きな声が絶えることはなかった。

通常なら、そこそこで止めるのが普通だが、最後まで賑やかに会話しておられた。

愚僧は、『他の方々に失礼だ』と思い、お経を中断し、振り向いて、『そこのお二人、!静かにしなされ!』と質してあげた。

社会の大先輩であろう方々が、たかが中学二年の若僧に一喝されたのである。

こちらも真剣に読経している。

『聴く側も真剣に取り組んでいただきたい』という思いから注意を促した。

考えて見れば、『あんた、ええ歳してここに何しに来やはったん?』ということである。

お二人は何も反論されず、以後、静かにされた。

それ以降、『佛眼寺の若僧はきつい。』という噂が広まってしまった。

これは、噂ではなく事実なのだからどうしようもない。

暫く、愚僧は町内で有名になってしまった。

今も参詣者は静かに参詣されている。


サンライズ

最近になって、また『生活改善』という言葉をよく聞く。

改善という意味は、『善きに改める』ということ。

つまり、日常の生活を善きに改めるということだ。

善に改めるということは、過去は悪だったのか。

では、善きとは、悪とは何ぞやである。

しかも、その対象は誰なのか?。

世間様なのか、自分自身なのか。

かつて、ある長老が他所の仏事に際し、食事提供を無駄と考え生活改善という言葉を装って提唱され続けていた。

ところが、『わしが死んだときは地元の野菜や野洲川で獲れたジャコの料理を供えて、参詣者にも振る舞って欲しい。』と遺言されて亡くなった。

つまり、『私以外に成す行為は無駄だけれども私だけは無駄ではない。』という独善的論理だ。

まあ、正直な人である。

『皆さん、質素にやりましょう!』というのはよく解るが、『私は別』というのはこれまた凄い発想である。

その後、遺族は年忌法要を、『おやじの遺言通りにやるべきか、やるべきでないか。』を考えたという。

結局のところ、『私自身の問題です。』と明かしてくださった。

そして、外食せず自宅で質素なお弁当に郷土料理をご提供くださった。

まあ、己の都合に生きることが凡夫の姿なのである。

だから、お浄土往きは間違いないと言えよう。


サンライズ