愚僧が地元の病院に就職した頃、いつも診察に来る度に、総合受付で愚僧に向かって手を合わせてくださるお婆さんがおられた。
その方は、佛光寺派の元ご住職で、戦争未亡人として苦労なさった女性僧侶(尼さん)である。
当時、診察に来られる度に、愚僧に向かって『なまんだぶつ』と拝まれるので、素直に『ありがたい』というよりも、恥ずかしいやら、照れ臭いやら、正直『お婆ちゃん、勘弁して!』と、一刻も早くその場から離れたい、逃げたいという思いだった。
親鸞聖人のご和讃に
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
とある。
慈悲と智恵の光明は、ひとたび摂め取ったならば、決して捨てることがないというはたらきを意味する。
しかも、その光明は、真実の世界を求める者だけではなく、むしろ、真実に背いている者こそ救わずにはおれないという大慈悲心なのである。
思い起こせば、親鸞聖人のご注釈にもあるように、逃げようとする愚僧を追いかけ、つかまえようとする”はたらき”だったのではないかといただいている。
このお婆さんは、誰にでもそのような仕草を振りまいていた訳けではなく、また、いつも愚僧のことを考えていてくださった訳でもなかったであろう。
ある心優しい念仏者が、たまたま、かかり付けの病院で受付をしていた愚僧を佛眼寺の若僧と知り、将来、同じ道を歩む者同志として、自ずと手が合わさっていたのだろうな。
サンライズ