悩みぬいた後、ある方が職場を去ったという。
理解しがたい苦しみがあっただろうに。
それは、あくまで憶測の域であって当人でしか解らない。
よくある会話に、『あんた、その場にいたの?』というのがある。
仮にその場にいても、当人でない限り計り知れないものがある。
無闇に解ったような振りをするのは禁物である。
そんな時、大切なのは『あなた一人じゃないですよ!』という寄り添いの心だ。
中味が解らなくても、傍に寄り添うだけで充分なのである。
『どうの、こうの』の会話はいらない。
身体の痛みはいずれ消え行くが、孤独という痛みだけはそう簡単には消え失せない。
そんな時、『ごめんね。すまなかったね。』の慚愧(ざんぎ)の心が欲しいものである。
人間と動物の違いを考える時、①言葉が話せる、②道具が使える。③二本足で立つなどと豪語するも、涅槃経(ねはんぎょう)には、ちゃーんと『無慚愧は名付けて人とせず』と記されている。
慚愧を簡単に訳せば『こんな私であったと自らを恥じること』である。
これが無ければ畜生と同じ類(たぐい)なのである。
実は、これらを根こそぎ覆してくれるのが『南無阿弥陀佛』なのだが、肝心な時になかなか出て来ないのである。
これこそ、慚愧なことではあるまいか。
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