ひのきょうのブログ -20ページ目

ひのきょうのブログ

このブログは、滋賀県内の真宗寺院を預かる愚僧のブログです。

このブログで、世の中の道理と無理を顕かにしていきたいと思います。

 よろしければ、ご意見、ご相談などお寄せください。


        なむあみだぶつ ・・・ 合掌


半年ほど前、広島県出身の信者さんからお仏壇の相談を受けた。

昨年家を新築され、『どんなお仏壇を新調すればよいのか?』というご相談だった。

昔は、先ずお仏壇の安置場所を決めてから間取りを考えたものだが、今はその逆だ。

これも時代の流れなので仕方があるまい。

そこで、『ご家族がいつでも安易にお参りできる場所がよかろう。』ということで中サイズのお仏壇を和室に安置されることとなった。

その際、入仏法要の日取りも決めたが、急遽、『日程を変えてほしい。』と連絡が入ってきた。

仏壇屋さん曰く、愚僧に相談する前に拝屋(おがみやさん:風水祈祷師のこと。)さんで納入日や搬入経路まで指示されたようである。

ところが、その搬入経路が一方通行となっていて自宅にり辿り着けず、しかも『逆戻りはだめ』とのことで改めて拝屋さんから別の経路を指示され、入仏の日取りが変更となったのだ。

入仏法要の日取りから搬入経路までお見通しになった風水祈祷師のようだが、搬入経路の一方通行は見通せなかったのである。

一体、何を祈祷されたのかな。

実のところ娑婆世界とはそんなものだ。

阿弥陀さまは、こんな弱い施主でさえも『早く覚めなさい。』と寛大なお心でお迎えくださるのである。

愚僧は苦笑いしながら入仏法要の日を変更した次第である。


サンライズ

平成28年度の聞法会(もんぽうえ)の日程が決まりましたのでお知らせします。

内容といたしましては、昨年からの引き続きで正信偈の解釈です。

 ・ 2 月28日(日)8時より
 ・ 4 月24日(日)8時より
 ・ 6 月26日(日)8時より
 ・ 7 月24日(日)8時より
 ・ 9 月25日(日)8時より
 ・10月30日(日)8時より、続いて境内一斉清掃
 ・11月27日(日)8時より

1月は修正会、3月は本山差向布教、5月は報恩講、8月は永代経の各法要にそれぞれ 充当させていただきます。

12月は師走につき割愛させていただきます。

念珠・輪袈裟ご持参にて、ご近所お誘いのうえお参りください。


サンライズ


土曜の午後に仙台に向かい、昨晩の9時に戻ってきた。

ついこの間まで東北といえば一日を費やしたものだが、今は新幹線で約5時間だ。

俗に言うトンボ返りだ。

しかし、正味数時間の業務でも往復10時間を要する。

仙台駅から徒歩三分にホテルを予約したが、迷って通りすがりの学生に尋ねてみた。

すると、ホテルまで道案内してくれた。

通りすがりさん!!ありがとうございました。

仙台は東京と違って”ケツの座りの悪い都会”ではなかった。

結構、疲れたが内容は濃いものがあった。

これが幸せのトンボになることを念じている。

内容は追々ブログで顕かにしていきたい。


サンライズ



目下、庫裏の普請で荷物の整理をしている。

整理の取捨選択はとても難解である。

中にはお宝に値する物もあるからだ。

仕舞っておいても二度と開封しない物もある。

気持ちよくスッパリ捨てられる人が羨ましい。

結局のところ、汗をかきながら二度と開けない物を仕舞い込んでいるような気がしてならない。

大事な物はごく僅かで、殆どがどうでも良い物ばかりに見えてしまう。

かつて、小児SLE(全身性エリテマトーデス)の専門医であった小児科医師を想い出してしまった。

師はどんなに興味のない患者さんでも拒むことなく診療していた。

『先生の何でも診ようとする姿勢に頭が下がりますわ。』と言うと『何でも診ないことには小児SLEなんて見つかるわけがないですよ。』と教えてくれた。

日本の平均では約2万人に一人の膠原病である。

こうした謙虚な姿勢で臨まないことには見つからない。

まさに気が遠くなるような恒河沙数(ガンジス川の砂の数)の世界だ。

師の言葉どおり、一見、無駄と思えるものも無駄ではないうことだ。

蓋を開ければ、個々の価値観によって無駄と決めつけているだけのことなのである。

無駄を生むのは無駄人であるから。

そう考えると無駄なんてものは何処にもない。

いよいよ、整理する倉庫が無くなってきたな。


サンライズ


親鸞聖人のお言葉に唯(ただ)という言葉が多用されている。

単純に考えれば、値段が”高い、安い、ただ”という額の話しではない。

一般的に、『唯』という言葉の次には『ひたすら』という言葉が続く。

つまり、『身も心も惜しむ邪心が他にまったくない』ということだ。

だから、対価としての価値が唯(ただ)であったという了解は当てはまらない。


この『ただ』が『唯』と知らされた時、はじめて自身が救われた時なのである。

それが御恩報謝の念仏に変わっていく。

『ただ、念仏さえ称えておれば、死んだら救われる』という『ただ』ではない。

『唯』とは信心のことなのである。

『お念仏』は御恩報謝の相(すがた)。

親鸞聖人の教えは信心一つなのである。

それが一念でこの私に知らされる。

歎異抄に出てくる『よきひと』とは善知識のことである。

善知識のお導きによって一念で信ずる外に、儀式もなければ秘密の教えも存在しない。

この『ただ』が大変なのだ。

この『ただ』が「唯」と了解できたなら、國釋大蔵経のすべてを了解したに等しいだろうな。


サンライズ


凡そ一年間を費やして土蔵の中を探しまくった。

目的物は我が家の不動産登記簿である。

幼い頃に『ここ(土蔵)に大事な物は仕舞ってある。』と父の微かな記憶を辿りながら土蔵の中を探し続けててきた。

というのも過去に書斎を荒らされた事がある。

この窃盗事件以降、『大事な物は書斎には置かない。』という父の言葉を信じてきたからである。

その時から、『ここ(書斎)には盗む物は何も無い!』という表示が吊されている。

悔しくて父が書き残したものだ。

しかし、家探ししても出て来なかったあの登記簿謄本が父の書斎からすんなりと出てきたのである。

思わず、『何やねん』と呟いてしまった。

後になり、『臨終の間際に聞いておけば』と思ったこともあるが、当時、聞ける状況ではなかった。

闘病を励ましている最中に到底聞けるものではない。

つまり、聞くということは、『家族が余命を察知している。』と思われるからである。

実のところ聞かなくて良かった。

一緒に未開封段ボールから、溢れんばかりの仏教蔵書も出てきた。

『少しは勉強しろ!』という遺言のように聞こえてくる。

今も書斎には、『ここには盗む物は何も無い!』という表示が吊されたままだ。

盗む気はないが、『もっと勉強しなければ』とありがたくいただいている。


サンライズ


ただ今、受験シーズン真っ直中。

このシーズンになると、不思議と五角形のサボテンがよく売れると聞く。

だいたいサボテンにはトゲがあり、五角形を『合格』と語呂合わせして『合格を遂げる。(トゲル)』とのこと。

また、名古屋の東山動植物園ではコアラの糞を消毒乾燥させ、平たく紙状にして、それに『必勝祈願』と書かれた栞がよく売れるとのこと。

何故、コアラの糞かと言うと、『うんこ』の『うん』に『運』を語呂合わせし、コアラは一日中、木の上で寝ていても滑って木から落ちないそうだ。

つまり、寝ていても落ちないコアラの『うん』のついた栞を持参して合格しようという魂胆だそうな。

藁にも縋りたい気持は解らんでもないが、そもそも、語呂合わせなどというものは根拠が無く、何の効力もない。

神社の駒札を見ていても、『風邪をひきませんように』とか、『努力した者が報われますように』というのはまだまし。

中には、『知ってる問題ばかり出ますように』とか、『ライバルの絵馬を見つけて裏返す』というのもあるようだ。

最悪ともなると、『頭の良い奴はみんな風邪で倒れろ!』というのもあるようで困ったものだ。

『自分の為の祈願ではなかったのかい?』と疑いたくなってしまう。

こんな誤った考え方そのものを、根本からひっくり返してくださるのが『南無阿弥陀仏の教え』なのである。


サンライズ


先日、自動車税の還付の知らせがあった。

約、1万ちょっとの還付だ。ところが今は亡き前住職の名義だった。

地元S銀行とは、過去にも一悶着あったので事前に何が必要なのかを尋ねた。

すると、故人の戸籍謄本と愚僧の本人証明(運転免許証)とのことだった。

S銀行には、昨年、7月に父の口座解約に際し、父の原戸籍を筆頭に母の戸籍謄本、愚僧の戸籍謄本、妹の戸籍謄本など様々な書類を提出した経緯があるので、またしても父の戸籍謄本が必要なのかを確認したが、『これは別件ですから・・・』という返答だった。

何か解せない状況の中、しかたなく書類を揃えてS銀行に向かった。

そこで、戸籍謄本を提出すろと書類を没収することなく一窓口行員が目視確認した後、父の戸籍謄本を返還された。

では、何を確認したのだ。

父の戸籍謄本を見る限り愚僧が実子である証明などどこにも記されていない。

思わず、『確認するだけなら昨年7月に提出した膨大な書類を確認しろ』と言わざるを得なかった。

さらに『あんたおかしいと思わへんか』と聞くと『おかしいと思います』と返された。

『あんたを責めているのじゃない、あんたの会社のシステムがおかしいので上申しなさい』と付け足してやった。

窓口行員は、一定の決められた落ち度だらけのルールに偏って業務遂行しているのだろうが、愚僧は納得できない。

現在でも愚僧はS銀行との付き合いがある。

S銀行は、10年ほど前にも『免許証をコピーする』と言ったので、『あなたが免許証を確認すればいいのでは?』と具申したが、『コピーしなければならないルール』だといったことがある。

では、『「コピーによって生じた一切の責任を負います」という証明書を発行しろ』と言ってやった。

当時は免許証のコピーでサラ金が借りられたからだ。

当時、この件はS銀行本店にまで具申した。

以後、ばかげた事を言わずに今は確認のみで済んでいる。


つまり、一窓口行員を信用していないのと同じである。

今回も言ってやった。

『あんた、このルールおかしいと思わないのか?』と。

『いいえ、すみません。そのように言われていますから・・・』だった。

でも『上司を呼べ』と言いたかったがグッと抑えた。

誰が考えても『おかしいことは、おかしい。』と言える会社でなければ発展性は極めて乏しい。

今もS銀行とはお付き合いしていく予定だが、次回から、S会社の行員が自宅に来る度に、いくら顔馴染みであっても『これは別件ですから』とS銀行の職員である証明書を毎回提出頂こうと思っている。


サンライズ


先日、佛説無量寿経の講義を受けた。

佛説無量寿経中に『無量寿佛の光明』が説かれている。

その光りは十二種あって量り知ることができず『無量光』という。

正信偈の前段にも記されている光だ。

つまり、闇の煩悩を照らす光といえよう。

しかし、経中では『その光りを聞く』という表現がなされている。

師は、『光りを聞く』意味について説明された。

光りを見るのは”眼”であって、聞くというのは”耳”である。

では、『光りを耳で聞く』ということか?

そこで、ある受講者からヒントが出た。

受講者と言えども皆学者である。

『ヘッドライトを装着し、真っ暗闇の洞穴に入った時、ヘッドライトが壊れてパニックになった。』とのこと。

その時、『どこからか水の滴り落ちる音が聞こえてきて、心が和らいだ。』とのことである。

暗闇の中で光りを目で見ようとしても見えないが、耳で感じることはできるということだ。

更に別の人も仰った。

『闇という字は門構えに音だから、光りは耳で音を聞くことなのかも知れないな!』と。

物理的な明るさの中に浸っていると、『本当の光りと闇』の実態が見えないのかも。

今や、”眠らない町東京”と言えば、落日しても闇がない状況だ。

物理的な光がどれだけ明るかろうが、心の闇を照らすことはできないということを物語っている。

先天性脱疽で四肢を切断された中村久子さんとヘレンケラーの対話の中で、中村さんが、『三重苦のうち、何が欲しいですか?』と尋ねた。

すると、ヘレンは『耳(音)が欲しい!』と言われたのである。

改めて、阿弥陀仏の十二の光りを味わって見る必要があるな。


サンライズ


古来より、『子を持ってはじめて親となる。』と言うが、果たしてそういうことなのか。

物理的にはそういうことなんだろう。

でも、これだけなら猫も犬も同じである。

問題は、その自覚なのだ。

では、『自覚とは何ぞや!』ということ。


小学生が書いた『トマト』という詩をかい摘んで紹介しよう。

『お母さんが作ってくれるお弁当のトマトはいつもぐちゃぐや。
でも、料理の時間に僕がトマトを切ったら、もっとぐちゃくちゃになった。
お母さんごめんなさい。いつも、ありがとう。』

たった、これだけの詩なのだが、ここには家族の絆が見える。

つまり、『親に申し訳ない。』という心だ。

子は人となり、親はこの詩を読んで親となれる。

ここに、はじめて本当の親があり子がある。

『兄貴にすまない、妹にすまないことをした。』ということがあって、はじめて兄も妹もある。

もしも、そういう心がないのなら、父母も兄弟も無いのと同じ。


ある方が『人間らしさ』について、こう語っていた。

 『旅行に行って、素晴らしい光景を見た時、あの人も連れてくればよかった。』 そして、『お父さん、お母さんにも見せてあげたい。』と思えてくるのが人なんだと。

昨今、平気で親が子を、子が親を殺める事件が多すぎる。

こんな簡単な道理を、一体、誰が何処で教えるのだろう。


サンライズ