はじめてシャバーサナのとき、なみだが出てきた。

なんか溜まってた気持ち・感情が一気に出てきた。すごい。ヨガってものすごくデトックス。

色々悩んだり思ったり、悩んでる事に悩んでみたり酔ったり、色んなことが複雑になってしまうし、複雑にしてしまうけれど。
本当はすごくシンプルで、ただ自分の直感が正しいと思うこと、自分の本当に好きと思うことを選択してやればいい。
このまえ練習中にふと、
「この体はわたしのじゃないだ」と思った。

どんなに難しいポーズが出来たとしても、「わたしが」じゃなくて何か別のものによってポーズをとらさせてもらっている。と感じた。

私はこの体に生まれてきたけど、みんながもし私の体に生まれてきていたらきっと同じ事ができるんだと思う。
それぞれの学びのために目的にあった体、家族、環境、その他沢山の事を選んで生まれてきたんだと思う。


ヨガってやっぱり内的世界のもの、それも深くてディープで「大いなる意識」を感じずにはいられなくなる。


それと最近、「きょうが人生の最後の日だったら…」と思って過ごすようにしている。
もし最後の日だったら、イライラしたくない怒りたくない。穏やかな気持ちでいたい、皆に優しくしたい。そうすると自然と穏やかにいられる。

何かを選ぶ時も最後の日だったらと思うと、なんと無駄な事がたくさんあるんだろうと思ったり。


リラックス、オープン、エンジョイ!
これに尽きる。
よーきんぐってすごい、シンプルだけど確信をついてる言葉。

ヨガスートラを最近また読み返し始めました。読むたびに理解が深まっている気がします。
こだわりが少しづつ薄れてゆき、怒らなくムカつかなくなっていき、日々の中でヨガの精神?科学?が少しづつ身についてゆくのを感じる。

様々な出来事や人間関係にきちんと向き合ったり、揺れる自分の心を観察したり、相手を思いやることだったり…、日常のすべてがヨガだと思うようになった。

日々色んな感情が出てくるけど、心のもっと内側の静かで穏やかな所にいつも繋がっていて意識すればそこに戻れるようになった。


それと練習を通して理解したのは、いくら他人のポーズ見て羨ましく思っても、痛みのない練習を熱望したとしても、結局向き合わなきゃいけないのは自分の体で、満足できるのは自分の体を通してのみだということ。
それは人生にも同じことが言えると思う。人を羨んだところで絶対満たされないし、やっぱり自分の中にしかないものだから。


意識が外に向いている時は、心は波打ち、求めがちで満たされない感がある。
意識は内に向いて静かで穏やかだけど、ハートは開いてる状態がいぃなー。

週末は少しお酒を飲んだり、夜遊びしたりしたけど、今日からはまた規則の正しい生活を送る。
腰が痛いけど、きちんと練習はしたい。熱中症になりそうになるけど、やっぱり練習がしたい。
たまには遊びたいし、お酒も飲みたいし、沢山ごはんを食べたいけども、少したつとやっぱり朝早く起きて練習がしたくなる。

さいきん、多分…私の感覚だけど胸が開いてきて、すごく内面的に開けてきて、楽しいことがたくさん起こって、たくさんピースフルな気持ちになれる。
前に(前の)ヨガの先生がハートを開いてってよく言っていたけど、ようやく実感として体験できた。

わたしは色々考えすぎて、人付き合いが面倒になってしまったり、話す事が億劫になってしまったり、いつも自分の中だけに留まることが多かったけれど、
考えないで自然の流れに従う方が良い方向にいくものですよね。素敵なビジョンを心に持ちつつね。
腰がいたくていたくて、涙が出る…。。
カポタの破壊力はんぱないのね、あのポーズがただただ気持ちいいって思える日がくるのかしら。

とにかく、アシュタンガは少し休んだ方がいいだろう…けど、なんだかんだでやったりするんだろうけど、セカンドは絶対にやめておこう…。うん。
エカパダの練習が楽しかっただけに悲しいけど、しかたないね。その分スプタクルマを深く組めるようにしよう。

あした病院にいこう、痛すぎて生活に支障をきたしてるし…ガーン


わたしにとってヨガって何だろう…。これの答えは以外と幅広く生活の大半がヨガであり、哲学的な、(心の)科学的なもの。


だけど、わたしにとってのアシュタンガヨガは何だろう、これは難しい。
アシュタンガの作法は時にキツく辛くなり、でも気持ちがよく、1日練習しなかったら詰まる感じがする。
でも毎日朝早く起きて、練習を続ける中で、色んな気付きや学びがあるようなそんな気がする。

少しづつ心の静けさを長く感じられるようになってきた。どうか心が乱れずにどんな時も穏やかな気持ちでいられる自分であれますように。