(今日は「建国記念の日」!生野眞好著『日本国成立の日(スペースキューブ出版)』をぜひご一読ください。)

第四章:日本国最初の「天皇」は、持統女帝

 日本(やまと)の大王(おおきみ)「持統女帝」が西暦690年正月一日(旧暦)、初めて「天皇」を称した。

 持統女帝の父天智は、唯一「(やまとのおおきみ)」から「日本(やまとのおおきみ)」へと「二度即位」した天子だったが、実は娘の持統女帝も父と同じように「日本国(やまとのくに)大王(おおきみ)」から「日本国(やまとのくに)天皇(すめらのみこと)へと「二度即位」している。

 ところが、父天智の場合と同じように、その史実を『日本紀』編者らは直筆できなかった。

 『日本紀』は神武以降すべての「ヤマトの大王」が「日本国天皇」という建前で書かれているため、天智の時に「倭国」から「日本国」へと改号したことや、持統女帝の時になって「初めて天皇という尊号を称した」とは絶対に書けない事情があった。

 そこで『日本紀』は父天智の時と全く同じやり方(春秋の筆法)で、持統女帝に「称制期間」を作りそれを最初に即位していた「日本国王」の在位期間に当て、翌年(即位越年干支法)の年次記事に称制元年の記事「是年、太歳丁亥(ひのとい)」を書き、その四年後には「天皇の位に即く」と書いている。

〇『日本紀』持統紀

 ・朱鳥元年(686年)九月戊戌朔(つちのえいぬついたち)丙午(九日)、天渟中原瀛真人天皇(天武)崩ず。皇后(持統)、朝(まつりごと)に臨みて「称制」す。

 ・元年(687年)~是年、太歳丁亥(ひのとい)

 ・四年(690年)春正月戊寅朔(つちのえとらついたち:元旦)、物部麻呂朝臣(もののべのまろのあそん)、大盾(おおたて)を樹(た)つ。神祇伯中臣大嶋朝臣、天神(あまつかみ)の寿詞(よごと)を讀(よ)む。畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知(いんべのすくねしこぶち)、神壐(かみのしるし)の劔・鏡を皇后に奉上(たてまつ)る。

 皇后、天皇の位に即く。公卿・百寮・羅列(つらなりなら)び匝(あまね)く拝(おが)みて拍手す。

 史実は、686年夫の天武が崩御した直後、持統は自ら「日本国大王(やまとのおおきみ)」に即位し、その四年後の690年正月一日に改めて「日本国天皇(やまとのすめらみこと)」に即位している。

 先の「天智紀」でもそうだが、誰も即位していない元年はあり得ないし、天子がいない期間にその代理の「称制」という職責を置くこと自体あり得ない。

<一、なぜ、持統女帝は「天皇」を称したのか> 

 二つの理由が考えられる。

 ❶唐朝三代皇帝の高宗が一足早く「天皇」を称していた。

 『新唐書』高宗紀によると、長い中国の歴史上で唯一、高宗だけが亡くなる前の十年間だけ「天皇」を称したが、その十年間(674~683年)は、ちょうど天武の在位期間(672~686年)に内包されている。

 中国の天皇皇帝の高宗が亡くなった七年後の690年に持統が「天皇」を称していることは、時間的経緯からみても、持統が高宗皇帝のそれに倣った可能性がある。

 ちなみに、この「天皇皇帝・高宗」以外に、中国では天皇を称した皇帝はいないが、それは朝廷内で皇帝が「天皇」の称号を併せて名乗ることが問題になっていたからだと考える。

 そもそも秦の始皇帝が決めたとされる「皇帝」の尊称自体、「三皇」や「五帝」をも超越した存在として作られたもので、それにも拘わらず「三皇」の一つの「天皇」をあえて名乗ることには多くの異論があったと推察する。

 いずれにせよ、中国では二度と使われなくなった「天皇」の尊称を逆にわが国では「大王」に代わる尊称として使う必要性が生じていたと考えられる。

 ❷持統女帝は、「祟り」から逃れるために「天皇」を称した?

 持統が恐れた「祟り」とは、「大津皇子の祟り」と「伊勢神宮の祟り」だったと考える。

 686年九月に夫の天武が崩じた直後、自分と天武との間に生まれた草壁皇子を即位させたくて、そのライバルだった大津皇子に謀反の罪を着せて(冤罪)自害に追い込んだ。その時、大津皇子の姉で伊勢神宮の斎宮(いつきのみや:祭王)であった大來皇女(おおくのひめみこ:万葉歌人としても有名)までも連座させて解任してしまった。

 このような経緯の中、すぐにわが子草壁皇子を即位させるわけにいかず、ほとぼりがさめるまで自らが(日本国の大王に)即位した。

 ところが、それから三年後の689年四月になってその草壁皇子が薨じてしまった。

 持統は草壁皇子の死を「大津皇子の祟り・伊勢神宮の祟り」と恐れたのだと思われる。

 なぜなら、持統女帝は690年に「三皇」の一つの「天皇」を称し(大王より格上で箔がつく?)、同時に「第一回目の伊勢神宮(内宮)の式年遷宮」を行っている。さらにはこの年「藤原京」への遷都を決定するという歴史的に見ても重大事を立て続けに実行している。

 これらの事は大津皇子の祟りを恐れると同時に、その御魂を「鎮魂」と「厄払い」の意味があったのではないだろうか。

<二、『日本紀』が「持統紀」で終わる理由を考える>

 『日本紀』が成立した720年は元正女帝の御世で、その前の元明女帝と文武天皇の御世も書こうと思えば容易に書けたはずなのに、なぜ、『日本紀』は「持統紀」で終わるのか。

 それは持統女帝の時に「歴史的ターニングポイント」があるからで、つまり「日本国の天皇」という形が完成した時点で終わろうと考えたのではないだろうか。

 逆に言えば、「持統紀」で終わることによって、そこに「歴史的分岐点」があることを示唆し、そこから持統が「日本史上初めて天皇を称した」という事実を教えようとしていると思われる。

 この点、『古事記』も同じで、なぜ『古事記』は「推古紀」で終わるのか。またどうして推古女帝までをもって「古き事を記す」というのか。

 その理由は、聖徳の憲法発布による天子宣言によってその瞬間からわが国は「天子を戴く国」へと国体の大改革が行われたが、その「歴史的ターニングポイント」をもって、「古き事の終わり」としたのだろう。後世の淡海三船が『古事記』最後の天皇に「推古」の諡号を奉ったのも、「古き事の意味を推しはかれ」というメッセージを込めているからだと考えられる。

 天智紀と持統紀だけに、なぜ即位しない「元年」が建てられ、その間を「称制期間」としているのか。それは天智は「国王」から「日本国王」へ、持統は「日本国王」から「日本国天皇」へとそれぞれ二度即位しているからです。

 その意味で、天智と持統父娘は、聖徳と共に現在の「天皇を戴く日本国」の国体を築いた英雄ではないだろうか。

******なんとか「建国記念の日」に間に合った!

自己満足のブログ記事に勝手に締め切り作ってなんの意味があるんかって、一人突っ込み笑い泣き 

毎回、長文の書き込みでしたが最後まで読んでくださった皆さん、ありがとうございましm(..)m