前回は「仲哀紀」や「摂政紀」に書かれている仲哀天皇に関する不審点と生野先生の考察を紹介しましたが、今回はその不審点が示唆する4世紀中盤以降のヤマト政権と旧奴国王族の攻防についての考察です。
生野先生は仲哀の父「手研耳命(日本武尊)」が綏靖に弑殺(下剋上)された後、祖父(神武)と父(手研耳命)の祖国である(九州福岡:香椎宮)に逃避してきたと考察されています。
その時、近畿では綏靖が36年間(320~355年まで)在位し、その後は、神功が近畿ヤマトを再征する(365年頃?)までの「約10年間」は、綏靖の後継者である「誰か」が近畿で「倭王」に立っていたはずで、仲哀は天皇(倭王)ではなかったことになる!
次の表は、神武の没年の実年代318年(ダミー天皇の崇神の没年「戊寅」)を起点として「記紀」の記述(「記」の没年干支、「紀」の即位元年干支)から手研耳命や綏靖、仲哀、神功、応神までのそれぞれの即位・没年を実年代にしたものです。(※下の部分の③④⑤が横向き)・・

生野先生は、この「倭王X」について2015年7月勉強会では景行の御子で成務の実弟である謎の太子「五百木入日子命(いおきいりひこのみこと)」を候補者としてありましたが、12月の勉強会では『古事記』に神武の嫡男と書かれている「日子八井命」ではないかと説明されました。
<五百木入日子命の謎>
➀「太子」の位置にいるのに「記紀」共に「五百木入日子命」の事績が何も書かれていない。
②兄の成務は正妃の記載がなく御子もいなかったのに、弟の「五百木入日子命」は成務没後の後継天皇になっていない。
※『日本紀』は成務に御子がいないことを理由に、日本武尊の御子仲哀(成務の甥)を皇太子にしたと書いている。
<史上から消された神武の嫡男「日子八井命」>
➀『古事記』には、神武の嫡男「日子八井命」の名前は書かれているが事跡はなく、異母兄の手研耳命を弑殺した説話には「神八井耳命」、「神渟名川耳尊」の二人しか登場しない。
②『日本紀』にはなぜかその嫡男「日子八井命」の名前すら書かれておらず、当然事跡もない。
③しかし、神武の嫡男「日子八井命」が実在していたことを暗に示唆する記事が『日本紀』にある。
〇『日本紀』綏靖紀・即位前期の冒頭
・神渟名川耳命(綏靖)は、神日本磐余彦天皇(神武)の第三子なり。
『日本紀』には神武嫡流の御子は「神八井耳命と神渟名川耳尊の二人しかいない」と書かれているのに、二男の綏靖を「第三子」としている![]()
「記紀」は意図的に神武の嫡男「日子八井命」の存在を消そうとしているが、ここには重大な史実が隠されていのではないか?
『古事記』には、神武の時の太子が誰かは書いていないが、『日本紀』には、嫡流の二男「神渟名川耳尊(綏靖:実際は三男)」が皇太子に立てられたと書いている。
ところが、神武没後、手研耳命を綏靖兄弟が弑殺した箇所には、皇太子でもない兄の「神八井耳命」が弟で皇太子の「神渟名川耳尊(綏靖)」に「帝位を譲った」となっている!
どこの世界に皇太子でもない下位の者が皇太子に対して「帝位継承権」を譲ることがあろうか![]()
このことから、綏靖が「皇太子ではなかった」こと、本当の皇太子が神武の嫡男「日子八井命(倭王X)」だったのではないかということが見えてくる。
つまり、「神八井耳命と神渟名川耳尊の二人」で手研耳命を討ちに行ったのではなく、兄弟3人で行った可能性がある。長男と次男が怖気づいて矢を撃てずにいたのを三男の綏靖が討ち果たしたとすれば、長男が皇太子として「帝位継承権を弟に譲った」としても不思議はない。
『日本紀』の手研耳命を綏靖兄弟が弑殺した話は、二男と三男の関係ではなく、長男と三男の話だったのではないだろうか。
また、『古事記』が「五百木入日子命」を「太子」とするのは、そのモデルの「日子八井命」が父神武と弟綏靖が在位していた36年間、ずっと「太子」だったことを示唆しているのかもしれない。
あぁ、長文になりました。
実際の勉強会資料にはこの箇所には6種類の図表が掲載されています。その図表の説明も厄介なので手抜きの概容となりました。
次は、なぜ王位(皇位)が「成務」から「仲哀」へと継承されたのかに関する生野先生の考察です。
雨の日は憂鬱ですが、花粉や黄砂の飛散が少なく呼吸は楽なので一気に概要が書けました![]()



