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生野眞好の日本古代史研究会記録

在野の古代史研究家 生野眞好(しょうのまさよし)先生の勉強会や月刊誌フォーネットに連載中の記事の概要などを紹介しています。
「魏志倭人伝」や「記紀」などの文献史料を中心に邪馬台国の位置、ヤマト王朝と先興の奴国王家との攻防(宗教対立)と共存などの検証です。

 YouTubeの「ゆっくり解説(邪馬台国)」で紹介されていた関川尚功さんの著書『考古学から見た邪馬台国大和説~畿内ではありえぬ邪馬台国』を読了!

 邪馬台国=近畿説が根強い考古学界にあってここまで詳細に考古学的証拠を積み上げて「邪馬台国は畿内ではありえない」と断定した著者に拍手喝采👏アップクラッカー

 邪馬台国に関する私の考古学的な関心は「古墳の形状や大きさ」、「銅鏡と銅鐸」くらいに限られていて「甕や壺」の研究からこんなに詳細な年代や地勢、交流実態が考察出来るなんて、感服しきりびっくり

 欲を言えば「銅鐸」に関しての考察も知りたいところ・・銅鐸を研究すれば銅鏡との相違点、つまり祭器を祀る為政者の姿に気が付くし、「奴国」と「ヤマト」の宗教対立の証拠も見えてくるはずだと思う。

 纒向遺跡と箸墓古墳の関しての考察は生野先生の勉強会資料や著書を読んでいるような錯覚に落ちる。

 著者の関川さんは、「魏志」に「邪馬台国7万余戸」と記述されている点を九州説の難点と指摘されている。

 しかし、それは「伊都国」を現在の糸島市全体と解釈しているせいで、「伊都国」は現在の糸島半島(旧志摩郡:黄色の部分)であり、その南、糸島平野(旧怡土郡:緑色の部分)に倭国の首都「邪馬台国」があったことを理解できれば問題ない。

 生野先生の著書『倭の女王 卑弥呼』のなかに、糸島半島(志摩郡)と糸島平野(怡土郡)の地力の差について、江戸時代の貝原益軒が書いた『筑前国続風土記』の記述に怡土郡は良田が多く筑前国の第一と評価されているとの説明があります。

 

・・・・と、まぁ考古学的が科学的に畿内説を否定したわけだし、あとは文献史学も生野先生が科学的に考察された「三国志東夷伝」に用いられている3種類の行路記述法(直線式・放射線式・国境記述式)が理解されるといいのだけど・・・

 

 

 

 ネットで『ゆっくり解説』という邪馬台国をテーマにしたYouTubeを発見びっくりびっくりマーク

 面白くて立て続けに10本2時間以上も視聴してしまったてへぺろ

 関川尚功氏の本を基本に、邪馬台国=糸島半島説を多角的に説明している。登場人物のアニメの少女3人(霧雨魔理沙・博麗霊夢・魂魄妖夢)がテンポよく説明やツッコミをしていて、地図だけでは単調でわかりにくい内容をうまく紹介してくれる。しかも、アニメ風のちょっと年配者には聞き取りにくい声(セリフ)がすべて字幕で表示されるのでありがたいニコニコグッド!

 同じ「邪馬台国=糸島」説でも細かな部分では生野先生のアプローチとは違っていて、ついつい先生の考察を口走ってしまうけど、全体としてお薦めの動画です!

 この動画の「うぷ様」が生野先生の著書を一読してくれたら、また興味深い視点で邪馬台国論が広がると思う・・・陳寿が東夷伝の行路記述を3つの記述法(直線式・放射線式・国境記述式)で書き分けている事とか、弥生の王墓が糸島に集中していることなんかもっと深堀してくれたら面白いけど・・・

 

 昨日(7/13)BS11イレブンで放送された「偉人・敗北からの教訓」のテーマは聖徳太子でした。

 内容は聖徳の外交交渉にスポットを当てたもので、「最新研究が明かす真実」というサブタイトルがついていました。

 出演者の伊藤潤氏によると、2度の遣随使派遣は隋から見下される結果を招き、またその敗北の原因は聖徳が天皇(大王)ではなかったためと説明ガーン滝汗

 また、なぜ聖徳が天皇(大王)になれなかったのかと言えば、それは推古天皇の嫉妬心・・つまり彼女自身の子どもである竹田皇子が夭折したため後継者にすることが出来なかったという本心があったからとのこと。

 最新研究の結果が「母親の嫉妬心」だとするなら、せめてその考察資料ぐらい説明して欲しいところショボーン

 番組では、隋との交渉は「敗北」したけどその後わが国を律令を基礎とした国家にした聖徳の功績は大きい・・・なんて持ち上げていました。

 

 生野先生は聖徳太子を高く評価してあり、電子書籍の『聖徳太子の謎を解明する』を是非参照してください。  

 ①聖徳は天皇(大王)だった。

 ②「記紀」は、聖徳が天智・天武の祖父にあたる彦人大兄(崇峻天皇は記紀が作った彦人大兄のダミー)を殺害していたので聖徳を天皇の座から引きずり下ろすという「筆誅」を加えている。

 ③1度目(600年)の朝貢では隋の文帝の器量を見極め、(隋は鮮卑族

 ④2度目(607年)では「朝貢」ではなく「憲法十七条」に基づく「天子宣言」の国書を携えて煬帝に外交を求めた。

 ⑤煬帝は不快感を示したが、わが国の「天子の存在」を無視した(憲法を備えた「天子」であったこと。結果、天子にしか許されない元号の使用も黙認した)

 ⑥わが国初の元号(公年号)は「法興」

 ⑦「記紀」は推古天皇の名前を使い分けて聖徳と推古の夫婦関係を隠蔽している。

 ⑧竹田皇子は「記紀」が作った聖徳のダミー。

 ⑨推古は遺言で竹田皇子の陵に埋葬して欲しいとしている。

 などなど、聖徳の事績や「春秋の筆法」で編纂された「記紀」についてもっと紹介したいのですが・・・

 生野先生は上記について詳細な考察内容の根拠を示しながら説明してあります。このブログ過去記事(フォーネット2012年7月号~2013年8月号と、隋との交渉に関しては2022年4月号)でも概要を紹介しています。

 よろしければご一読くださいm(_ _)m

 

 

 

 東京在住の友人が福岡に帰省するのに合わせて、糸島高校卒業生の5人で同校の「郷土博物館」を見学しました。

 平日にもかかわらず授業の合間をぬって歴史部の顧問の先生が1時間にわたって丁寧な説明をしてくださいました。

 (展示室内はサウナ状態で、説明する先生も聞く私たちも汗びっしょり・・・滝汗

 最近ニュースになった荒牟田1号古墳(糸島市小富士・円墳・6世紀後半)から出土した「鍔」に精巧な象嵌が施されていたことが判明したいきさつなど、当事者ならではのエピソードも聞けてワクワクの時間・・・

 いただいた資料には、その象嵌の「かわいさ」を数値化することで他に類を見ないデザインだとかいてある・・・・・えっ、「かわいい」を数値化?びっくりって・・・・う~ん若い人の感性だなぁと感心しきりニヤリ

 過去の研究発表の掲示物には糸島半島内の古墳や神社の特性などを考察した内容もあり、文献史学との比較もあって頼もしいグッド!アップ

 来館者名簿には大学の先生や研究機関所属の人、関東方面からの記帳もあり、古代史における「糸島」の重要性が徐々に浸透しているんだと、ちょっと嬉しい気持ちになりました。

 

 

 

 

 

 

 いよいよ今日(7/3)新紙幣が発行されましたね。

 関連の話題として日本初の紙幣肖像画が神功皇后であると、ネットに紹介されています。  当時の時代背景(明治の征韓論とか?)の影響で「記紀」の中に「神功皇后が半島に出兵したと書かれている」という理由で選ばれた、との説明もあり、興味が湧きます。

 

 

 生野先生の電子書籍『神功皇后の実在性と実年代』の表紙にも使われている神功皇后の肖像は、高松塚古墳に描かれた美人画を彷彿させる輪郭にちょっと洋風の面影のある超美人キョロキョロ

 

 「記紀」では神功皇后は「卑弥呼・臺与」のダミーとして3世紀の人物となっているが、史実(生野説)では364年新羅征伐し、筑紫(糸島)に帰還して応神を出産(365年)。389年に崩御となる。

 詳細はこのブログの過去記事をご参照ください。

 お薦めはやっぱり生野先生の電子書籍『神功皇后の実在性と実年代』)を読んでいただくのが一番です。

 神功、応神だけでなく、神武東遷以降、先興「奴国王家」と新興「ヤマト王家」が攻防しながらもなんとか「大和王朝」を形成していく過程や、「記紀」編者たちの「大和王朝万世一系」の建前を守りつつ真実を後世に示唆する工夫など、読み応え十分ですよアップニコニコ