フォーネット9月号の概要②です。
前半部分は天ノ日矛が日本に渡来したあと、天皇の提案を断ってまで自分で定住地を探し求めた様子と、天ノ日矛に関する「記紀」の記事を比較した考察でした。
後半部分は、天ノ日矛が渡来した時に献上した「八種(七種?)の宝物」についての考察です。
<宝物が示す天ノ日矛の出自>
天ノ日矛が持ってきた宝物の中に「丹波国但馬の出石(いずし)」で製作されたと思われる「出石の刀子(とうす)と出石の槍(矛)」が含まれていて、後に、それらの宝物は「但馬国(たじまのくに)の神宝」になったと、されている。
ここで、疑問。なぜ、天ノ日矛は渡来前に「出石の宝物」を持っていたのか?
→それは、天ノ日矛の祖先である脱解が「倭国の東北千里に在った多婆那国(図2)から櫝(箱船?)に入れられて海に流された時、母親が一緒に櫝に入れたという宝物が連想される(新羅本紀参照)
つまり、天ノ日矛はもともと倭人であり、それを祖先の故郷に持ち帰って献上することで、垂仁天皇(実際は神武)に自分が倭人であること証明(?)した!
三度目登場の地図です
<まとめ:天ノ日矛に関する生野説>
①天ノ日矛が渡来した理由と時期
当時の半島、辰韓12か国の中の斯羅国(後の新羅)で政権交代が起こったから!
その「当時」とは、神武が近畿東遷した頃、つまり4世紀初頭の頃と思われる。文献上の明確な根拠はないが、『三国史記』新羅本紀によると、4代の脱解王以降16代までは「昔氏」王位の時代が続いたが、356年からは「金氏」に代わっていて、それ以降「昔氏」が二度と辰韓、もしくは新羅(斯羅)の王位に就くことは無か
った!
また、倭人系の「昔氏」最後の王となった訖解(ホルへ)には後継者がおらず、もしかしたら訖解とは、兄の天ノ日矛から太子の座を譲られた弟の「知古」だったかもしれない。
もし、この推察が正しければ、訖解王の即位は310年だから、兄の天ノ日矛はそれ以前に列島に渡来していたことになる。
まさにその「当時」に列島は、神武率いるヤマト軍が全国平定を成し遂げていたころで、一方、半島では「任那国」の誕生、辰韓国内での昔氏と金氏の交代、そして新生新羅国成立などが起こっていた時期と考えられる。
②神功皇后の新羅征伐
天ノ日矛の子孫(曾孫か玄孫)の神功皇后が、唐突に未知の新羅を親征するのは、その直前に王位が倭人系の「昔氏」から「金氏」に変わったことが関係しているのではないか!
③神武・天ノ日矛・神功皇后・新羅王に関する史実