生野先生からフォーネット9月号をいただきました。

 いよいよ今月号は、7月号から3回のシリーズで紹介されている「新羅の王子 天ノ日矛は倭人だった」の最終号です。

 早速、概要ですが、今号は日本に来た天ノ日矛の「定住地」と彼が献上したという「八種の宝物」からの考察です。

<定住地探し>

 『日本紀』垂仁3年の記事(一説)に、天ノ日矛が船で播磨国の宍栗邑(しさわむら)にやって来た時、垂仁天皇(生野説では神武天皇)が使者を聞きに行かせると「自分は新羅の王子で聖王を慕って来た」と天ノ日矛は答え、八種の宝物を献上したと書かれている。

 それを聞いた天皇は、天ノ日矛に播磨国の宍栗邑と淡路島も出浅邑(いでさむら)の2か所に定住を許可。

 しかし、天ノ日矛はそれを断わり、自分で定住地を決めたいと願い出てそれが許可されると、

①播磨国から

②近江国にしばらくとどまった後

③若狭国を経由して最後に

④但馬国に辿り着き、そこで妻を娶り終の棲家にした。

 ただ、但馬国が丹波から分離独立したのは、645年以降の律令時代であり、天ノ日矛が渡来した推定4世紀初頭の頃にはまだ丹波国しかなかった。「丹波・丹後・但馬」の所謂「三丹」に分かれたのは7世紀中期以降(丹後国は713年分国)。

 従って、天ノ日矛が定住地に決めた時の但馬国は、分国前の「丹波国の但馬」だったはず!

<丹波国の但馬は先祖の故郷:生野説>

 なぜ、天ノ日矛は天皇からの提案を断り自分で「丹波国の但馬」に定住したのか?

 それは、「丹波国の但馬」が第4代新羅王となった昔脱解(シャクトヘ)の生まれた「多婆那国(図2)」であり、言わば「天ノ日矛の祖先の母国」だったから!(前回7月号も参照してください)

◆「多婆那=丹波」の根拠

『和名抄』には、丹波国の古訓は「太迩波(たには)国」とあり、その倭音の「tanifa(na) 」が半島には「多婆那(taba・na)」で伝わった可能性がある。(上古は、国=ナ)

 つまり、上古倭人語の「丹波国(たにはな)」が朝鮮半島には、「多婆那」で口伝されていたと考えると、『三国史記』新羅本紀の「多婆那国」と「丹波国」は同一と推定できる。

 

◆「来帰」の意味

 『日本紀』が天ノ日矛の渡来について「来帰」と書いていることも、漢和辞典の第一義的意味のとおり「帰って来る」であり、天ノ日矛が倭人であったことを示している。

 

<渡来の理由:記紀の記述>

◆古事記

 『古事記』応神紀では、奇異な赤玉から生まれた美女が天ノ日矛の正妻になったが、夫の奢った態度に愛想を尽かしプンプン、祖国の列島に逃げ帰ったのを天ノ日矛が追いかけてきた、となっている。

 そしてその妻は「阿加流比売(あかるひめ)ノ神」として「難波の比売碁曾(ひめこそ)ノ社(やしろ)」に祀られているという説明がある。

◆日本紀

『日本紀』の垂仁紀にも上の『古事記』に似た話があるが、娘の相手は新羅の王子ではなく、大加羅国の王子「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと):宇斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)』になっている。

 また、娘は赤玉からではなく白石から化成したことになっていて、都怒我阿羅斯等が彼女を妻にする前に列島に行ってしまい、その後を都怒我阿羅斯等が追って渡来。

 恋の顛末は書かれていなくて不明だがえー、結局、大加羅国の王子都怒我阿羅斯等は、天皇が大加羅国の名を「任那国」に改めた上で彼にその国を与え、半島に帰還させたとなっている。 

 この後に天ノ日矛の渡来伝説記事が書かれているが、美女の話は無く、倭国に聖王がいると知ったので「太子の座」を弟の知古に譲って自分は列島にやって来た、という話になっている。

 うんはてなマーク夫は別人みたいだけど、妻は同じ名前の社で祀られているから同一人物ってことポーン

◆『日本紀』の記事の意味:生野先生の考察 

 『日本紀』にある大加羅国の王子都怒我阿羅斯等のエピソードは、当時倭王(神武)が半島南部の国号更改の権限を握っていたことを示唆するための記事ではないか!

 おそらく、卑弥呼の頃の「倭の狗邪韓国(かやはん)つまり、倭名の「伽耶加羅(かやから)」が、3世紀終末(299年)の神武東遷以降、そこは「任那(みまな)・加羅」に改号されたと推察。

 都怒我阿羅斯等を「任那国の王」にしたことで『日本紀』の中で初めて「新羅・任那・加羅」の三国が出揃うが、この時から新羅と任那の対立が始まったとも書かれている。

 

 フォーネットの記事後半は、「八種の宝物」についての考察が続くのですが、また後でチャレンジしますえー