神功の新羅征伐の理由:令和4年10月号 | 生野眞好の日本古代史研究会記録

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在野の古代史研究家 生野眞好(しょうのまさよし)先生の勉強会や月刊誌フォーネットに連載中の記事の概要などを紹介しています。
「魏志倭人伝」や「記紀」などの文献史料を中心に邪馬台国の位置、ヤマト王朝と先興の奴国王家との攻防(宗教対立)と共存などの検証です。

 生野先生からフォーネット10月号をいただきました。

 前回まで3回にわたって「新羅の王子の天ノ日矛は倭人だった」という仮説が紹介されていましたが、今回はその傍証(根拠)の一つである「神功皇后の新羅征伐」についての説明です。

 早速、概要です!

<前号までの概略

 4世紀初め(310年頃)天ノ日矛が王子であった斯羅国(後の新羅)で政変が起こり、奴国系倭人の「昔氏(実際は天氏か?)」から韓人の「金氏(金奈勿)」に王権が渡り、天ノ日矛は祖国の丹波国(後の但馬国)に帰来した!

 また、「記紀」や『宋書』逸文の『王年代紀』(十世紀)によると神功皇后は天ノ日矛の「曾孫」である可能性が高く、神功が唐突に新羅征伐を行うのは、敵討ち(報復)だったのではないか? 

                                       

<記紀に記載された征伐の経緯>                

①神功皇后が「神帰せ(かみよせ:神憑り)したら、「西の方に宝の国(新羅)あるのでそれを仲哀天皇に賜う」という神託があった。

②仲哀はその国を見つけられず神託を疑った結果、神の怒りに触れて亡くなった。

③そこで神功が再度「神帰せ」したら、「お腹にいる男子がその国を治めるべき」と言われた。

④妊娠中の神功は神に言われた通り、新羅に遠征した。

<新羅遠征譚の矛盾点>

①「記紀」では14代仲哀天皇が新羅を知らなかったことになっているが、10代崇神天皇の時に任那が成立し、新羅と対立が始まったと書かれていて、仲哀が新羅の存在を知らないはずがない。

②妊婦の神功皇后がわざわざ玄界灘の荒波を越えて未知の新羅国に遠征する整合的な理由が見当たらない。

③また、神功が臨月を延ばすために腰に巻いたという「鎮懐石」について『古事記』は、新羅から帰還するとき「新羅の石を腰に纏った」とあるが、『日本紀』では「筑紫の石」を腰に巻いて新羅遠征に行った、ことになっている。

<鎮懐石は流産防止>

『日本紀』の「鎮懐石」に関する記述は不自然で、『古事記』の方が正しい。新羅遠征中に妊娠に気が付いた神功は「鎮懐石」の呪術の力を頼って「流産防止」のため新羅の石を腰に纏い、凱旋後、筑紫国で応神を出産したと考えるのが妥当!

<史実と日本紀のトリック>

 『古事記』の記述から考えれば応神の父は神功と一緒に新羅征伐に行った建内宿祢ということになるが、『日本紀』では神の怒りに触れて死んだ「仲哀の御子」にしている。

 また、神功の新羅征伐は、『三国史記』新羅本紀などの記述によって、364年(甲子年)4月であることが解っているが、『日本紀』は仲哀没年を200年2月とし、10月には「鎮懐石」を腰に巻いた神功が新羅遠征に出発、12月に筑紫国で応神を出産したとしている。

 なぜ、『日本紀』は神功の実年代から164年も前の出来事に登場さえ、「鎮懐石」の不自然な話を創作しているのか?

→それは、『古事記』と異なり、『日本紀』は日本国を「大和王朝万世一系」の建前で時代編年をしなければならなかったから!

<神功の新羅征伐の目的 

 天ノ日矛が丹波国(倭国)に来た時期も『三国史記』新羅本紀によれば4世紀(310年頃)であり、『日本紀』の編年のトリックに気が付けば、神功が天ノ日矛の約半世紀後の倭国に実在していた天ノ日矛の曾孫(?)とわかる。

 神功は政変(?)によって半島を脱出した先祖(天ノ日矛)の敵討ちのため新羅征伐を行った!

<おまけ>

 364年の新羅征伐の事実を示す根拠の一つとして、百済王から倭王に献上された369年(泰始4年)の紀年銘が入った「七枝刀」の存在があるそうですが、その説明はまた次の機会・・・らしいですニヤリ

 2012年5月号のフォーネットでも少し「七枝刀」についての概要を書いてます。よかったらご参照くださいウインク