前回までで、ひとまず生野先生が考察された「神武天皇の実在性と実年代」の紹介はほぼ終わりました。
今回は、「神武」と後の「聖徳」に共通する統一国家の理念「和の精神」に対する評価や、「奈良」の地名由来に関する考察のほか、「前方後円墳」を改称すべく先生考案の候補名を紹介します。(※やや長文になります
)
<神武と聖徳に求められる「和の精神」>
ここまで「神武の実在性と実年代」とその事跡について、考察・検証・論証を重ねてきたが、今、本当に「神武」は「ハツクニシラス天皇」の尊称を贈るに相応しい我が日本国の一大英雄と称えて良いのではないかと思う。
それも三世紀終末から四世紀初頭の25年間に亘り、列島を駆け巡り統一を成し遂げた実在の人物なのです。
また、聖徳は神仏習合によって神道と仏教の対立を乗り越え、「憲法」で「和を以て貴しと為す」と謳ったが、それに先んじること凡そ300年前の神武もまた神道の中の「鏡と鐸の憎しみの連鎖」を断ち切り、さらに奴国王家との共生の道を選択したのです。
それを天下に知らしめるために「前方後円墳」を築いたとするなら、神武の成し遂げた事はまさに偉業と言えるのではないだろうか。
現代日本人の心の中に脈々と流れている「和の精神」の源流や原点は、もしかすると神武や聖徳の中に求めることが出来るのかもしれない。
その意味で、神武と聖徳が「辛酉革命説」で繋がっているのも何かしら別の意味が有るのかもしれない。
<奈良の地名由来>
なお、神武が「奴国王家との共生」を成し遂げていたとすると、「奈良」は「な✙ら(接尾語)」で、奴国の「な」の名残(なごり)ではないかと考える。
この考え方は、ここまでの私見の下に出て来たものだが、元々奴国王の国都であった近畿奴国を神武が東征によって奪い、その後は「ヤマトの国」に変わったのだろうが、その時、そのヤマトの国の中に「な✙ら」としてその名は遺されたのではないだろうか。
倭国大乱の時に、オオナとスクナの国の糸島平野と福岡平野は、新興ヤマトに奪われ、逃れた先の出雲で再び国造りを始めた直後に今度は卑弥呼に制圧され、近畿に逃れて再々度、銅鐸祭祀圏の構築を始めていた最中、またまた神武によって征伐されるという奴国王家にとっては何とも形容し難い屈辱的な運命を辿ったものだと思う。
しかし、その一方で、糸島平野には「中ノ宮(なノ宮)」、福岡平野には「那珂・那の津」など「な」と繋がる地名が遺されていて、それは「奴国」の名残と考えられる。同じように、近畿の奴国も「な✙ら」として遺されたのではないか。
後に、都が明日香から「なら」の地に遷り、やがて「奈良の都」や「南都・奈良」というように大地名になるが、それはあくまでも「大和国の奈良の都」だったわけで、その意味において現在の「奈良県」は、「奴国が漸くその名の復権を果たした」と言えるのかもしれない。「奈良」には、神武の「近畿東遷」と、「ヤマト王家と奴国王家との共生国家」の歴史が秘められているのかも・・・![]()
<前方後円墳の名称を変えよう!>
現在では「前方後円墳」という用語が学会で常用され慣用化されているが、それは「とりあえず」といった外見からの名称に過ぎない。
「前方後円」の「前後」は、江戸時代の勤皇家蒲生君平(がもうくんぺい:1768~1813没)が歴代天皇陵を調査した記録『山陵志』の中で「それは必ず『宮車』を象(かたど)ったもの」とした上で、「前方後円(墳)」と名付けたことに始まったようです。
〇『山陵志』[九志・二ノ一](以下は、『新註・皇学叢書』第五巻・廣文庫刊行会を参照)
~、凡(およ)そ、其の陵(みささぎ)を営(つく)るに、山に因(よ)る。其の形勢に従い、向かう所、方無く(方向性に定めが無いの意)、大小・高卑・長短にも定め無くして、それを「制」と為す。必ず「❶宮車」の象(かたち)にして「❷前方後円」としむ。壇は三成(みつがさね)を為し、且(また)、環(まわり)は溝を以(もっ)てす。
~(分註省略)~夫(そ)れ、其の円(丘)は、高くして張(はり:弓)の如し。頂は一封を為し、即ち其れ葬る所なり(前期古墳の形状=竪穴式)。
方(丘)は、平らにして衝(しょう:衝車・戦車)を置くが如し。其の上は隆起し、梁輈(りょうちゅう:車の一種)の如し。前後(方丘・円丘)相接し、其の間は稍卑(ややひく)く、左右に円丘有りて、其の下壇を倚(よせ)れば、両輪の如し。後世に乃至(いたり)、民は之を睹(み)て、能(よ)く識(し)らずして、猶(なお)も号(なづ)けて「❸車塚」と日(い)うは、蓋(けだ)し亦(また)是(これ)を以てなり。(以上、筆者読み下し)
長文の引用になったが、要するに❶❷❸がポイントで、蒲生君平は、主に近畿地方の古墳を調査しており、その形状から宮廷の「宮車」を模したものと考え、また、その古墳の中には、知識のない地元の人が昔から「車塚」と呼ぶものがあることから、それは元々「宮車を模した墳墓」という確かな伝承によるものであろうと推測し、それも自分(蒲生君平)の「宮車説」の根拠としている。
ところが、その「宮車」は近年の考古学の成果によって、古墳時代の終末期以降になって宮廷で使用され始めたことが判ったとのことで、現在ではこの蒲生君平の「前方後円墳=宮車」説はほぼ全否定されている。
しかし、そうかと言って、それに代わる有力な学説も無く、仕方なく「とりあえず前方後円墳としておく」ということになっている![]()
つまり、「前方後円」の「前後」については、まったく根拠が無いということです!
そこで、生野先生の候補名:
➀鏡鐸共生墳 ②鏡鐸併合墳 ③鏡円鐸方墳 ほかいくつか??
(※まあ、どれもその名前の意味することはよく理解出来ますが、果たして・・・まずは神武の実在と実年代をわが国の歴史の中に正しく位置付けることが先決ですね~
)
次回は「あとがきにかえて」に書かれている「日本紀講書」の考察と「大和王朝万世一系」の建前に縛らた朝廷のジレンマについて紹介して最後にしようと思います。
明日2月11日
は「建国記念の日」。
去年は『日本国成立の日』の概要紹介をなんとしても「建国記念の日」までに終わらせようとあがいていましたが
、今回の『神武天皇』は生野先生の著書の中に誤字等を見つけるたびに、勉強会資料やフォーNETの記事と照らし合わせながらじっくり楽しい時間を過ごせました。自己満足の極みです![]()








