前回は、天ノ日矛が倭国(但馬)に定住した理由について、但馬国が先祖「脱解(トヘ)」の故国(故郷)だったからではないか?天ノ日矛の先祖「脱解は「倭人」であり、天ノ日矛もその血を引いているのではないか?という説明でした。

 今回は、新羅国が建国されるまでの経緯と「脱解」に関する生野先生の考察です。

 <新羅建国の時期>

 第4代新羅王の脱解は、卑弥呼の頃の王で、その子孫が天ノ日矛ではないか?

 ※生野先生はまだ憶測の域だがと前置きして、4世紀初頭に神武が全国平定したことで、2世紀末の「倭国大乱」以来続いていた奴国とヤマトの戦いも終わり、ようやく天ノ日矛は先祖の故国(但馬=旧奴国系の国)に戻って来たのではないかと考察してありました。

 厳密に言えば脱解は新羅王ではなくその前身の辰韓12か国の中の一国(斯羅国=のちの新羅)の王だったはず!なぜなら、新羅国は「5世紀末から6世紀初頭」の頃、独立国として自立したと考えられる。

 ◆根拠(傍証)

 ①「三国志・韓伝」(284年陳寿撰)には、3世紀の頃の韓国に「馬韓、辰韓、弁韓」が記録されているが、新羅や百済の名前はない。

 ②「三国史記」・新羅本紀(1145年、高麗国第17代仁宗が金富軾に命じて撰進)には、倭人の脱解が流れ着いた所は新羅ではなく「辰韓」と書かれている。 

 ③「三国史記」・新羅本紀の22代「智證(チジョン)麻立干(マラハン:方言で王の呼称)」4年(503年)の条に、新羅の始祖(赫居世)の創業以来、国名が決まらず『斯羅(シラ)』とか『新羅(シラ)』と言っていたが、群臣が「新羅国王」の号を上(たてまつ)り、国名を「新羅」、尊称を「王」とした記述がある。(※建国か!) 

 ④倭王武(雄略)が南宋に朝貢した時(478年)の上表文「使持節・都督、倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・暮韓、七国諸軍事・安東大将軍・倭王」に新羅の文字がある。

 ◆経緯

 『三国志』や『後漢書』の「韓伝」によると、新羅の建国は秦の始皇帝の頃、多くの国民が匈奴との戦いや万里の長城築造の苦役を避けて朝鮮半島に避難した時に始まりその人々は自らを「秦人」と言ったと書かれている。

 当時の半島南部には「土着の馬韓人の韓国」と「倭人の国の狗邪韓国(※倭名は伽耶加羅)が在ったが、馬韓の王がその難民(秦人)に半島の東部を分け与えて出来たのが「辰韓(秦韓)」の起源とも書かれている。その辰韓からさらに(わか)れたのが韓で、この時点から韓国は馬韓・辰韓・弁韓の三種の国(三つの政府)となった。(※紀元前2世紀末頃から4世紀頃まで)つまり、辰韓と弁韓は、紀元前2世紀以降に中国難民が建てた国という事になるが、その一方で「倭人」との深い関りも記録されている。

 『三国志』弁辰伝には、「辰韓人は後頭部が絶壁でムキー倭人独特の風習である刺青もしており倭人に近い」と書かれていて、その頃の辰韓や弁韓が倭人の政治的影響下に置かれていた可能性がある。(※倭人の「脱解」が新羅王になり得る素地が既にあったってことか!)

 ◆瓢箪(ひょうたん)がキーワード!

 韓国正史の『三国史記』新羅本紀には、始祖の朴(パク)赫居世(カクキョセイ)は天から降ってきた卵から生まれ、その卵の形が瓢箪(ひょうたん)に似ていたので姓を「朴」としたと書かれている。

 また、朴赫居世の時代、瓢箪を腰に下げて渡来した「瓢公(倭人)」が朴氏の重鎮として仕えた事や、辰人は瓢(ひさご)のことを「朴(パク)」と言ったとも書かれていて、始祖の朴赫居世と倭人の「瓢公」が「瓢」で繋がっているびっくり(赫居世と瓢公が同一人物か同族の倭人という示唆?)

 しかし、中国語の「朴」には瓢箪の意味は無く、なぜ12世紀の韓国正史が辰人(秦人)の言語では「朴=瓢箪」と無理な説明をするのか?

 →こじつけ的な説明の背景

 高麗王国時代の1145年に成立した『三国史記』は、朝鮮半島の上代史について倭国だけではなく中国の影響も排除もしくは無視しようとしている。それは当時の高麗国に芽生えていた民族主義的立場によるものと思われる。

 上記の朴赫居世の「卵生神話」のほか、紀元前に中国人が建てた「箕子朝鮮」や「衛氏朝鮮」、倭国の「任那(みまな:倭国王)」の存在も半島の歴史から表向き消そうとしている。

 13世紀の私撰『三国遺事』の「檀君神話」も同様!

「新羅の建国には倭人や中国人の関与は無かった事にしたい」という苦肉の策か?

(「記紀」が大和王朝万世一系を建前に史実改竄しながら編纂しているのと同じですねぇ~)

<脱解王は倭人!

 生野先生は、辰韓、特にその中の一国「斯慮(シロ)(または斯羅(シラ)・新羅)」の建国には倭人が深く関わっているのではないかと指摘されています。

 その根拠として、『三国史記』新羅本紀に書かれている第4代の「脱解王」について詳しく検証をされています。

 詳細は2015(H27)年8月勉強会④~⑦の書き込みを参照していただくとして、ここでは脱解を巡る長い歴史ドラマをダイジェスト版で紹介しますてへぺろ

①脱解は日本列島の「倭国の東北一千里(約450km)に在る多婆那国(「丹波国」と推定)で誕生。(卑弥呼が支配した「倭国三十国」の外にあった国と思われ、卑弥呼と敵対した出雲奴国側の国と思われる)

②多婆那国王は「女国(邪馬台国?)の王女を妻としたが(政略結婚か?)、王女は妊娠して7年目ポーンに「大卵」を生んだ。(始祖の朴赫居世と同じ卵生神話)

③多婆那国王はそれを棄てさせたが、妻は卵と宝物を錦で包んだ櫝(ひさぎ=棺)にいれて海に流した。(日本海か?)

④櫝は朴赫居世の在位39年目(前19年)辰韓の阿珍浦に漂着

⑤老婆が櫝を拾って開けた時、鵲(かささぎ)が飛んでいたのでその子の姓を鵲の略字「(シャク)」、名を「脱解(檟を解いた)」とした。

⑥脱解は朴赫居世の土地を謀略で奪い獲り其処に住んだ。

⑦西暦8年、第2代南解次次雄(ナムヘ チャチャウン:王)は自分の長女を脱解に嫁がせ、脱解を大輔(宰相)にして軍事や政治を委ねた。

⑧西暦57年、第3代儒理尼師今(ルリ ニサコム:王)が亡くなる時、62歳(?)になっていた脱解を第4代王位に即かせた。(この時点で「倭人」が初めて「昔氏」として新羅王になった)

⑨在位2年目(58年)に「倭人の瓢公」を大輔(宰相)に任命した。(何代もの王に仕えるってまるで新羅版「武内宿禰」だね~ポーン ひょっとして「瓢公」って個人名ではなく新羅に在住していた「倭人」の役職名かも?

⑩在位3年(59年)倭国(奴国か?)と好みを結び、互いに交流した。(漢ノ倭ノ奴国王の時代)    

⑪在位9年(65年)脱解は変わった容姿の小人を養育した。金色の箱に入っていたので姓を「」、名を「閼智(アルチ)」とした。(ここで「朴・昔・金」の新羅の三大姓が出揃った!)

 また、始林を改名して「鶏林」として国号とした、(鶏林=シラギ?)

⑫その後、王位は「朴」氏に戻ったが、第9代「昔伐休尼師今(シャクボルフニサコム:王)」から第16代「昔訖解尼師今(シャクホルヘニサコム:王)(356年没)」までは、再び倭人系の「昔」が王位を継承した。(※第13代味鄒尼師今は金氏)

⑬356年に「昔訖解尼師今」の後「金奈忽尼師今(キムナムルニサコム:王)」が第17代新羅王に即位して以降、935年「新羅国」が滅亡する第56代「金敬順王」まで金氏の時代が続く。

  以上の経緯が史実を反映しているとするなら、新羅の始祖の「朴(瓢)」氏と倭人の「瓢公」、そして倭人の「昔脱解王」の三者は「瓢と倭人」で繋がっているように見える。

 う~ん、長い! 次回は、天ノ日矛がいつの時代の新羅王子だったのか?来日の目的は?などの考察を紹介します。

 神功皇后の実在性と実年代」をテーマとした勉強会は2015(H27)年8月から数回に分けて行われたのですが、実は第1回目の勉強会資料の神功皇后(息長帯比売命)の系譜に「天ノ日矛」は登場し、そのまま「天ノ日矛」についての詳細な説明が続いています。(B4用紙で11ページ)ゲッソリ

 フォーNETでも2022(R4年)7月号から10月号まで4回に亘って半島全体の古代史に関わる長文の考察が掲載されています。

 最初は勉強会資料の順番どおり概要を紹介しようと思ったのですが、なじみの薄い半島の古地名、王の名前や呼称などハードルが高く、断念滝汗

 とりあえず「摂政紀」から始めてみましたが、その「摂政紀」がとんでもなく厄介ですんなりとはいきませんでした(※「摂政紀の創られ方」が本当に手強いガーン

 泣き言は置いといて、今回のテーマ「神功が新羅征伐をした動機」の前に、ここまでの生野先生の考察のポイントをまとめてみました。

 1,「摂政紀」は、『古事記』の仲哀没年(362年)から仁徳没年(427年)の66年間を200年間(200年~399年)に編年している。 

 2,「摂政紀」の改竄をカモフラージュするため「百済本紀」にある百済王の薨去や即位年の記事を120年前に遡及して挿入している。

 3,「新羅本記」にある364年(史実)の「新羅征伐」も120年前の244年としている。

 4,この改竄された「新羅征伐」の記事が「摂政紀」の編年を実年代に戻す基準点となっている。

 5,神功は少なくとも364年には実在していた人物だとわかる。

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<神功の系譜に登場する天ノ日矛>

  ※2015(H27)年8月勉強会概要④に掲載したのと同じ図です。

イメージ 1

 

 上図のとおり神功の出自について『古事記』は開化紀に父方の系譜、応神紀に母方の系譜をそれぞれ記述していて、神功は「開化6世の孫」となっている。

 ところが、『日本紀』では、開化の曾孫(4世)「気長宿禰王」の娘つまり「5世の孫」とするなど、701年に施行された大宝律令の影響が伺われる。※6世以降は「臣籍降下」で皇族の資格を失う!   他にも神功の系譜には不審点が多い。

 例えば父方の系譜にはみんな「王」が付いているのに、母方は神功の母である「葛城高額比売」だけに「命(皇女の意味)」が付いている。

 また、父母両方の系譜に記載されている「丹波国(丹波・丹後・但馬=三丹)と神功の出自には何か関係があるのか?

 『古事記』の応神紀や『日本紀』の垂仁紀には、系譜のほか神功の先祖にあたる新羅王子の「天ノ日矛」が但馬に住むことになった経緯を記述している。 

 ※古事記と日本紀では天ノ日矛が倭国に来た理由は異なる。

<なぜ、天ノ日矛は倭国(但馬)に定住したのか?>

 それは、但馬国が新羅の王子「天ノ日矛」の先祖「脱解(トヘ)」の故国(故郷)だったから。

 つまり、天ノ日矛の先祖「脱解」は「倭人」であり、天ノ日矛もその血を引いているのではないか!

 次回は、天ノ日矛とはいつの時代の「新羅王子」だったのか、新羅建国の経緯からみた考察を紹介します。

 昨夜(5/27)BS日テレで放映された「磯田道史歴史をゆく」。

 テーマは「謎の4世紀ヤマト王権」ということで「富雄丸山古墳」の巨大な円墳とその特徴な構造、蛇行剣の制作目的や技術の謎など、磯田さんお決まりの興奮解説で楽しいのだけど、さすがに昨日のコメントは酷かったガーン

・・・被葬者を特定はできないけど、「倭人伝」や他の文献にも「女王国」とか「女国」と記述されているから、当時の倭国には女性の王や位の高い女性が多く政権中枢に何人もいたんだ!・・・みたいな。

 他の文献が『魏略』や『廣志』に出てくる「女国」のことなら、それはどちらも邪馬台国のことで陳寿がそれを「倭人伝」のなかで「女王国」と改変して記述している。また、『後漢書』や『梁書』のことだとしたら、それは反対に陳寿の『三国志 東夷伝』からの引用であって、当時の倭国に卑弥呼・臺与以外の女王がたくさんいたなんてことにはなりません!

 中国王朝は防衛上の視点から東夷だけではなく周囲の異民族(西戎・南蛮・北狄など)について詳細な情報を得ていたわけで、何代にも亘って女性が王になるという珍しい国があればそのことを特筆しているはず。

 陳寿は簡潔な文章、同じ単語を繰り返さず文章としてのリズムを整えるなど、後世の歴史家たちから高く評価されている人物です。

 古代史ファンに人気のある磯田さんのコメント、たとえ個人の見解だとしても不用意過ぎると思うプンプン 

 4世紀を謎だというのなら、少なくとも他国の正史も含めて丁寧に照合することから始めればいい!

 番組制作者も出演者に恥をかかせないよう誠意ある態度で事前に資料提供してくれたらいいのに・・

 まさかとは思うけど、古代わが国には女王がたくさんいた事にした方が、何かと都合がいいのか・・いや、穿った見方ですねぇ~口笛

 

 沖ノ島信仰は4世紀末の神功・応神の時代に始まったもので、同時期に宗像大社も創建されています。

 生野先生はこの沖ノ島信仰を古代わが国の奇習「持衰」との関係でも考察されています。

 ①生野説では「持衰」の音読みを「ちすい」とする。

 ②持衰は卑弥呼の呪術の責任回避システム(ト占が「吉」と出て実施したはずの朝貢が失敗した場合、卑弥呼の身代わりになって制裁を受けさせる)

 ③持衰は渡航する使者に同行せず国内にいた。

 ④持衰が監禁された場所こそ玄界灘の航路上にある「沖ノ島」だったのではないか。(現在も続く沖ノ島信仰の禁忌項目などが持衰の状況と似ている)

 ⑤持衰は奴婢のような身分の低い者ではなく、「殺す」意味(社会的影響)のある者たちで、「神武東征によって倒された旧奴国王家譜代の王族氏族」が担っていた。

(※沖の島信仰以前の卑弥呼時代の持衰がどんな風に選出されていたのか、また監禁された場所はどこだったのか、生野先生の考えを聞いたはずなのに、覚えていません。多分、検証資料もなく仮説を立てることも出来ず「わからない」という見解だったのかも・・・ショボーン

 ⑥「記紀」では、国家主導で行われていた奇習の「持衰」や「刺青」がその史上から消されている。(※中国王朝から「鬼道」とか「野蛮」とか言われたガーン しかし、『日本紀』にはその存在を示唆するような記事が僅かだがある。

◆持衰の存在を示唆する『日本紀』の記述

 ・神代上:誓約

 ・応神紀:三十七年春、四十一年二月

 ・雄略紀:八年、九年、十年、十二年、十四年

 (※上記それぞれの年次記事はフォーNET2021年11月号の概容に載せています)

◆応神紀と雄略紀に記述されている持衰の実体

 「応神紀」と「雄略紀」の記事には、時の天皇が使者を中国に派遣し、その使者が無事に帰還し、尚且つ途中で宗像氏と水間氏のところに立ち寄り、中国皇帝から下賜された貴重品や人物の一部を分け与えたという内容になっている。

 この記事以外にこのような内容の記事は見当たらない事から、宗像氏や水間氏はこの時「持衰」の苦役を課せられていて、無事帰還の成功報酬として工女(織女:最新式の機織り技術)や鵞鳥(『日本紀』では水間氏のところで犬に襲われたって書かれていますポーンを受け取ったのではないか?

 また、この記事から宗像氏と水間氏が「旧奴国王家譜代の氏族」だった可能性がうかがえる。

※宗像大社の紋に関する生野先生の考察

 宗像大社の表紋は皇室と同じ「菊」の御紋で、一見「大和王朝」系の神社だと思えるが、裏紋のデザインは「楢(なら)」の葉紋となっている。またご神木も樹齢約550年と言われる「楢」の木で大社正殿の傍らに立っている。

 この「楢の葉紋」は歴代宗像大社の大宮司家の家紋らしいが、なぜ「楢」をご神木や家紋にしているのか?

 「楢」は近畿の「奈良」や神功皇后の本名「太奈良姫」を連想させるが、表は大和王朝の「菊」、裏は「楢の葉」で「大奴(おおな)(奴国王族)」であることを主張している(二面性を持つ)ように思える。

(※宗像大社、宇佐神宮、産宮、みんなしたたかですよねぇ~ニヤリ

◆宗像氏と水間氏の共通項

 ①両氏共に奴国系の「宗像三女神」を祭祀している。

 ②中国へ使者派遣から帰国後まで、奴国系の神々である「胸形大神(むなかたノおほかみ)=宗像三女神)」と「大三輪神(大物主命)」を祭祀し、それぞれ中国皇帝から下賜された織女の「兄媛」が奉られてる。しかも使者は都に戻る前に筑紫の宗像氏と水間氏を訪れている。

※水間氏についての先生の考察

 『和名抄』では、水間氏(水沼氏)は、「筑後国三瀦郡(美無万:みむま)→現在の福岡県三潴(みずま)郡」の地に比定されていますが、生野先生はまだ検証中としながらも、元々水間氏の本拠地は、宗像のすぐ東隣にある「遠賀郡水巻」辺りの氏族ではないか?と疑ってありました(確かに三潴郡では玄界灘航路から外れた南側の陸地で、どちらかと言えば有明海に近い場所。陸路で行けば数日はかかるし、筑後川を利用したとしてもわざわざって感じはしますねぇ)

 

 やっぱり長文になってしまったチーン

 最後まで読んでいただきありがとうございますm(_ _)m

 次回からは神功が新羅征伐をした動機とそこに関係する天日矛についての生野先生の考察を紹介します。

 前回に続いて、「記紀」編者たちがなぜ「誓約」という形ではあれ、姉弟間で子どもを産むというあってはならない神話を稗田阿礼が創作したのか、という生野先生の考察結果です。

 詳細な検証内容は勉強会でも紹介してますが、フォーNET2015(H27)年4月号から6月号までの概容が一番分かり易いかなと思います。

 で、過去の書き込みを参考にしていただくことにして、ここでは時系列に骨子だけを書いていたのですが・・あまりにも味気ないチーン

「これじゃぁ初めてこのブログにアクセスしてくださった人に不親切だ」と反省し、書き直しました真顔

 やや長文にはなりますが、天智と天武の関係にまで遡った「そもそも論」的な生野先生の考察内容を紹介します。

 

 天武天皇は即位後の680年頃、稗田阿礼に「帝紀」と「旧辞」の誦習を命じているが、『古事記』が上進される712年まで約30年かかっている。この間、天智・天武それぞれの後継者選定に関わる状況やそれに伴う臣下の権力闘争が大きく影響している。

 ◆天智と天武の後継者選定基準の対立

 天智には皇族や中央の有力氏族の娘を母とする後継者にふさわしい男子が生まれなかった。

 そのため天智は「不改の常典」を制定し、身分の低い伊賀国造の娘の宅子郎との間に生まれた大友皇子を皇太子にした。

 本来ならこんな場合、過去の例に倣って、弟(天武)に帝位は継承されるはず!

 天武はこの天智の強引な父子継承のやり方(実母の身分を問わない)に反発し「不改の常典」を破り大友皇子から帝位を簒奪した(壬申の乱)

 天武は「天武八年正月」に「母といえども『王の姓(皇族)』に非ず拝むことなかれ・・・」という「壬申の乱」を正当化するような詔を出している。

 ところが母親の血筋を重んじたこの詔が、天武自身の長子「高市皇子」の即位を阻む結果となる。

 高市皇子は母が出雲奴国系の外様「宗像徳善」の娘「尼子郎女」だったため皇位継承順位は当初8位だった。しかし、壬申の乱の功績を評価されて3位となり、さらに天武は高市皇子を太政大臣(臣下の最高位。現在の内閣総理大臣?)として実質的な皇太子とした。

 天武崩御(686年)後、妻の持統天皇はとりあえず自分が即位し高市皇子の即位を阻んだが、彼女の治世中に皇位継承順位第1位の草壁皇子と第2位の大津皇子が相次いで亡くなった。

 遂に宗像氏の血を引く高市皇子が第1位となり、それまで出雲奴国系の外様として朝廷内で冷遇されていた宗像氏の権力もそれに伴い増大することになった。

 しかし、持統は即位したもののすぐには皇太子を決めず(天武の詔を理由にして孫の軽皇子が成長するのを待った?)、結局、高市皇子は即位しないまま薨去。(暗殺か?ゲッソリ

 武市皇子には天智天皇の娘「御名部皇女」との間に嫡男の「長屋王」がおり、次期天皇の有力候補者になっていた。

 しかし、長屋王はその後、藤原不比等(ヤマト王族系)の4人の子どもたちの陰謀で謀反の罪を着せられ自害することになる。 

 結局、武市皇子・長屋王の父子は二人とも天皇に即位することはなかったが、「記紀」が編纂されているまさにその時期(680~712年)は、武市皇子が皇位継承第1位(太政大臣)であり、その嫡男で天智の娘を母とする長屋王が存在した時期だった!

 

阿礼の秘策

 天武に「帝紀」と「旧辞」の誦習を命じられた阿礼は、「大和王朝万世一系」を建前としつつ、当時の次期天皇有力候補者である武市皇子と朝廷内の実力者となった宗像氏をおもんばかり「宗像氏が天照大神に関連する由緒正しい氏族」であるかのようなカモフラージュを施したのではないか!

 しかも、素戔嗚尊に交換した持ち物を根拠に生まれた三女神を自分の子どもだと言わせ、天照大神(ヤマト王家)と素戔嗚尊(奴国王家)どちらの子どもなのか曖昧にしている。

(※素戔嗚尊の子どもで高貴な神とは言え、姉弟で子どもを産むという忌避行為で三女神が誕生したなんてゴマすりしながら陰では唾を吐くよう仕打ち・・・阿礼って性格は歪んでる?) 

 

 生野先生は天武の諱「大海人」や和風諡号の「天渟中真人天皇」から天武自身が奴国系の王族だったのではないかと考察されていますが、「神功皇后」のテーマから外れるので割愛します。