今回は神功皇后の新羅征伐について2016年1月勉強会の資料(後半)から関連個所を紹介します。
ややこしい個所なので先に生野先生の考察結果だけを羅列してみます。
➀『日本紀』は、「新羅の役」として新羅征伐を仲哀崩御(仲哀9年:200年)と関連して書き、その年(太歳、辛巳年)を神功皇太后の「摂政元年」としている。
②『日本紀』は「魏志倭人伝」に記述されている卑弥呼や臺与の名前を使わず、「皇太后摂政紀」の39年、40年、43年の年紀の中で回想録の形で「魏志倭人伝に倭女王とか倭王と書かれている・・」なんてシレ~って
3世紀の外交記事を書いている。
③摂政紀46年には卓淳国(加羅諸国の一国)の王に「甲子年(244年)に倭国への朝貢を願う・・・」と言わせている。※朝貢を願うきっかけとなった「新羅征伐」の年を回想の形で示唆している。
④しかもその改竄を史実っぽく見せるため、「百済王の系譜」も120年前に移動して「摂政紀」に挿入している。
⑤それは『三国史記』の「新羅本紀」や「百済本紀」の記述から確認できる。
⑤そうまでして改竄した3世紀について、『日本紀』は改竄の手口や史実の手がかりを後世の我々に残している![]()
◆「日本紀」の新羅征伐の記事と「新羅本紀」の関係

上記の「新羅本紀」の❶と❷❸の記事は無関係。
しかし、それを『日本紀』は、全部虚偽の「新羅征伐(200年)」と関連付けて仲哀崩御の前後(200年~205年)に挿入している。
その目的は、「新羅本紀」の❶の記事を「百済本紀」の王の系譜と同じように『日本紀』の120年前の記録と照合させないため!
<ポイント>
1 『三国史記』の「新羅本紀」と「百済本紀」の年次は整合的。
2 その「百済本紀」の系譜中、なぜ第13代の近肖古王(346年~375年)が、『日本紀』の「神功皇太后摂政紀」で初見されるのか?(もっと以前から半島との交流はあったはず!)
3 また、なぜ、その近肖古王から第19代の久尓辛王(420年~427年)までの系譜に限って120年前の『日本紀』に挿入されているのか?
4 「百済本紀」と「新羅本紀」の年次は整合的なのに、なぜ「百済本紀」と違って「新羅本紀」の挿入方法には一貫性も規則性もないのか?
5 『日本紀』によれば200年の新羅征伐の時からいわゆる「三韓(新羅・高句麗・百済)」が毎年朝貢を約束したと書かれているのに、それから44年も経った244年まで百済と高句麗は1回も登場せず、朝貢の記録さえない!
実際は、近肖古王が244年(甲子年)に朝貢を願い出たその時こそ実質的な朝貢の始まり、つまりその年こそが本当の新羅征伐の年だった考えるべき!
それを示唆する「史上ナビゲーター」として百済の近肖古王からの7代を120年前に挿入している!
つまり、
神功が新羅征伐したその実年代は、日本紀の編年に120年を足した、「364年(甲子年)」だったことになる。
『日本紀』はむちゃくちゃな「神功皇太后摂政紀」を創作することで「奴国系」の出自である応神を「大和王朝万世一系」に組み込むと同時に、神功の新羅征伐の史実を伝える示唆を与えている!
次回は、神功・応神母子の実年代を示す物的証拠「七枝刀」(考古学のお手柄です![]()
)について生野先生の文献史料の考察を紹介します。


