「ゆっくり解説(邪馬台国)」の中に「持衰(生野先生は「ちすい」と読んでありました)」が朝貢の使者に同行して乗船していたとの解説を見ました。
フォーネット2021年11月号に生野先生の「持衰」に関する考察内容が出ています。以前このブログの「フォーネット」でも2回に分けて記事の概要を紹介していますのでよかったら参照してください。
フォーネット2021年11月号①:消された奇習「持衰」
フォーネット2021年11月号②:「持衰」を担った氏族
とりあえず、今回は自分の復習をかねて少しまとめてみました。
1.「持衰」は朝貢使者には同行(乗船)していない。
その根拠→仮に渡航や帰国中に遭難した場合、その時点で使者らと運命(遭難死)を共にするはずで、また、渡航先で暴害に遭った場合も、持衰だけがわざわざ処刑の罰を受けるために帰還し復命(結果報告)するとは考えられない。
2.「持衰」は、平民や奴婢ではなく有力氏族の長だった。
その根拠①→「使者が遭難したり任務が果たせなった場合の罰として「持衰」は殺されるわけだが、身分の低い奴婢などを殺しても社会的影響や効果はなく無意味。
その根拠②→成功報酬に貰う「生口」とは奴婢ではなく、農民や職人などの「生民(平民)」だったと思われる。(領地民として活用できる人材?)
その根拠③→「持衰」はそもそも「倭王」の身代わりの役目をもっていた。もし、朝貢が失敗すればそれは倭王の力の衰えと見なされ倭王は交代(暗殺?)させられるハメになる。倭王交代のコスト(後継者決定に伴う混乱など)を解消するために考え出された「責任回避システム」が「持衰」であると考えると、それなりの身分、権力者だったはず。
3.「持衰」は、旧奴国王家の王族・氏族であった宗像氏や水間氏だった。
その根拠→『日本紀』の応神紀と雄略紀の記述は、使者が無事帰還する途中、筑紫の宗像氏と水間氏の所に立ち寄り、中国からの下賜品の一部や職女(兄媛)を分け与えたと書かれている。
ちょっとだけまとめてみようと思ったのですが、長い
ぜひ、フォーネット2021年11月号①『「消された奇習「持衰」』と、11月号②『「持衰」を担った氏族』を読んでみてくださいm(_ _)m