YouTubeやネット記事のコメントを見ていると、『三国志』東夷伝の「倭人伝」そのものを「文献に値しない」とか、「陳寿の創作した偽書」みたいに捉えている人も多いことに驚く
生野先生の著書『倭の女王 卑弥呼』の「はじめに」のなかに陳寿や「東夷伝」に関する考察内容があります。(以下、概要)
陳寿は当時の中国有識者から高く評価された人物で、その高い評価の一つが余計な説明がほとんど無い「簡潔な文章力」であった。
つまり、『三国志』が当時の有識者間で共有していた共通認識やルール・法則に則って書かれているという事を意味している。
『三国志』の簡潔さについて、陳寿没後137年目の元嘉六年(429年)に南宋の文帝があまりに簡潔すぎる点を裴松之に補わせた注釈本(百納本)が成立している。
その注釈における裴松之の姿勢は現在でも高く評価されているが、元朝の1317年に成立した『文献通行(巻191)』によればその注釈の字数は陳寿の本文の数倍にも及ぶという。
ところが、「東夷伝」に限ると陳寿の本文字数「6469字」に対して裴注(裴松之の注釈)の字数は「948字」でその比率は約14.7%となる。『三国志』全体の裴注が陳寿の数倍に及ぶのに対してこの「東夷伝」に関する注釈の少ない比率は何を意味しているのか?
ポイント!
①中国正史において「東夷伝」は初めて立てられた外国伝である。
②後漢時代頃まで朝鮮半島の大部分は漢王朝の領土であり、その中の諸民族は漢王朝統治下の異民族的な扱いだった。
③しかし、後漢末からそれらの諸民族が自立を始めた。(5か国)
④さらに、それに加えて三国魏朝がそれまで未知未踏の国だった挹婁国や列島の倭国へも初めて到達した!つまり、ここに初めて正史の『三国志』に外国伝としての「東夷七か国伝」が建てられることになった。
⑤その結果、「東夷伝」は5世紀の裴松之の注釈をほとんど必要としないほど陳寿によって詳細に書かれた。
ここで注目が、「倭人伝」。
「倭人伝」の全字数1984字に対して裴注の字数はわずか56字でその比率は6%しかない。
しかも、その注釈は「倭人伝」に書かれた「邪馬台国までの行路記事」の中には全く無い!
つまり、裴松之が「倭人伝」の行路記事に注釈を施さないでも当時の中国人有識者らの誰もが同じ方法で「倭人伝」読み、同一の理解のもと「邪馬台国の位置」を認識していたと考えられる!
「倭人伝」は信用できます!
・・・・行路の途中、迷子になっているのは現代人が当時のルールを無視して「邪馬台国探し」をしているからなんですねぇ
「東夷伝」にある3つの行路記述法「国境記述式(地名→方向→距離)、直線式記述法(方向→距離→地名)、放射線式記述法(方向→地名→距離)」のルールに気が付けば、現代人の私たちも迷子にならず邪馬台国に辿り着けます!